[CML 061828] FW: 史上最大の危機の中、賢人も英雄も立派な政治家も、ただの一人も出現しなかった

motoei @ jcom.home.ne.jp motoei @ jcom.home.ne.jp
2021年 6月 12日 (土) 12:14:21 JST


引き続きIROHIRA Tetsuroさんの貴重資料を転送させていただきます。(いしがき)

● 史上最大の危機の中、賢人も英雄も立派な政治家も、ただの一人も出現しなかった

敗戦前後の軍事物資の消滅    
八月二〇日、マニラの米軍は日本の降伏使節に「一般命令第一号」を手渡し、
日本軍の全資産は手を付けず保管せよと命じた。東久邇宮新内閣は、この命令
を無視した。マッカーサー元帥が到着する予定日の二日前、日本政府は前述の
秘密の処分命令(「陸機三百六十三号」:すべての軍事物資の処分を地方部隊
の司令官の手に委ねる)を取り消したが、すでに処分された資産の所在を確認
し回収しようとする努力はまったく行われなかった。当然のことながら、これ
らの物資の所在に関する記録は、もはや簡単には入手できなくなっていた。

これと同じ時期、日本銀行は「平和的」な生産に転換させるという表向きの目的
の下に、軍需関係の業者に対して膨大な融資を行うことに力を注いでいた。後
日行われた調査記録を読むと、影響力をもつ人々の非常に多数が、天皇の放送
が行われた後の二週間の混沌の間に軍の倉庫から勝手に物資を持ち出し、軍事
予算や日本銀行から急いで代金を支払ってもらえるよう軍需業者や旧友のため
に手を打ったり書類を破棄することに、目が覚めている時間のほとんどをあて
ていたとの印象は拭えない。

日本史上最大の危機のただ中にあって、一般民衆の福利のために献身しよう
という誠実で先見性ある軍人、政治家、官僚はほとんどいなかった。
旧エリートたちからは、賢人も英雄も立派な政治家も、ただの一人も出現
しなかったのである。
    
その後の調査によれば、帝国陸海軍が保有していた全資産のおよそ70%が、こ
の戦後最初の略奪の狂乱のなかで処分された。もともとこれは、本土約500万人
と海外300万人余りの兵士のためのものであった。だが、話はこれで終わったわ
けではなかった。

降伏から数カ月後、占領軍当局は、それまで手付かずできち
んと管理されていた軍の資財の大半を、公共の福祉と経済復興に使用せよとの
指示をつけて、うかつにも日本政府に譲渡してしまったのである。

これら物資の大半は、建設資材と機械類であり、内務省は財閥系企業の五人の代表
からなる委員会にその処分を委任した。その総価値はおよそ1000億円と見積もられた
が、これらの資財もすぐにほとんど跡形もなく消えうせた。

1947年8月、国会がこの一連の不祥事に関する遅まきながらの調査委員会を開いた
とき、証言に立った1946年当時の大蔵大臣・石橋湛山は、
「1000億円の価値があるものがどこに行ったのか知る者は一人もいない」
と残念そうに述べている。
   
(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<上>』三浦洋一・高杉忠明訳、
岩波書店、pp.124-125より)


悲しい統計によれば、敗戦の日から11月18日までに、東京では、
上野、四谷、愛宕の三警察署の管内で150人余の餓死者を収容し
た。また同時期の、神戸、京都、大阪、名古屋、横浜の五都市
では、733人の餓死者が出たという。

もうひとつ統計をあげれば、敗戦の日から十月までに失業者は448万人
(男女の合計)であったという。そこへ内地復員老761万人(軍人と軍属)、
在外引揚者150万人が加わり、総計1359万人が住居と職場と食いものを求
めてさまよっていたのである。
        
(半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』プレジデント社)


日本自由党結成(鳩山一郎、S20.11.9)
          
