[CML 064479] FW: 歩く見る聞く 79 ●淀川校長は「生徒が死ぬような所へ二度とやらぬ」
motoei @ jcom.home.ne.jp
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2022年 5月 19日 (木) 23:00:27 JST
許可を得ましたので転送いたします(いしがき)
歩く見る聞く 79 (2022年5月17日)
あの日、冷たい雨が降っていた。長野県伊那市の伊那弥生ケ丘高校で2011年4月、映画監督の後藤俊夫さん(83)は温めてきた構想の撮影に入り、カメラマンを兼ねるプロデューサーに傘をかざしていた。その二人を高校生たちがすぐ後ろで見守っている。
後藤さんは山本薩夫監督の助監督を務めた。新聞記者時代に私が取材したのは、戦時中に同校前身の高等女学校の生徒と教師が勤労動員で遭遇した体験を映像に収める作業だ。
伊那高女の最上級4年生の270人は敗戦1年前の1944年8月、三菱重工業名古屋航空機製作所に動員された。そこで零戦や爆撃機の部品製造や組み立てに携わる。生徒は貴重な労働力になっていた。翌45年の3月13日昼過ぎ、敵機B29の爆撃でコンクリート片を頭に受けて飯島米子さんが即死し、もう一人が負傷した。
生徒を引率する淀川茂重校長は卒業式を工場で行った後、学校葬を執り行うためとして全生徒の一斉引き揚げを求める。「だめだ、困る」と渋る工場側を押し切って全員が伊那に帰る。
「全員一斉」がどんな重みを持つのか。卒業式と学校葬が終われば、上級学校進学か農業要員になる者以外は工場に戻って勤労を続ける義務が課されていたそうだ。
だが、いったん故郷に引き揚げた淀川校長は「生徒が死ぬような所へ二度とやらぬ」と腹をくくる。校長の強い意志を、行動を共にしていた白鳥傳教諭は感じ、戦後の記録集にそう記している。
工場から「戻れ」の督促は続くが、淀川校長は頑として譲らない。その姿に白鳥教諭は心を動かされた。「戦争に非協力といわれ、憲兵の厄介になっても生徒のためなら満足すべきだ」と記す。
戦時中の国策に逆らってでも、教師が体を張って更なる犠牲を食い止める。その姿勢に後藤監督は教育の真髄を見た。「国のための人づくりではなく、生徒の命を大事にする。それが本当の教育ではないか。個人を大切にする教育の基本が今おかしくなっているだけに強調したい」。取材にそう語っている。
「この伊那谷に戦争があったことを、戦争を全く知らない世代にも伝えたい」。そんな後藤さんの思いが込もるドキュメンタリー映画「いのちありて」はDVD版として2011年秋に完成している。
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後藤さんはUターンして故郷の伝統文化や戦争の記録に関心を寄せていた。学徒の勤労動員もいつか取り上げたいと考えていた。その彼に伊那高女の史実を伝えたのは、今月10日に90歳で亡くなった早乙女勝元さんだ。「これ知っているか。監督の地元(伊那谷)なので撮れるのではないかな」と持ち掛けたようだ。
早乙女さんは東京出身。『あゝ野麦峠』の山本茂実編集長の人生記録雑誌「葦」に「16歳で拾われた」という。20歳で書いた『下町の故郷』が直木賞候補に上り、その4年後の『ハモニカ工場』で作家として独立する。少年時代に遭遇した1945年3月10日未明の東京大空襲に生涯取り組んできたことで知られている。
伊那谷から取材に来た私に、早乙女さんは「信州には縁があってね」と語り出した。伊那高女の勤労動員の件は、信州佐久で2006年に開かれた教育研究集会の講演を頼まれた際の資料で知る。
この記録に胸が熱くなった早乙女さんは、講演の中で紹介する。「先生たちは同じ信州人とはいえ、初めて耳にしたのだろう。つきつめた表情で、身じろぎもせずに聞いて……」と書き残している。
同じ県内でも伊那と佐久は遠い。伊那高女の史実を初めて耳にした多くの教員の心を打ったに違いない。早乙女さんは教育を軸に二つの地域と時代を結んだことになる。
これを機に、私は早乙女さんを何回か訪れる。1944年に国民学校高等科1年(現在の中学1年)だった彼の空腹の話は強烈だ。「1学期だけ給食があって、コッペパンが一つ出た。隣の生徒と見比べて自分の方が小さいと大損をした気分になったのは、いまだ忘れられない」
その秋には勤労動員で鉄工所に駆り出された。「家から持っていった弁当箱を開けると、中身が半分ほどに寄っていて、やりきれなかった」。動員が休みの日には学校菜園の開墾に出る。その際、こんな出来事があったそうだ。
一緒に働いていたK君がトイレに行っている間に、おばさんが来て、おむすびを一つ渡してくれた。二人で食べなさいという意味だったのだろう。だが、「眼の前がくらくらするような空腹」だった勝元少年は、K君と入れ替わりにトイレに行き、おむすびを独り占めしてしまった。K君は翌年の東京大空襲で行方不明になった。
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1975年2月、早乙女さんは当時の北ベトナム政府の招きでハノイを初めて訪れる。北爆の傷跡を調べる目的だったが、ここでも戦時中の食糧事情が気にかかった。
ファム・バン・ドン首相の歓迎会で、餓死者200万人ともいわれる日本占領下の飢餓が話題に出る。日本人を前にそれ以上は話したがらないベトナムの若い行政委員に、「もっと詳しく」と早乙女さんは迫った。
それまでのフランスに代わり、日本がもみ米の供出を強要した。拒めば逮捕・拷問が待っている。凶作の年なのに飯米まで奪い取った--そんな話を聴いていて、早乙女さんはハッと思い出した。その米を食べたことがある!
敗色が濃くなるころ、勝元少年は長粒米が半分以上も交じる外米を食べていた。その米を机の上で振ると、虫(の死骸か)がたくさん含まれていた記憶があると振り返った。
「南京の蛮行(大虐殺)とは違うが、もっと大勢の餓死者をベトナムで出したことを私たちは心に刻みつけるべきではないか」。そして、早乙女さんは話をこう結んだ。「日本の生きる道は平和国家しかない。さもないと、国民の4割しか生きられない。10日分の食料のうち6日分は外国から来るのだから」
早乙女さんは自らの具体的な体験を広げて、人々の歴史を書き記していった。埋もれかけた史実に光を当てて、これを忘れてはいけないよ、と私たちに提示してきた。
後藤俊夫監督の心を動かして戦時中の史実を記録に留めた。私もその影響を受けた一人だ。早乙女さんの訃報に接して、そんな思いを噛みしめている。
田中 洋一
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