[CML 061920] 古堅さんの沖縄戦体験のDVDの紹介です。

yadoroku kusunoki mkusunoki26 @ gmail.com
2021年 6月 24日 (木) 16:29:48 JST


DVD『私の沖縄戦体験から 古堅実吉 ~目の前に戦

(いくさ)がやってきた~』が昨年12月に完成しています。


企画・製作はミステリー評論家・ドキュメンタリー映像制作の稲塚由美子氏。

販売は「KKたびせん・つなぐ」

(*http://tabisen-tsunagu.com/2020/12/05/*
<https://mail.google.com/mail/u/0/#m_-6508741975990143481_inbox/_blank>)。



 「今、遺さなくては失われてしまう」という稲塚監督の焦燥が、DVDに結実しました。住民の
4人に1人が死亡し、住民の犠牲数が軍人の死亡数を上回った沖縄戦。その記憶を記録するDVDの完成です。数年前に『隣る人』を製作した彼女の、2作目です。

DVD販売は旅行会社『たびせん・つなぐ』で、収益は沖縄支援に、というスタイルのようです。

古堅さんは
91才、「命を削ってでも伝えたい」とのお気持ちから証言して下さったものです。古堅さんの沖縄戦の体験が、インタビューで静かに語られ、その語り口は、とても迫力に満ちたものでした。

沖縄戦とは何であったのか、14年戦争とは何であったのか、を私たちに改めて問い直すDVDで、古堅さんの戦時体験の証言はオーラルヒストリーでもあるのです。



1945年。米軍は3月10日の東京大空襲のあと、標的を沖縄として艦船を向かわせます。沖縄守備軍・第32軍の
牛島満は軍民共闘で徹底抗戦の作戦をとりますが、住民側からすれば、いきなり戦争に巻き込まれたのですから、たまったものではありません。32軍・牛島中将
に与えられた任務は、米軍の本土攻撃を一刻でも遅らせる時間稼ぎでした。女・子供、老人たち沖縄の住民の命を護ることではありませんでした。

米軍上陸が迫る1945年3月、軍令で沖縄師範学校は、突然、学徒兵部隊「鉄血勤皇隊」に全校あげて招集されます。このとき、古堅さんは予科
1年の14才で、上級には後に沖縄県知事になった太田昌秀(1925~2017)さんも。



古堅さんは沖縄本島の北部の貧しい家で育ちますが、尋常小学校を卒業しようとする頃、聡明な彼に教師は進学を勧めます。しかし学資の工面が乏しいことから、師範学校であれば学費免除の特典もある、との事で師範学校の予科に進学できました。ところが翌年
3月の招集で、14才と言えども、鉄血勤皇隊に編成されてしまいます。

首里城下に32軍本部は指揮壕を作りますが、その近くに鉄血勤皇隊は配置されました。ある日、古堅さんはいつものように友人と2人一組で作業に出
た時のこと。ともに作業をしていた時に、隣にいた友人は、突然、機銃で顔面を砕かれ即死。その様子を語ろうとしますが、声が詰ま
り言葉になりません。数センチずれていれば、犠牲は古堅さんであり、2発の銃弾であれば、二人共に死んでいたのです。



軍民共闘を命じた戦局はいよいよ悪化し、牛島32軍は南部へ敗走し、その後を追って鉄血勤皇隊も続きます。その道で古堅さんは傍らの母子の悲惨な姿に出会います
。赤ん坊が死んだ母にまとわりつく様子に、しかし誰も、もちろん古堅少年も、何も出来ずに通り過ぎるしかありません。
この場面を古堅さんは、「あの赤ん坊は、誰かに助けられただろうか?」と、今も悔やみ続けています。



敗走はやがて、最南端の摩文仁となり、そこから先は海で断崖絶壁です。古堅さんは、鬼畜米兵に凌辱されるよりも、と身を投げる婦人たちや、あちこちで
手榴弾を用いた自決の場面にも遭遇するのかも知れませんが、映像では摩文仁での悲劇には触れられてはいません。

古堅さんは、海岸に迫る崖伝いに逃避行を続けます。ある断崖を超えたとき、菓子パンが落ちている浜に出ます。これは敵の策略か?と、空腹を抑えて我慢します。
しかし、次の崖を海伝いに超えたとき、古堅さんの命は救われました。何とその浜には、すでに米軍の救助部隊が上陸しており、パンなどの食料が配布されていたのでした。そのまま臆することなく米軍に保護された古堅さんの未来が開かれた瞬間でした。



米軍の艦船からは、摩文仁の崖から飛び降り自決する多くの婦人たちも観察されており、救援ボートが着岸できる浜
で、米軍の救援活動が始まっていることに、驚き感動し

ました。

カメラは91才の古堅さんが、製作スタッフたちと一緒に、その救援活動の浜に降りる様子を追います。深い草木に覆われた細い坂の上り下りは、とても
91才とは思わせぬ健脚ぶりに驚かされます。古堅さんが生きていらしてよかった、とつくづく思わせる映像でした。



タイトルの「目の前に戦争がやってきた」は、古堅さんの語りの中の言葉、と稲塚監督は明かしていますが、さとうきびの歌にも、『むかし海の向こうから、いくさ
がやってきた』と謳われています。



むかし、海の向こうから戦がやってきた。

ざわわ ざわわ ざわわ

広い さとうきびの畑で



(宿六)


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