[CML 064605] テント日誌6月2日版

木村雅英 kimura-m @ ba2.so-net.ne.jp
2022年 6月 5日 (日) 22:19:19 JST


(転送します)

経産省前脱原発テント座り込み日誌2022年6月2日版

経産省前テントひろば、脱原発テント設置日(2011年9月11日)から1807日目(2016年8月21日)にテント強制撤去。2022年6月2日は、座り込み3,918日目。これは、マハトマ・ガンディー「非暴力、不服従」の実践です。

◎ 福島から持参されたバナーを飾り付けた 5月27日(金)前半(Y.M)
朝からお天気が気になる。午後から回復するようだが、内幸町の駅に着くと、思いもよらない土砂降りの雨。事務所に着くと、Mさんがドアの前に荷物を並べてくれていた。金曜日は抗議集会があるので、椅子はなるべく多く運びたいところだが、この雨ではそうはいかない。取り敢えず荷物を1階に降ろした。だが、外で台車に詰め込むと荷物が濡れてしまうので出発直前にやることにした。今日はリーダーのSさんとWaさんがお休み。Sさんは、5歳のお孫さんがコロナ陽性になり、娘さん夫婦も陽性になってしまったとのことで、とても心配されている。こんな時こそ行ってあげたいのに、まさにコロナは容赦なく人を分断させる。Yaさん、Saさんも加わり、出発時間に合わせて2つの台車に積んだ。
そして12時半。何と、雨がやんでいるではないか! やはり私達、普段の心がけが良いからかしらん!? 
経産省前ではYoさんも加わり、セッティング。しばらくすると、福島の女性6人が現れた。皆さん、ランチタイムスタンディングに参加されたそうだ。その時は土砂降りの雨だったので、「こんな時でもスタンディングやるの!?」という声も上がったそうだ。今日は18人の方が参加されたとのこと。皆さん、本当にお疲れさまでした。カンパも頂いた。
そして、テントでもお馴染みの黒田さんとお友達が椅子に座られた。昨日のこども甲状腺がん裁判では、傍聴できず残念そうだった。福島から来た人達をある程度でも優先させることはできないのだろうか? また、記者席は多かったそうだが、それならばメディアは真実をしっかりと伝え、その責任を果たしてほしいものだ。デリケートな問題を抱えているだけに、私達も未来を担っていく若者達をしっかり見守り、応援して行かなければと思う。
福島から持参されたバナーを中央に飾らせてもらった。カラフルな可愛いパッチワークの作品だ。”フクシマの子どもをヒバクから守ろう ひなん対策を?” と描かれている。一針一針に福島の方達の思いが込められているようで、元気が出そうだ。お二人でハイ、ポーズ!記念写真の出来上がり。
Yaさんが以前郡山の集会に行ったことを話すと、黒田さんはその時一緒に参加したSさん(今日お休み)のことを思い出されたようだった。そして、「郡山の金曜行動は月1~2回に減ってしまったけれど、是非また郡山に来てください」と言われ、お二人はランチに行かれた。人の繋がりの大切さを感じる。
その後、Obさん、Yoさん、Wさんが来られ、賑やかになった。(Y.M)

