[CML 056833] ラグビー Wカップ  スポーツとは

motoei @ jcom.home.ne.jp motoei @ jcom.home.ne.jp
2019年 9月 20日 (金) 23:26:31 JST


(転載です、いしがき)

<ひとりはみんなのために、みんなは一人のためにとは>

「戦争で死ぬのではなく、死をかけて平和を守る。そういう人たちが団結する。国際
的なスポーツ組織が、スポーツを通じて平和を中心に努力していかないと世の中は平
和にならないということをひとつのテーマとして平和運動を広げていく。スポーツが
権力者によって悪用されるようなときは、団結して権力者を交代させる。それは平和
を守るための世界的運動の中心的なものになると私は思う」そして言うのだ―「オリ
ンピックの目的である平和運動としての機能が上手く働いていない」



以下一部転送です

<ラグビーW杯を前に…>

   ―いま、大西鐡之祐を―

  (前〜中略)

 五輪狂騒曲が「2020」の頻出に拍車をかけ、代表選手のガッツポーズを満面の笑み
で紹介するテレビの女子アナたち。

一方、政治は「スポーツの素晴らしさ」「スポーツマンシップ」など次世代の子供た
ちへの「教育効果」をあげつらうが、商業資本に取り込まれてしまった多くの種目と
プロ化した選手たちの姿と意識はどの程度の“効果”を発揮するの?

敗者の面前で拳を振り上げ、時にはピョンピョン跳ね回って勝利を誇示する姿のどこ
にスポーツマンシップを見たらいいのか。

接触プレーでのオーバーな被害アピール、団体競技で得点を決めた選手が拳を振り上
げ、観客に個を誇示する姿は、ほとんど契約料アップのアピールにしか映らない。子
供たちが見るのは ”カッコいい“ だ。スポーツマンシップなど知っちゃぁいない。

 コマーシャリズムに取り込まれた中で、最早ストイシズムと言えるか、ある程度の
距離を保ち得ているのはラグビーくらいだろう。



 ラグビーで思い出されるのが早稲田、日本代表、それぞれの監督を務めた大西鐡之
祐のいう「闘争の倫理」だ。

 先の戦争で幾度となく生死の境をくぐり抜けた彼は「戦争における戦闘は瞬間的な
気違い沙汰だ。相手をやっつけないと殺されるから必死になって殺し合う。双方に何
の恨みはない。戦わねばならない理由もない。…、武器を持っているだけで殺し合い
になってしまうのだ。これを止めるのはこうした環境にしないこと、こうなる前に考
えなければだめだということ。…



「スポーツでの戦いの場面で何かアンフェアな行動をする前に『ちょっと待てよ』と
ブレーキをかけられる人間にする教育が重要だ。

 例えば、ラグビーで今この敵の頭を蹴っていったら勝てるというような場合、
ちょっと待て、それは汚いことだ、と二律背反の心の葛藤をコントロールできるこ
と、それがスポーツの最高の教育的価値では」という。

 そして「戦争で死ぬのではなく、死をかけて平和を守る。そういう人たちが団結す
る。国際的なスポーツ組織が、スポーツを通じて平和を中心に努力していかないと世
の中は平和にならないということをひとつのテーマとして平和運動を広げていく。ス
ポーツが権力者によって悪用されるようなときは、団結して権力者を交代させる。そ
れは平和を守るための世界的運動の中心的なものになると私は思う」そして言うのだ
―「オリンピックの目的である平和運動としての機能が上手く働いていない」



 五輪選手、何人の頭の中に「平和」があるだろう? 64年東京五輪のチャスラフス
カと「プラハの春」前後の彼女に学べることは多い。

今、危ないのは憲法、平和だけではない、スポーツも危ういのではないか。(M)





CML メーリングリストの案内