運営資金として児玉誉士夫により、かつて軍事物資
として集めたダイアモンドが提供され使われた。
          
児玉は後の「五五年体制」の幕開け役の一人であり
「裏権力」構造の主役となった。


アメリカの世界戦略の一端
          
A級戦犯容疑者の児玉誉士夫、岸信介、笹川良一を
巣鴨プリズンから釈放させ、戦争中、治安維持法違反
で検挙された哲学者の三木清を敗戦後、獄死させた戦
後日本の歪んだ出発を指摘して、社会学者日高六郎は
「児玉、岸信介、笹川は釈放すべくして釈放された。
つまり釈放することのほうが、アメリカの世界戦略の
本筋だった」と書いた。
          
(立石勝規『金融腐敗の原点』および日高六郎『戦後史を考えるー三木清の死
からロッキード事件までー』『世界』昭和51年9月号)

         
岸信介は白州次郎、矢次一夫、ハリー・カーン
(当時『ニューズウィーク』誌の外信部長。CIAアレン・ダレスの親友)
が助けたという。またティム・ワーナー『CIA秘録<上>』によると、
日米開戦時の駐日大使で岸の友人ジョゼフ・グルーも強い味方だったという。

児玉はダイヤ・プラチナ・ウランの取り引きで助かった。
          
(柴田哲孝『下山事件 最後の証言』、祥伝社、pp.239-240)

CIAは1948年以降、外国の政治家を金で買収し続けて
いた。しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが
選んだ最初の国は日本だった。

(ティム・ワーナー『CIA秘録<上>』藤田・山田・佐藤訳、文芸春秋、pp.177-178)

「アメリカ対日協議会(ACJ)」(いわゆる日本ロビー)設立(1948年6月):

メンバーの中核は国務省内の反共の闘士
(ジョセフ・グルー、ウイリアム・キャッスル、
ハリー・カーン、ユージン・ドゥーマン、コンプトン・パケナム)
たちであった。
岸信介は彼らに助けられた。

 <ハイパーインフレの実相>
         
しかし天皇の放送のあとに現実に起こったジャンプは、
ほとんどが狂乱と破壊のそれだった。民間請負業者の手
元にあった資材はいうまでもなく、軍の備蓄物資までが、
隠匿されるか、まっすぐに闇市に運ばれた。陸軍、海軍、軍需省
(S18(1943).11.1、戦争指導のため、商工省の大部分と企画院が統合され発足)
の役人たちはすぐさま巨額の金を引きだして、請負業者に支払い、
自分のポケットや気に入った仲間のポケットに詰めこんだ。
         
大蔵省と日本銀行は、何百万人という解雇された労働
者や復員兵の手当にしようと、印刷機にはりついて、イ
ンクの跡も生々しい紙幣を国中にあふれさせた。同時に、
国民の不安を和らげるために、戦時中の個人預金口座か
らの引出し制限を解除した。まじめな帳簿付けは放棄され、
記録は意図的に破棄された。
         
このすべての結果が、財政と経済の混乱と、貪婪なまで
のインフレの始まりで、結局これが経済をすっかり食いつ
ぶすことになった。

(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、
岩波書店、pp.346-347)
アメリカで”RAND(Research and Development)”が誕生(1946.3.1)
       
RAND設立の最大の功績者はカーチス・ルメイ、
冷酷で攻撃的で悪魔の化身ともいうべき男。

RANDはアメリカの戦後戦略の殆どを立案した。
       
他にヘンリー・ハーレー・アーノルド元帥とフランク・コルボム(ダグラス社幹部)が協力。

(アレックス・アベラ『ランド 世界を支配した研究所』牧野洋訳、文藝春秋、pp.22-25)

極東軍事裁判開始(1946年5月3日~1948年11月12日)
         