◎ 
放射線被爆の影響を隠すな~311子ども甲状腺がん裁判始まる~  5月27日(金)後半(K.M)
暖かな日差しを浴びながら経産省本館に向かって脱原発を訴えて抗議の座り込み。久々に「原発いらない金曜行動」チラシを撒くと、暖かいからか受取良好。遠く文科省抗議の声が止む頃、汚染水流すな・再稼動反対・老朽原発うごかすな・核のゴミ増やすな・…のコールとともに経産省抗議行動を開始。
311子ども甲状腺がん裁判で入れたのは、わずか27名(定員100名なのに東京地裁がコロナ理由に入場制限)。日比谷コンベンションホールでバンドゥーラ奏者カテリーナさんとお母さんの歌とお話を聴き、ウクライナの歴史・戦争反対・平和の大切さを実感。弁護団(中野さん、河合弘之さん、柳原さんほか)の報告とともに、原告の証言に涙と怒り、被告(東電)弁護団も次からの原告証言拒否できず。
Miさんが、TBS報道特集「原発事故と甲状腺がん」(5月21日放送)への批判が炎上していることを危惧、水俣病から政府・事業者側が隠してきた、内部被曝の問題に科学的に注目しよう。続いて、Taさんが、国鉄民営化・リニア中央新幹線を推進した極悪人葛西敬之JR東海名誉会長の死とリニアがストップする可能性を告げた後、福島の小児甲状腺がんの統計データに基づき県民健康調査と長崎大4人組の不当な放射線影響隠しを糾弾し、被災者に被ばくを押しつけるICRP新勧告を批判。Hoさんが重信房子の出所の報を告げ、経産省の前で毎日座り込んで脱原発を訴え戦争を終わらせることの重要性を強調。
Moさんが「座込め、ここへ」と「水に流すな」の歌とともに「放射能汚染水を海に流すな」と訴えた。Yoさんが、憲法9条を守ることが重要、自公政権批判、老朽原発を40年以上動かそうとすることが危険、電力逼迫に騙されてはいけない。私(K.M)から、高浜3号が蒸気発生器伝熱管の損傷で再稼動が数カ月遅れている、フランスでも原発56基のうち半分が運転停止しており老朽原発の寿命延長の為の点検で停止、40年ルールが重要、老朽原発の再稼動・運転期間延長を止めよう、「原発のない明日を老朽原発このまま廃炉!大集会inおおさか」が5月29日に開催される。
Raさんが、原発は事故が無くても、被爆労働によって原発が動き、核のゴミをどうするか未定、次の世代に負債を押しつける。戦争の時代を終わらせよう。権力にとって目障りな行動をし続けよう。最後に戦争反対・原発反対・…のコールで締めくくり、椅子類の片付け後、事務所でのテント運営会議もにぎわった。 (K.M)

◎ 最近の報道にうんざりだ  5月28日(土)(O・O)
モデルナアームから回復し体調は上々。けれども気分は重い。何故ならばウクライナ情勢にかこつけた軍事予算増大やら原発再稼働やらと、はしゃぎまくる報道に辟易。短絡というか長期的戦略不在の火事場泥棒的便乗に不安を感じる。軍事力を増やして再稼働して、それからどうする? 
何も考えていないだろうな。火事場といえば火事場の馬鹿力という言葉があるが、この国の現状に力というものはあるのだろうか。もしかして大国だと勘違いしてはいないか。
(O・O)

◎ 来年は、この辺はアザミだらけになる5月29日(日)(ケロップ)
快晴、暑い。アイスキャンディーをおごってくれた人がいて嬉し! 
車道ぎわのアザミは切り倒されました(泣) 
が、そのまま打ち捨てられてあったので、無数の綿毛(=種)が舞い始めていました! 
来年、この辺はアザミの林!(笑)
https://twitter.com/keroppu8649/status/1531508867276115969?s=21&t=D2edO7tKDkBoZHxO-ecf2A
(ケロップ)

◎ 暑いはずだ、気温は30℃、それがずぅっと続いた 5月30日(月)(保)
天気予報では気温が27,8度にもなるというので氷水を用意した。「福島原発事故・東電刑事裁判訴訟団の人々」らのチラシ撒きのお手伝いに行けるように、いつもより早く経産省前へ向かった。他の人も同じだったようで、我々のすぐ後に来られ、座り込み準備は順調に進んで、12時前に終えることができた。直ぐに、相棒のSaさんと川崎のMiさんには、高裁前に行ってもらった。
やけに暑いので、温湿度計を見たら、気温30℃、湿度30%。この数字は、座り込みが終わるまで変わらなかった。しかし、パラソルのお陰で暑さを凌げました。風も強く人が座っていないとパラソル付きの椅子は直ぐに倒されるので、高裁前に行った2人のパラソルは閉じておきました。
午後1時過ぎに高裁前に行った2人が帰ってきました。黒田さんが忘れたという折り畳み傘を持っていって貰ったのですが、「生憎、黒田さんは来ていなかった」といって持ち帰ってきました。福島原発事故・東電刑事裁判訴訟団の人々らとは久し振りの対面で感激していました。
 この暑い中でも10人が座り込んでくれました。右目の白内障手術を受けたTさんも久し振りに顔を見せてくれました。Onさんが持って来てくれたCD「カントリーウエスタン」が心地よかったです。(保)

