[CML 063712] ドンバスの組合リーダーへの独占インタビュー(上)

yorikazu shimada ningen @ hotmail.com
2022年 2月 28日 (月) 20:44:28 JST


ドンバスの組合リーダーへの独占インタビュー

ブラジルの社会主義者のサイトに掲載されたウクライナ東部ドンバス地域のルガンスク共和国の労働組合活動家の2019年のインタビューの翻訳です(公開は2020年5月)。この地域にソ連社会主義の歴史が根強く残っていおり、そのことがウクライナ政府やネオナチ、それを支援する米欧から敵視され殲滅がめざされる理由(あるいはロシアの親米反戦派や日本の親米護憲派に無視される理由)になっていることがわかります。長いので二つに分けます。 嶋田

http://novaresistencia.org/2020/05/20/an-exclusive-interview-with-a-donbass-union-leader-andrey-kotchetov/


ドンバスの組合リーダー(アンドレイ・コチェトフ)への独占インタビュー

以下は、ドンバス州ルガンスク共和国の重要な組合リーダーであるアンドレイ・コチェトフ氏への独占インタビューである。

コチェトフ氏は(ドンバス住民全体と同様に)、しばしばウクライナ政府から「テロリスト」や「分離主義者」のレッテルを貼られている。このインタビューでは、ウクライナ政府(この政府は、米国から資金と武器を得ている)からしばしば爆撃を受けるドンバス住民の闘いについて語られている。

2019年5月

聞き手 まずはじめに、あなた自身のことを少し話していただけますか。ご出身はどちらですか。紛争が始まる前はどんな仕事をしていたのか、それが人生にどんな影響を与えたのか・・・。

コチェトフ 私にインタビューするんですか。

はいはい、大丈夫ですよ。覚えていますか・・・私たちは自由な国に住んでいます。ここは人民共和国ですから、大丈夫です。

知っての通り私の名前はアンドレイ・K、正確には覚えていませんが、50歳くらいでしょうか。そんなことは重要じゃない(笑) 。ええ、この状況になる前は、革新的な起業家や中小企業の労働組合のリーダーをしていました。組合員数はかなり多く、1万人以上いました。ルハンスク全域で活動していましたが、2013年に戦争が始まり、私たちの領土は2つに分断されました。

まず言いたいのは、戦争が私たちの生活をすべて変えてしまったということです。つまり、今ルハンスクに住んでいる人たちはとてもひどい状況だったのです。私たちの生活を守るために税金を払い続けた自国の軍隊であるウクライナ軍が、私たちを撃ち始めたというのは、私たちにとって異常で、奇妙で、恐ろしいことでした。

聞き手 そうですね。

コチェトフ ひどい状況でした。信じられないような状況で、私たちにはとても理解しがたいことでした。彼らは大砲を使い、民間人に対して多くの犯罪を犯しました。ですから、私たちの生活はすべて、戦前と戦後の2つに分かれたと言えるでしょう。そして、私たちは戦争に対する準備ができていなかったので、非常に困難な状況でした。このような状況になるとは思ってもみなかったので、7月、8月と、大変なことをして過ごしていたのです。

聞き手 2014年のことですよね。

コチェトフ そうです。というのも、ウクライナ政府が我々を完全に孤立させたんです。年金生活者、若い母親、子どもなど、誰に対しても突然、支払いがなくなった。2014年の7月、8月、9月、10月、11月は、最もひどかった。店やスーパーに食料がなかったんです。人々にお金がない。とてもひどい状況でしたから、労働組合は人々や年金受給者に向けた資金繰りを組織しなければなりませんでした。

私たちは市民のリストを作りました。年金生活者を探すために通りを走り回りました。労働組合としては異例の、非常に困難な作業でしたが、人々を支援する必要があったのです。その後、私たちは仕事を組織化しました。国と組合は一緒に育ちました。私たちは経済を再建しようとしました。すでに言ったように、ウクライナ政府は銀行システム、経済的孤立、金融的孤立、あらゆる種類の孤立を彼らは私たちに対して押し付けたのです。

そして、多くの人々が、起こったことをいまだ信じられずにいます。私たちは一つの国民であり、一つの言語を持ち、一つの宗教などをもって生活していたからです。だから多くの人々が、起こったことをいまだ信じられずにいるのです。しかし、5年経ったいま、私たちはすでに、かつて自分たちがウクライナの一部であったことを完全に忘れています。なぜなら、彼らは私たちをロシアの側に押しやるためにあらゆることを行ったからです。

だから、プーチン大統領がロシア連邦のパスポートを与えることを決めたことを、私たちの国民は本当に喜んでいます。いま多くの人が身分証明やパスポートを持つ権利を持っています。私たちは世界から切り離されたくありません。いずれにせよ、ドネツクとルハンスクの両共和国に約500万人の人々が住んでいて、ヨーロッパ諸国から完全に遮断されているというのは、非常におかしな状況です。