米国政府は日本敗戦にあたって、日本の戦争指導者と戦争犯罪を
処罰する方針として、ドイツの場合にならって、彼らを「主要戦争
犯罪人」(A級戦犯)として、戦時国際法に規定された「通例の戦争
犯罪」に加えて、侵略戦争の計画・準備・遂行などを犯罪とする
「平和に対する罪」、戦前または戦時中の一般住民に対する非人道
的行為を犯罪とする「人道に対する罪」という戦争犯罪概念で訴追
し、国際裁判方式をとるとの意思を固めていた。
         
しかし同時に、すでに準備がなされていたニュルンベルク裁判を
めぐる他国との折衝の経験から、日本の裁判もドイツの例に準拠す
ることが望ましいが、裁判所の設置と施行規則、戦争犯罪概念の規
定は、連合国間の協定によるよりは、一方的にSCAPのマッカーサー
が決定するかたちにすべきだとの方針も固めた。

(粟屋憲太郎『東京裁判への道<上>』講談社、p.33)
東京裁判の不公平性、起訴根拠の脆弱性の一つについて
             
東京裁判は別の批判に対しても脆いことが証明された。
             
A級戦犯として誰を起訴するかの決定に一定の政治的恣意
性が働いていたことである(驚いたことにジョセフ・キー
ナン自身が、検察側の冒頭陳述において、「我々はいずれ
の個人に対しても、またその処罰に対しても、特別の興味
をもつものではない。被告たちはある意味で一つの階級あ
るいは集団の代表である」と率直に認めている)。

よしんばこれが「代表的」指導者に戦争責任について説明責任を
問うための発見学習的あるいはショウケース的裁判である
と了解したとしても、ある種の集団、ある種の犯罪がそこ
から見逃されていることはいかにも顕著である。

人びとに恐れられた憲兵隊の隊長は誰も起訴されなかった。超国家
主義秘密結社の指導者も、侵略によって私腹を肥やし、
「戦争への道」を拓くことに親しく関与してきた実業家も、
起訴されていなかった。

日本が植民地統治していた朝鮮人と台湾人を強制動員したことは
「人道に対する罪」として追及されなかったし、何万人もの外国人の若い女性
たちを狩りあつめて帝国軍人に性的サービスを提供する「慰安婦」として
働かせたことも訴追されなかった。また、検察団を支配していたアメリカ自身が、
残虐非道さにおいて疑問の余地のない罪を犯した特定の日本人集団を、秘密裏に、
そっくり免責していた。

満州の七三一部隊で、何千人という捕虜を実験台に使って生物兵器を開発していた
将校や科学者たちである
(研究結果をアメリカに教えることを交換条件に訴追を免れた)。
中国における化学兵器使用の証拠についても、検察は真剣には追及しなかった。
             
さらには、東京裁判の裁判官の人選もかなり奇抜だった
というか、少なくともいきあたりばったりだった。11人の
判事のうち、もっとも明敏で、人びとの記憶に残ったのは
レーリンク判事とパル判事で、ふたつの主要な反対意見を
書いている。国際法にそれなりの経験があったのはパルだ
けだった。
            
(ジョン・ダワー(増補版)『敗北を抱きしめて<下>』三浦洋一・高杉忠明・田代泰子訳、
岩波書店、pp.260-261)

中国が全面的な内戦に突入(第二次国共合作の崩壊)
      
1946年7月、蒋介石が共産党地区への攻撃を開始。

          
<モスクワからの毛沢東(中国共産党)への支援>
        
モスクワによる共産党軍の再武装は急速に進められた。ソ連
は日本製の航空機900機、戦車700輌、3700基以上の大砲や迫撃
砲や擲弾発射筒、1万2000挺近い機関銃、さらに松花江に浮かぶ
相当規模の小型艦艇部隊、おびただしい数の装甲車や高射砲、
何十万挺ものライフルを共産党軍に引き渡した。

日本の主要な武器庫があった北朝鮮からは、貨車2000台以上に満載
した兵器や軍用賀材が鉄道で運ばれてきた。さらに、外モンゴルからも
日本軍から鹵獲した武器が届いた。ソ連製の武器も運び込まれた。
ドイツ製の武器はマークを削って、アメリカから奪った武
器のように見せかけてあった。
        