◎ 「水俣と福島」のチラシが常備されている 5月31日(火)(Y・R)
今にも、雨が降りだしそうな空もよう、気温も昨日とは10度は低いと思われる、上着を着ていて丁度いい一日だった。当番の3人での静かなスタート、「311甲状腺がん子ども支援ネットワーク」より送られてきた、6月11日(土)立教大学タッカーホールにて開催される「水俣と福島」のチラシをテーブルの上に常備されているチラシ集の中に差し込んだ。その作業が完了すると間もなく「福島原発事故・東電刑事裁判訴訟団」の人達が東京高裁前で行っているランチタイムスタンディングに参加されたヨーカンさんが来られ、「きょうのランチタイムスタンディングの参加者は18名でした」と報告がありました。
明日も明後日もあるそうなので、座り込み者は最小限にして参加にご協力をお願い致します。その後は準レギュラーのOkさんも座り込みに参加してカンパまで頂きました。 (Y・R)

◎ 裁判所前のランチタイムスタンディングは続いている  6月1日(水) (T・I)
当番のIsとTが着くと高級自転車のYさんが待っていてくれた。Yさんは今日は3時間かけて歩いて来たそうだ。セッティングをしているところに韓国人のCさんが来られた。原発反対とテントの行動を知りたいとのこと。セッティングが終わったので、IsさんとCさんは裁判所前の東電刑事訴訟のランチタイムスタンディングに行った。
裁判所から戻ってきた中に当番のOさんもいた。先週の水曜日に続いて、今日も参加。韓国人のCさんは座り込みの人たちに次々と話を聞いていた。Cさんは「座り込みの人たちが、それまでの職業も違うし、座り込みをし始めた日時や動機・きっかけも違うことに驚いた」と言っておられた。Ynさんもランチタイムスタンディングからここへ。いつものように倉田さんとヨーカンさんが原子力規制庁から回って来られる。ヨーカンさんは誰とでもすぐに親しくなるので、Cさんは「まるで旧知のようだ」と言われた。それから、保っちゃんのパンももらう。
9条改憲阻止の会の人たちが会議の前に座り込み。マリさんはお休み。通りがかりの女性が「なんで座り込みをしているのか」を聞いてきて、座り込んでくださった。金曜日の常連さんも来られたので16名くらいか。今日は、夜は東海第二原発再稼働反対と東電抗議がある。継続は力だ。(T・I)

◎「暑いね」が挨拶代わりになる日々がやってきた 6月2日(木)(I.K)
経産省前について第一声が「暑いね!」だった。真夏のような暑さの中、セッティング終わって、Yさんは急いで、高裁前で行われている福島原発経費裁判のランチタイムスタンディングに駆け付けた。
ヨーカンさんに留守を頼んで、少し遅れて私もランチタイムスタンディングに参加した。水曜当番のTさんも来ていた。福島からは、武藤さんはじめ数人の人が来ていた。元原子力資料情報室の澤井さんの司会で、参加者が次々「6月6日に結審するな!公正な裁判を!」と発言をした。
途中、海渡弁護士も参加されて、6月17日に国の賠償責任の判断が下され、7月13日には東電株主代表訴訟の判決が下されることなど、色々を話す。
参加者50人位とのこと。
テントに戻ってしばらくすると武藤さん他数人が食事に行く途中、立ち寄ってくれた。武藤さんは帰りにもまた寄ってくれたそうです。励みになりますね。午後1時半頃、長老Syさんが来て読書に励んでいた。午後2時になって、遅番の人が来たので、ヨーカンさんと私はテントを離れた。
高裁前ランチタイムスタンディングは明日最後です。都合のつく方是非ご参加を!
先日来、話題になっていた福島の人の忘れものの傘、今日、Yさんが福島の人に預けたそうです。
持ち主が判ると良いけど・・・・(I.K)

=====投稿=====
3・11子ども甲状腺がん裁判を傍聴して(転載)
 漆原牧久(たんぽぽ舎ボランティア)

