[CML 061928] 【今日のブログ記事】■2021年6月21日講演会「ミッテランはいかにして野党をまとめて政権を奪還したのか?」 ポイントまとめ (No1)

山崎康彦 yampr7 @ mx3.alpha-web.ne.jp
2021年 6月 25日 (金) 09:11:27 JST


いつもお世話様です!                         

【杉並からの情報発信です】【YYNews】【YYNewsLive】を主宰する市民革命派ネットジャーナリスト&社会政治運動家の山崎康彦です。    

昨日木曜日(2021.06.24)夜に放送しました【YYNewsLiveNo.3258】の『今日のメインテーマ』を加筆訂正して【今日のブログ記事】にまとめました。

【放送録画】80分12秒

http://twitcasting.tv/chateaux1000/movie/689171521

【今日のブログ記事No.3668】

■2021年6月21日講演会「ミッテランはいかにして野党をまとめて政権を奪還したのか?」  
ポイントまとめ (No1)

●フランス・ミッテラン政権40周年特別講演会

「ミッテランはいかにして野党をまとめて政権を奪還したのか?」

【画像】ミッテラン大統領

2021年6月21日(月)16時30-19時

主催:村山首相談話を継承し発展させる会

場所 衆議院第一議員会館・地下1階・大会議場

特別講演 吉田 徹(同志社大学教授)

●以下は吉田徹教授の講演内容のポイントです。

▲ミッテランはなぜ勝利できたのか?

・大統領選第1回投票(1981年4月26日)

ジスカール・デスタン (中道UDF): 28.3%

ミッテラン (社会党): 25.85%

シラク (保守RPR): 18%

マルシェ (共産党:15%

・決選投票 (1981年5月10日)

ミッテラン: 51.8%

ジスカール・デスタン: 48.2%

「人民戦と戦後開放以来、社会的多数派に政治的多数派が追いついた」(就任演説)

・社会党の「乗っ取り」:第一書記選出(1971年)

・共産党との「共闘」:「社共共同政策綱領」(1972年)

・諸左派の「統合:「社会主義会議」(1974年)

・保守分裂:ドゴール派(シラク)とジスカール(中道)の確執

▲1981年5月10日の衝撃

・23年ぶりの政権公約

・社会党と共産党の連立政権

・「一国社会主義」の実験

・革新的な公約

▲フランスのための110の公約

・第三世界諸国への支援の拡大

・「ソーシャルヨーロッパ」の推進

・公共部門による雇用創出

・最低賃金、老齢年金、家族手当等の引き上げ

・金融・産業部門の国有化

・労働時間の短縮

・労働組合の代表権強化

・軽減税率の導入

・富裕税の創設

・大統領の任期短縮、比例代表制の導入

・死刑の廃止

・男女平等措置

・被選挙権の引き上げ

・地方分権の推進

・メデイア・ラジオの自由化

▲社会党「80年代フランスのための社会主義プロジェクト」

・「経済・産業」五大産業グループ、二大金融機関、36銀行の国有化

・「司法」死刑廃止と刑罰適用の緩和

・「健康保険」医療局長の院内投票選出、社会保険会計への労組参加

・「企業」企業内委員会の設置と労組代表の参加

・「社会」老齢年金・最低賃金・家族手当引き上げ、労働時短、定年引き下げ、有給休暇増

・「教育」ENAへの一般公務員・労組出身者選抜、高等教育のカリキュラム多様化

・「メデイア」「視聴覚監視機関」によるメデイアの自由化

・「外交」第三世界主義・対米自律、ソーシャルヨーロッパの実現

▲(参考資料) フランソワ・ミッテランとは? (Wikipediaより抜粋)

https://bit.ly/3qm3hLT

フランソワ・モリス・アドリヤン・マリー・ミッテラン(フランス語:Francois 
Maurice Adrien Marie Mitterrand、1916年10月26日 - 
1996年1月8日)は、フランスの政治家。2期14年に渡って第21代フランス大統領、アンドラ共同大公を務めた。
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第21代大統領

任期 1981年5月10日-1995年5月17日

首相     ピエール・モーロワ
         ローラン・ファビウス
         ジャック・シラク
         ミシェル・ロカール
         エディット・クレッソン
         ピエール・ベレゴヴォワ
         エドゥアール・バラデュール
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生い立ち

1916年10月26日にシャラント県ジャルナックにて、カトリックの家庭に出生する。父のジョゼフ・ミッテランは鉄道会社に勤め、アングレーム駅長を務めたが、一時保険業を営んだ後、岳父が所有する酢製造所の経営を引き継ぎ、全国酢製造業者連合の会長も務めた。当初青年右翼であったミッテランは1934年から極右運動に参加し、当時外国人排斥や王制復古を謳っていた右派の政治組織クロア・ド・フーに所属した。同年、バカロレアを取得し、パリ大学の文学部及び法学部に学ぶ。

1937年にパリ政治学院の前身・自由政治科学学院 (Ecole libre des sciences 
politiques) を修了し、また同年に公法修士号を取得した。
ヴィシー政権

1939年9月にフランスの第二次世界大戦参戦を受けて軍隊に召集される。その後負傷してドイツ軍の捕虜となるものの、1941年12月に逃走に成功してフランスに帰還。1942年からはフィリップ・ペタンが首班を務める親独政府であるヴィシー政権下で働き、1943年8月16日には、戦前の国家主義活動やヴィシー政権への積極的な傾倒ぶりが認められ、勲章を授与される。

ド・ゴール政権

しかし同年12月には対ドイツレジスタンス運動に参加し、地下運動を始め、ロンドンに逃亡。1944年にはド・ゴールの臨時政府に参加した。1944年10月28日にダニエルと結婚した。