加えて、ソ連はひそかに日本人の戦争捕虜を何万人も中国共
産党に引き渡した。日本人捕虜部隊は、みすぼらしい共産党軍
を強力な戦闘集団に変身させるうえで大きな役割を果たし、共
産党軍が持っている兵器の大部分を占める日本製兵器の操作、
手入れ、修理方法を教えるうえでも重要な役割を果たした。

中国共産党の空軍を育てたのも、日本人捕虜だった。日本人パイ
ロットは飛行機に同乗して共産党軍パイロットに操縦を教えた。
       
数千人にのぼる熟練した日本人医療スタッフは、共産党軍の負
傷兵にはそれまで緑のなかった高度の専門治療をほどこして非
常に歓迎された。なかには共産党軍の戦闘に参加した日本人部
隊もあった。
        
もうひとつ、きわめて重要な役割を果たしたのは、ソ連占領
下の北朝鮮だった。ソ連は北朝鮮から武器を供給しただけでな
く、日本軍やソ連軍のもとで訓練された20万の強者ぞろいの朝
鮮人正規兵部隊も派遣した。加えて、中国東北と800キロの国境
を接する北朝鮮は、中国共産党が「我・隠蔽的后方」(我々の
秘密後方)と呼んだように、貴重な抜け道としても役立った。

1946年6月、敗走中だった共産党軍は、部隊や傷病兵や軍事物資
を北朝鮮に退避させた。国民党軍が東北の中央部をほぼ制圧し
ていたため、共産党軍は南北に分断される形になっていたが、
北朝鮮を経由することによって南北の連絡を取り、あるいは中
国東北と中国東岸、とくに重要な山東省との連絡を取ることが
できた。この巨大な輸送システムを監督するため、中国共産党
はピョンヤンおよび朝鮮の4つの港に事務所を開設した。
         
(ユン・チアン『マオ<上>』講談社、pp.500-501)
蒋介石は最初から最後まで私情に従って政治や軍事を動かした。そしてその
ような弱点とまったく無縁の毛沢東という男に負けて中国を失った。
         
(ユン・チアン『マオ<上>』講談社、p.524)
 <昭和22年、広津和郎『日本人の根性』(文藝春秋8月号)>
      
雑誌が復活し、言論の自由が叫ばれ、何でも云ひたいことを云ひなさいと
いふ注文が殺到し始めると、私はペンを持つ気もなくなってきた。
・・・
      
私はそれ等を面白く、興味をもつて読んだが、その中変な気がして来た。
何故この人達は、こんなにいろいろな事を知ってゐて、今日まで黙ってゐた
のであらう。
・・・
      
日和見主義者が多過ぎたのである。この国の人民は大体さう鈍感は方では
なく、相当敏感な人間が多いと云っても間違ひはなからうと思ふが、さうい
う連中は物を知ってゐて、結局間違った方へ物も向つて行くのを阻止しよう
とはしないのである。
・・・
      
扠(さ)て、こんなことはいつまで云ってゐても同じ事である。民主主義日本が
来た筈であるし、その呼び声は高いし、と云って見渡したところ、この国の
背骨が民主主義によつて切り換へられてなど凡そゐない。軍と協力した官僚
機構が、今でもこの国の推進力であるし、軍が壊滅した後、それが唯一の推
進力であるとさへいへる状態で厳として存在してゐる。
      
これはちつとやそつとではその根を掘りかへしも出来ないやうな組織であ
り機構である。長いものに巻かれろ主義のこの国の国民の根性が相も変わら
ず続く限り、この国には再び官僚政治が支配しないとはかぎらない。いや、
今でも支配してゐるのであるが、それが強化されないとは限らない。
             
(「文藝春秋」2002年2月号、坪内祐三『風呂敷雑誌』)
      