5月26日、東京電力福島第一原発事故による放射線被ばくの影響で甲状腺がんになったとして、事故時に未成年で福島県内に住んでいた男女6人が、東電に損害賠償を求めた訴訟の第1回口頭弁論が東京地裁で開かれました。私は支援団体の「シンボルカラーの緑色を身に着けて参加を」という呼びかけに応じて、緑色のバンダナを左腕に巻いて地裁前での入廷行動に参加した後、抽選で傍聴券を入手し法廷に入りました。弁護団の主旨説明の後、原告の20代女性がパーテーションで囲われた席で意見陳述しました。
震災当日は、中学校の卒業式だったそうです。その後、甲状腺がんが見つかり、つらい治療を受けた後、肺への転移などで手術を2度受け、大学を中退せざるを得なくなりました。「病院に行っても、同じ年代の医大生とすれ違うのがつらい。同じ年代なのに、私も大学生だったはずなのにと思ってしまう」と複雑な胸の内も語りました。「家族に迷惑をかけて申し訳ない」とも言いました。発病したのは彼女の責任ではないのに。女性は、落ち着いた口調ながら、時折悲しみがこみ上げた際には声を詰まらせ、数秒中断する場面も挟み、最後は「元の身体に戻りたい。そう願っても、もう戻ることはできない。裁判を通じて補償が実現することを願います」という言葉で陳述を締めくくりました。東京新聞は、その際「傍聴席からすすり泣く声が漏れた」と伝えていますが、私も傍聴席ですすり泣きの声を漏らした一人です。この裁判のことを一人でも多くの人に伝え、共感を広げ、彼らを勝たせたい。そして、彼らのような悲しい思いをする若者を、もうこの先、生み出さないよう、すべての原発をなくさなければならない。その思いを新たにしています。以下、この日の原告女性の陳述全文をご紹介します。       
    *    *    *                 
 あの日は中学校の卒業式でした。友だちと「これで最後なんだねー」と何気ない会話をして、部活の後輩や友だちとデジカメで写真をたくさん撮りました。そのとき、少し雪が降っていたような気がします。
地震が来た時、友だちとビデオ通話で卒業式の話をしていました。最初は、「地震だ」と余裕がありましたが、ボールペンが頭に落ちてきて、揺れが一気に強くなりました。
「やばい!」という声が聞こえて、ビデオ通話が切れました。「家が潰れる。」揺れが収まるまで、長い地獄のような時間が続きました。
原発事故を意識したのは、原発が爆発した時です。「放射能で空がピンク色になる」そんな噂を耳にしましたが、そんなことは起きず、危機感もなく過ごしていました。
3月16日は、高校の合格発表でした。地震の影響で電車が止まっていたので、中学校で合格発表を聞きました。歩いて学校に行き、発表を聞いた後、友達と昇降口の外で、ずっと立ち話をして、歩いて自宅に戻りましたが、その日、放射線量がとても高かったことを私は全く知りませんでした。
甲状腺がんは県民健康調査で見つかりました。この時の記憶は今でも鮮明に覚えています。その日は、新しい服とサンダルを履いて、母の運転で、検査会場に向かいました。検査は複数の医師が担当していました。検査時間は長かったのか。短かったのか。首にエコーを当てた医師の顔が一瞬曇ったように見えたのは気のせいだったのか。検査は念入りでした。
私の後に呼ばれた人は、すでに検査が終わっていました。母に「あなただけ時間がかかったね」と言われ、「もしかして、がんがあるかもね」と冗談めかしながら会場を後にしました。この時は、まさか、精密検査が必要になるとは思いませんでした。
精密検査を受けた病院には、たくさんの人がいました。この時、少し嫌な予感がしました。血液検査を受け、エコーをしました。やっぱり何かおかしい。自分でも気づいていました。そして、ついに穿刺吸引細胞診をすることになりました。この時には、確信がありました。私は甲状腺がんなんだと。
わたしの場合、吸引する細胞の組織が硬くなっていたため、なかなか細胞が取れません。首に長い針を刺す恐怖心と早く終わってほしいと言う気持ちが増すなか、3 
回目で、ようやく細胞を取ることができました。
10日後、検査結果を知る日がやってきました。あの細胞診の結果です。病院には、また、たくさんの人がいました。結果は甲状腺がんでした。
ただ、医師は甲状腺がんとは言わず、遠回しに「手術が必要」と説明しました。その時、「手術しないと 