なぜ、そんなことが可能なのだろうか。西ヨーロッパの人々は誰も私たちのことを話したがらないので、ロシア連邦の支援だけが私たちを本当に助けてくれているのです。西ヨーロッパの人々は、私たちはすべて分離主義者であり、テロリストであると言っている。しかし、それは信じがたいことです。ここには多くの人々がいます。年金生活者、子供、若い母親、若い父親、労働者、単純労働者、学生・・・そして全員がテロリストだと言うんです! 私には、それはあまりにも愚かで、ダブルスタンダードだと思います・・・多分もっと聞きたいことがあるんでしょう。 

聞き手 そうですね。ブラジルのほとんどの人は、問題の始まりについて何も知らないんです。もちろん、ウクライナのマイダンのことは知っていますが、欧米のメディアはマイダンを非常に肯定的に描いています。腐敗やその他に対する抗議行動ということになっているからです。では、どのように始まったのでしょうか。マイダンの大きな問題点は何だったのでしょうか。反マイダンの人たちは何に対して抗議していたのか、わかりやすく説明してください。

コチェトフ そうですね、非常に興味深い状況です。というのもメディアは一面だけを見せたいのです。ドンバスは工業地帯です。200年前に工業地帯としてできました。マイダンの期間中、私たちは働いていました。12月、1月、2月・・・少なくともマイダンは3ヵ月は続いたんです。そして、ウクライナ西部の大学から、当局の援助を受けて、多くの学生がマイダンに派遣され、マイダンを支援したことも知っています。

たとえば、マイダンの2〜3週間前に、ある代議士がビデオを見せました。それは、アメリカ合衆国が外交貨物として大きな輸送機や飛行機などを送ったという証拠でした。また、この代議士は、ウクライナに巨額の現金が送られたことも話していました。彼らは本当に何かを組織化したかったようです。しかし、国会議員たちは皆、そのことを笑っていました。しかし、マイダンでは、すべてが非常によく組織化されていたことを私たちは知っています。食事もそうです。当時のドンバスの人々はまだ仕事を続けていて、学生たちは講義を受けていた。

私たちはマイダンに関与していません。確かに、マイダンを支持するおかしな人たちはいましたが、私たちは大反対でした。そして、マイダンの特筆すべき特徴は、そのイデオロギーです。なぜなら、私たちはソビエトの歴史を持つ国民だからです。赤軍の退役軍人を支援し、5月9日の戦勝記念日を祝いたいのです。

しかし、マイダンの人々は、カナダからいわゆるウクライナ・イデオロギーを持ってこようとします。第二次世界大戦後、ウクライナ西部から多くの人々がカナダに渡ったため、彼らはカナダの政治に深く入り込んでいます。こうした人々は別のイデオロギーを持つウクライナ人です。そして、彼らは、私たちに敵対するこのイデオロギーを支援するために、ウクライナ西部に多額の資金を送りました。つまり、マイダンがウクライナに新しいイデオロギーを持ち込んだと言えるでしょう。

私たちは完全にこのイデオロギーに反対です。決して受け入れることはありません。だから私たちは住民投票を組織しました。ドンバス地域全体、つまりルハンスク州、ドネツク州などがこの住民投票に参加し、90%以上の人々が新しいイデオロギーに「ノー」と答えました。

私たちは父や祖父の世代に共感しており、かれらを決して裏切るつもりはないからです。つまり、私たちはウクライナの新政権に意見を聞いてもらい、私たちはここにいて、新しいイデオロギーに反対していることを伝える機会を得たかっただけなのだと言うことができます。

しかし、私たちはウクライナに反対していたわけではありません。あなたにお見せしたかどうかは忘れましたが、ルハンスクには今でもウクライナ語の劇場があり、俳優がウクライナ語で演技をしています。ですから、私たちはウクライナ文化に反対していたわけではありません。そんなことは不可能です。なぜなら、私はウクライナ人であり、母も父もウクライナ人だからです。ウクライナ人と戦うなんてできるでしょうか。

私たちはあるイデオロギーと戦っているのです。それは私たちにとってナチ・イデオロギーなのです。なぜなら、彼らはウクライナが、そしてウクライナだけがすべてに優先すると言っていますが、私たちはそうは思いません。

ソ連時代、とくに第二次世界大戦中、ソ連政府が、ソ連の他の地域から多くの人々をドンバスに送ったからです。ロシア、カザフスタン、ウズベキスタン、タタールスタンなどです。そして、多くの人々が今でも親族や子どもたちと一緒にそこに住んでいるのです。彼らがウクライナ人ではないとどうして言えるのでしょうか。

彼らはウクライナ市民であり、ウクライナという国家を受け入れているのです。彼らは決してウクライナと戦うつもりはありませんでしたが、ウクライナ人は言いました。「あなたたちはここでは誰でもない。家に帰れば正しい言葉を使っていない」。だから、私たちとしては、マイダンによってもたらされたナチスのイデオロギーに立ち向かっていると言えるでしょう。

聞き手 つまり、民族紛争と表現するのは正しくないということですね。むしろイデオロギー的な対立ということでしょうか。

コチェトフ そうです、まさにイデオロギー的な紛争です。

(続)


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