●イスラエル建国(1948.5.14)
          
ソ連のスターリンは反帝国主義・反植民地主義の立場から世界
で最初に承認した。イギリスがパレスチナから撤退しイスラエル
が独立宣言。と同時にアラブ諸国がイスラエルに対して宣戦布告
を行った。これが第一次中東戦争の始まりである。

●中国共産党が蒋介石・国民党の拠点である錦州を一斉攻撃(1948.9.12)。
10月14日錦州は陥落し、これが国共内戦の転換点となった。

(ユン・チアン『ワイルド・スワン<上>』土屋京子訳、講談社、pp.123-149)
鉄道が絡んだ奇妙な事件の頻発(1949年、昭和24年7~8月)
(当時の国鉄は贈収賄の温床)
            
・下山事件:下山国鉄総裁が轢死体で発見され、不審死と騒がれた(S24.7.5~6)
            
・三鷹事件:中央線三鷹駅で無人電車が暴走(S24.7.15)
               
吉田茂首相は事故が”労組・共産主義者の扇動”によるものと断定。
これを機に共産党は急激に求心力を失い、国鉄労組は7月21日の94300人余りの
大量解雇を受け入れさせられた。
            
・松川事件:東北本線金谷川~松川間で列車が転覆(S24.8.17)
       
・蒋介石が台湾に逃亡(1949.5)
           
戦後、連合国は「カイロ会談」の秘密合意の一環として台湾
を蒋介石に引き渡した。台湾の人々は国民党=蒋介石を歓迎して
いなかった。

        
・CIA法が強引に議会を通過(1949.5.27)
           
これによりアメリカ議会はCIAに広範な権限を付与した。でき
ないのは”国内での秘密警察のような振る舞い”だけであった。
         
(ティム・ワーナー『CIA秘録<上>』藤田博司・山田侑平・佐藤信行訳、文芸春秋、p.69)

      
・ソ連が初めての核実験に成功(1949.9.3)
          
ドイツ出身の物理学者でロスアラモス研究所で原爆開発をして
いたクラウス・フックス Klaus E.J. Fuchs がソ連に情報を流していた。
         
(保阪正康『昭和の空白を読み解く』講談社文庫、p.42)

アメリカは日本の軍事的価値を以下のように判断していた。
     
「日本列島は、極東におけるアメリカの安全保障上の利益に
とって高度の戦術的重要性をもっている。その主たる理由は、
日本列島が北太平洋の貿易ルート、日本海と東シナ海それに黄海
の出入口、それに、それらほど重要ではないが上海=呉淞以北の
アジアの諸港に対して占める地理的位置のためである。・・・
     
戦争になれば、ソ連に早い段階で日本海、黄海、東シナ海を渡
さず、最終的にはそれらの海をわれわれが支配するかまたは中立
化するための戦略的前哨基地として、日本を使うことができるで
あろう。・・・」

(統合参謀本部『日本におけるアメリカの軍事的必要に関する戦略的評価』)
朝鮮戦争勃発(昭和25.6.25)
           
福岡の板付空港から、北朝鮮軍と中国軍を攻撃する
爆撃機が毎日のように飛び立った。沖縄の嘉手納基地
は、戦場のようだった。佐世保や横須賀は、前線への
補給基地であり、また、戦傷者の野戦病院でもあった。

そのころは全く知らなかったが、御殿場キャンプは、韓国兵の訓練所だった。

(竹内宏『父が子に語る昭和経済史』)

・GHQ勧告によるレッド・パージ(1950年5月、共産党員1万数千人を追放)
           
多くの学生は下記理由からレッド・パージに反対した。
             
1.学生の多くは新しい価値観をマルクス主義の中に発見していた。
             
2.学生は第二次世界大戦に命を賭けて反対した共産主義者を深く敬愛していた。
             
3.レッド・パージは思想の自由を保障している憲法に対する違反
             
4.GHQに対る本能的な反感
           
(東大ではレッド・パージ反対ストライキが6月3日整然と行われた)