23 歳までしか生きられない」と言われたことがショックで今でも忘れられません。
手術の前日の夜は、全く眠ることができませんでした。不安でいっぱいで、泣きたくても涙も出ませんでした。でも、これで治るならと思い、手術を受けました。
手術の前より手術の後が大変でした。目を覚ますと、だるさがあり、発熱もありました。麻酔が合わず、夜中に吐いたり、気持ちが悪く、今になっても鮮明に思い出せるほど、苦しい経験でした。今も時折、夢で手術や、入院、治療の悪夢を見ることがあります。
手術の後は、声が枯れ、3 ヶ月くらいは声が出にくくなってしまいました。
病気を心配した家族の反対もあり、大学は第一志望の東京の大学ではなく、近県の大学に入学しました。でも、その大学も長くは通えませんでした。甲状腺がんが再発したためです。
大学に入った後、初めての定期健診で再発が見つかって、大学を辞めざるをえませんでした。「治っていなかったんだ」「しかも肺にも転移しているんだ」とてもやりきれない気持ちでした。「治らなかった、悔しい」この気持ちをどこにぶつけていいか、わかりませんでした。「今度こそ、あまり長くは生きられないかもしれない」そう思い詰めました。
1回目で手術の辛さがわかっていたので、また同じ苦しみを味わうのかと憂鬱になりました。手術は予定した時間より長引き、リンパ節への転移が多かったので、傷も大きくなりました。
1回目と同様、麻酔が合わず、夜中に吐き、痰を吸引するのがすごく苦しかった。2回目の手術をしてから、鎖骨付近の感覚がなくなり、今でも触ると違和感が残ったままです。
手術跡について、「自殺未遂でもしたのか」と心無い言葉を言われたことがあります。自分でも思ってもみなかったことを言われて、とてもショックを受けました。手術跡は一生消えません。それからは常に、傷が隠れる服を選ぶようになりました。
手術の後、肺転移の病巣を治療するため、アイソトープ治療も受けることになりました。高濃度の放射性ヨウ素の入ったカプセルを飲んで、がん細胞を内部被曝させる治療です。
1回目と 2 
回目は外来で治療を行いました。この治療は、放射性ヨウ素が体内に入るため、まわりの人を被ばくさせてしまいます。病院で投薬後、自宅で隔離生活をしましたが、家族を被ばくさせてしまうのではないかと不安でした。2回もヨウ素を飲みましたが、がんは消えませんでした。
3回目はもっと大量のヨウ素を服用するため入院することになりました。病室は長い白い廊下を通り、何回も扉をくぐらないといけない所でした。至る所に黄色と赤の放射線マークが貼ってあり、ここは病院だけど、危険区域なんだと感じました。
病室には、指定されたもの、指定された数しか持ち込めません。汚染するものが増えるからです。病室に、看護師は入って来ません。医師が1日1回、検診に入ってくるだけです。その医師も被ばくを覚悟で検診してくれると思うと、とても申し訳ない気持ちになりました。私のせいで誰かを犠牲にできないと感じました。
薬を持って医師が 2、3 
人、病室に来ました。薬は円柱型のプラスチックケースのような入れ物に入っていました。
薬を飲むのは、時間との勝負です。医師はピンセットで白っぽいカプセルの薬を取り出し、空の紙コップに入れ、私に手渡します。
医師は即座に病室を出ていき、鉛の扉を閉めると、スピーカーを通して扉越しに飲む合図を出します。私は薬を手に持っていた水と一緒にいっきに飲み込みました。
飲んだ後は、扉越しに口の中を確認され、放射線を測る機械をお腹付近にかざされて、お腹に入ったことを確認すると、ベッドに横になるように指示されます。
すると、スピーカー越しに医師から、15 
分おきに体の向きを変えるように指示する声が聞こえてきました。食事は、テレビモニターを通じて見せられ、残さずに食べられるか確認し、汚染するものが増えないように食べられる分しか入れてもらえません。
その夜中、それまではなんともなかったのに、急に吐き気が襲ってきました。すごく気持ち悪い。なかなか治らず、焦って、ナースコールを押しましたが、看護師は来てくれません。
ここで吐いたらいけないと思い、必死でトイレへ向かいました。吐いたことをナースコールで伝えても、吐き気どめが処方されるだけでした。時計は夜中の2時過ぎを回り、よく眠れませんでした。