1946年にニエーヴル県選出の国民議会議員となり、植民地相、国務相、法相などを歴任し、第四共和政期の10年あまりをほぼ閣僚として過ごす。この間、フランスが植民地の独立運動に直面していた1953年には、「ビゼルトからカサブランカまで、北アフリカにおけるフランスの影響力の維持は私にとってあらゆる政治問題の中でも一番の課題である」と表明し、翌1954年にアルジェリア戦争が勃発した際には、国民議会において「アルジェリアの反徒は戦争という最終形態しか見出せないのだ」と発言、反徒を射殺することを命じ、独立運動の鎮圧を図った。

ジャック・マシュ将軍がアルジェの戦いにおいてアルジェリア民族解放戦線 (FLN) 
メンバーの尋問の際に拷問を組織的に行ったのは、とりわけミッテランの命令をうけたものだとされている。

1959年、シャトー=シノン市長に就任(1981年まで)。

大統領選挙

1965年には、左派統一候補として大統領選挙に挑み、シャルル・ド・ゴールと対決して結果的には敗れたが、決選投票において1061万9735票 
(44.80パーセント) を獲得した。1971年社会党第一書記に選出される。

その後、ド・ゴールの後を継いだジョルジュ・ポンピドゥ大統領の任期半ばの急死をうけて行われた1974年の大統領選挙でも再び決選投票に持ち込み、1297万1604票 
(49.19パーセント) 
を得たものの、1339万6203票(50,81パーセント)を得たヴァレリー・ジスカール・デスタンに僅差で惜敗する。

大統領就任

ジスカールデスタンと再び争った次の1981年の大統領選挙では1570万8262票 
(51.76パーセント) 
を得て勝利、第21代大統領に就任。フランス共産党との連立でピエール・モーロワ内閣を成立させ、有給休暇の拡大・法定労働時間の削減・ラジオ及びテレビの自由化・大学入試の廃止・死刑制度の公式廃止を行うとともに私企業の国有化や社会保障費の拡大をはじめとする社会主義的政策を取った。このため、ギー・ド・ロチルド、ベルナール・アルノーら多くの企業家たちがフランスを出国する事態となった。

しかし翌1982年には、インフレの進行、失業者の増加に直面した(=ミッテラン・ショック)。賃金を凍結し、公共支出を削減するなど緊縮財政を取り、さらに首相もローラン・ファビウスに替えた。普仏戦争の賠償金シンジケートが抑えきれなくなり、自由主義的政策に転回することになり、1984年には共産党が連立から離脱した。

1986年の議会総選挙では社会党が大敗を喫し、右派政治家ジャック・シラクが首相に選出され、保守派内閣が誕生し、第1次コアビタシオン(保革共存)が成立する。しかし、1988年の大統領選挙では54.0%の得票率でシラクを下し、大統領再選を果たした。続く総選挙で社会党が勝利し、ミシェル・ロカールを首相に指名。1991年にはエディット・クレッソンを首相に抜擢し、フランス史上初の女性首相が誕生。1993年の総選挙で再び右派が勝利を収め、エドゥアール・バラデュール内閣が発足し、第2次コアビタシオンが成立した。大統領在任中の1993年2月には、1887年から1954年まで植民地支配したベトナムと和解した[1]。

なお、1993年から1994年にかけてピエール・ベレゴヴォワ元首相や長年金庫番を務めていたプログスなど複数の側近が「自殺」したことから、不祥事のもみ消しを意図したミッテランの指示による殺人ではないか、という疑いがマスメディアにおいて高まった。
欧州連合とユーロの創設

ミッテランはドイツのコール首相とともに、欧州経済共同体と欧州原子力共同体を発展的に進化させて、欧州連合とユーロの創設を主導した。欧州経済共同体設立条約と欧州原子力共同体設立条約を定めた1957年のローマ条約を欧州を統合し欧州連合を創設するために発展的に改変し、1986年に単一欧州議定書を採択し1987年に発効させ、1992年にマーストリヒト条約を採択・署名し、1993年に発効させた。

1985年には加盟国間で国境検査無しで国境を越えて移動できるシェンゲン協定を採択し、2016年時点では加盟国は25か国に拡大している。

1990年には欧州通貨統合の第1段階として、欧州経済共同体の加盟国間では投資の自由化され、1994年には欧州通貨統合の第2段階として、欧州中央銀行の前身の欧州通貨機構が設立され、加盟国の財政状況を審査を開始した。ミッテランが2期14年の任期を終了して退任してから7月後の1995年12月には、欧州理事会において欧州統合通貨の名称は「ユーロ」に決定された。ミッテランが退任してから3年7月後の1998年12月には、ユーロは国際決済通貨として使用され始めた。

死去

1995年5月、2期14年を終え退任。翌年1996年1月8日に前立腺癌により、アンヌ親子に見守られてパリの自宅で死去した。ミッテランの主治医だったクロード・ガブラー(フランス語版)医学博士は、ミッテランの死後に"Le 
grand 
secret(フランス語版)"(重大な秘密)という題名の著書を発表し、ミッテランは1981年~1995年の任期の大部分を前立腺癌の治療を続けながら大統領職を務め、2期目の任期の終盤には癌の進行により大統領職の遂行が困難な状況だったが、その病状は公には秘匿され、選挙時や大統領在職中のミッテランの心身の状況について健康であると偽装して発表されていたと述べた[2]。ミッテランの家族はガブラーが守秘義務を守らず、ミッテランの病状を公開したことに対してガブラーと出版社に訴訟を提起した。

(No1おわり)

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