菅生事件(昭和27年6月2日)  すごうじけん

https://bit.ly/3isoZMl
          
警察・検察多数がグルになって、罪なき共産党員をワナにかけて
召し捕り、ニセの証拠で犯罪をデッチ上げ、裁判官を騙して有罪に
し、世間を欺こうとした大陰謀事件。
         
(正木ひろし『事件・信念・自伝』日本図書センター、pp.29-75)

<ポポロ事件: 言論の自由、大学の自治についての考察>

一九五二年二月二十日のことであった。特高警察の拷問で殺さ
れた小林多喜二の命日にあたるこの日、東京大学の学生劇団ポポ
ロ座が大学内で演劇を公演した。テーマは共産党弾圧の口実に使
われた謎の列車転覆事件、すなわち松川事件だった。

ところが、観客のなかに紛れこんでいた数人の私服警官が学生らに
見つかり騒ぎになった。学生らは警官三人を拘束して「謝罪文」を書かせ
ただけでなく、警察手帳を取り上げたのである。手帳には、警察
が学生運動や教職員組合指導者らの活動状況の調査つまりスパイ
活動を長期にわたり行っていたことを示すメモが記されていたという。

翌日、警察当局は大学に断りなく構内に突入、学生らを逮
捕、連行した。一方、大学側は警察の学内潜入自体が不法である
として学生らの釈放を要求、学生らも抗議集会を開いた。

矢内原忠雄総長は大学の自治を守るように学生に呼びかけ、抗議行動を
事実上激励した。東大は全学挙げて「戦前の政治警察の再現」
「学問の自由・大学の自治の侵犯」だとして怒り、多くの他大学も
これを支持した。事件は政治問題としても拡大し、国会の法務委
員会も矢内原総長、学生、警官らを証人として喚問して審議する
など大きな論議となったのである。
          
逮捕学生らは起訴されたが、第一審判決と第二審判決では、警
官の学内立ち入りは違法行為であると判断、学生らは無罪となった。

しかし最高裁が差戻しを決め、東京地裁が一九六五年、一転
して学生に有罪判決を下した。大学での学生集会が学問や研究の
ためではなく政治活動にあたる場合には警察が立ち入っても大学
の自治の侵害とはならないという趣旨であった。私のデモ初体験
はこれに抗議するためのものであった。
          
上の、いまとなってはまるで夢のような経緯を
したためながら、私は訝った。ポポロ事件と同種の事件が、もし
も現在、どこかの大学で起きたとしたらどうなるであろうか、と。
         
おそらく、総長も学長も学生の釈放など求めはすまい。それどこ
ろか、学生らの行動を非難し、大学によっては事件に関係した学
生らの情報を警察に内通する可能性も大であり、逮捕学生につい
ては停学などの処分も検討するかもしれない。

裁判一、二審ともほぼまちがいなく学生側有罪であろうし、マスコミの
ほとんどはそうした判断を支持するだろう。有罪判決に抗議するデモに都内
の各大学の学生たちが広く参加するということも、むろんありえまい。

(辺見庸『抵抗論』毎日新聞社、2004年、pp.178-179)
結局、占領の終わった1952年は、東西対立の発火した朝鮮戦争を背景に、
「片面講和・治安立法・日本再軍備」の「三点セット」を進める強大な米国と、
それに追随せざるをえない同盟関係を結んだ日本政府、そしてこれらに逆らって
蟷螂の斧を振るおうとした共産党の衝突を軸として騒然となった年であった。

ただ、その弱い側には、日共の冒険主義には与しなくとも、より広く言論の分野で
「三点セット」に反対した野党、知識人、マスメディア、市民の存在もあったことは
付け足しておかねばならない。

(石川真澄『戦争体験は無力なのか』岩波書店、p.46)

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