 次の日から、食欲が完全に無くなり、食事ではなく、薬だけ病室に入れてもらうことのほうが多かったです。2日目も 
1、2 回吐いてしまいました。
私は、それまでほとんど吐いたことがなく、吐くのが下手だったため、眼圧がかかり、片方の目の血管が切れ、目が真っ赤になってい 
ました。扉越しに、看護師が目の状態を確認し、目薬を処方してもらいました。
病室から出られるまでの間は、気分が悪く、ただただ時間が過ぎるのを待っていました。
病室には、クーラーのような四角い形をした放射能測定装置が、壁の天井近くにありました。その装置の表面の右下には数 
値を示す表示窓があり、私が近づくと数値がすごく上がり、離れるとまた数値が下がりました。
こんなふうに 3 
日間過ごし、ついに病室から出られる時が来ました。パジャマなど身につけていたものは全て鉛のゴミ箱に捨て、ロッカーにしまっていた服に着替えて、鉛の扉を開け、看護師と一緒に長い廊下といくつもの扉を通って、外に出ました。
治療後は、唾液がでにくいという症状に悩まされ、水分の少ない食べ物が飲み込みづらくなり、味覚が変わってしまいました。
この入院は、私にとってあまりにも過酷な治療でした。二度と受けたくありません。
そんな辛い思いをし 
たのに、治療はうまくいきませんでした。治療効果が出なかったことは、とても辛く、その時間が無駄になってしまったとも感じました。以前は、治るために治療を頑張ろうと思っていましたが、今は「少しでも病気が進行しなければいいな」と思うようになりました。
 病気になってから、将来の夢よりも、治療を最優先してきました。治療で大学も、将来の仕事につなげようとしていた勉強も、楽しみにしていたコンサートも行けなくなり、全部、諦めてしまいました。
でも、本当は大学を辞めたくなかった。卒業したかった。大学を卒業して、自分の得 
意な分野で就職して働いてみたかった。新卒で「就活」をしてみたかった。友達と「就活どうだった?」とか、たわいもない会話をしたりして、大学生活を送ってみたかった。今では、それは叶わぬ夢になってしまいましたが、どうしても諦めきれません。
一緒に中学や高校を卒業した友 
達は、もう大学を卒業し、就職をして、安定した生活を送っています。そんな友達をどうしても羨望の眼差しでみてしまう。友達を妬んだりはしたくないのに、そういう感情が生まれてしまうのが辛い。
病院に行っても、同じ年代の医大生とすれ違うのがつらい。「同じ年代なのに、私も大学 
生だったはずなのに」と思ってしまう。
通院のたび、腫瘍マーカーの「数値が上がってないといいな」と思いながら病院に行きます。でも最近は毎回、数値が上がっているので、「何が悪かったのか」「なぜ上がったのか」とやるせない気持ちになります。
体調もどんどん悪くなっていて、肩こ 
り、手足が痺れやすい、腰痛があり、すぐ疲れてしまいます。薬が多いせいか、動悸や、一瞬、息がつまったような感覚に襲われることもあります。また、手術をした首の前辺りがつりやすくなり、つると痛みが治まるまで、じっと耐えなくてはなりません。 

自分が病気のせいで、家族にどれだけ心配や迷惑をかけてきたかと思うと、とても申しわけない気持ちです。もう自分のせいで家族に悲しい思いはさせたくありません。
もとの身体に戻りたい。そう、どんなに願っても、もう戻ることはできません。この裁判を通じて、甲状腺がん患者に対する補償が実現することを願います。

=====デモ・集会のおしらせ====
★ 6月7日(火) 東京高裁:東電刑事裁判第2回公判:時間未
★ 6月8日(水)原子力規制委員会前  12:00~13:00
★ 6月10日(金)経産省前抗議行動(17時~18時)(毎週)
★ 
「とめよう!東海第2原発首都圏連絡会」では6月10日~6月12日に「第4波、一斉行動」を行います。
どこかで参加を!たんぽぽ舎
日 時:6月10日~12日(金~日) 14時~15時15分
 場 所:JR御茶ノ水駅の3ヵ所の出入り口
       (お茶の水橋口、聖橋口、地下鉄千代田線連絡口)
★ 6月21日(火) 福島原発被害東京訴訟 第一陣控訴審
口頭弁論及び報告会 14時~ 東京高裁101号室
★ 6月26日(日)テント青空川柳句会12~15時 選者:乱鬼龍




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