[CML 054688] 【今日のブログ記事No.3092】■朝日新聞がついに「戦争犯罪人でありファシストであり5000万人のアジア人を殺した最大最高の元凶』昭和天皇裕仁の『美化キャンペーン』を始めた!

山崎康彦 yampr7 at mx3.alpha-web.ne.jp
2019年 1月 3日 (木) 10:38:19 JST


いつもお世話様です!                         

【杉並からの情報発信です】【YYNews】【YYNewsLive】を主宰する市民革命派ネットジャーナリスト&社会政治運動家の山崎康彦です。    

昨日水曜日(2019.01.02)夜に放送しました【YYNewsLiveNo.2692】の『メインテーマ』を加筆訂正して【今日のブログ記事】にまとめました。

【放送録画】82分01秒

https://ssl.twitcasting.tv/chateaux1000/movie/516736224

【今日のブログ記事No.3092】

■朝日新聞がついに「戦争犯罪人でありファシストであり5000万人のアジア人を殺した最大最高の元凶』昭和天皇裕仁の『美化キャンペーン』を始めた!

朝日新聞の元旦(2019.01.01)記事『人柄にじむその直筆 昭和天皇、激動の半生は歌と共に』を読んで驚いた!

この記事を読むと、朝日新聞は天皇の代替わりの今年『GHQに助命され免罪・免責された戦争犯罪人』の昭和天皇裕仁を完全に隠ぺいして『平和を愛し戦争を憂え悩む人間天皇』に美化する『嘘記事キャンペーン』を開始したと思わざるを得ない。
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(記事引用)

▲人柄にじむその直筆 昭和天皇、激動の半生は歌と共に

2019年1月1日 朝日新聞

https://www.asahi.com/articles/ASLDZ53F7LDZUTIL00R.html

写真:今回見つかった原稿。昭和天皇が和歌推敲(すいこう)に使ったとみられる=迫和義撮影

平和を願う心、旅の思い出、親しい人との別れ――。昭和天皇が晩年つづった和歌の原稿に、激動の半生への述懐や、日々の思いが残されていた。余白をも埋める肉筆に几帳面(きちょうめん)な人柄もにじむ。歴史研究の資料として貴重だと、専門家は指摘する。

いつのまによそぢあまりもたちにけるこのしきまでに(のうちに)やすらけき世みず

写真1988年の終戦の日に寄せた歌=迫和義撮影

1988(昭和63)年8月15日の終戦の日に寄せ、昭和天皇はこんな歌を残していた。所功・京都産業大名誉教授は「戦後40年余りたっても、世界では争いが絶えない状況をはかなんだ歌ではないか。昭和天皇にとって日本と世界の平和はつながっていたように思える」とみる。

陸軍大将として日露戦争を戦い、後に学習院長を務めた乃木希典(のぎまれすけ)とのエピソードを詠んだ歌もある。

残されていた歌の数々を、直筆原稿を写した写真とともに紹介します。

■雨(の)時は馬車(うまぐるま…

(以下有料記事のため読めず!)
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▲これが日本の野党政治家、マスコミ、学者、評論家が決して言わない昭和天皇裕仁の『隠された正体』だ!

 愿傾塚疑里蓮崟鐐菷蛤畤諭廚任△蝓▲侫.轡好箸任△蝓5000万人のアジア人」を殺した最大最高の元凶である』(井上清著「天皇の戦争責任」現代評論社1975年初版)

⊂赦妥傾弔慮斥奸А悗海慮胸卩弾が投下されたことに対して遺憾には思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対 
しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております』

この発言は、昭和天皇が米国訪問から帰国直後の1975年10月31日に日本記者クラブとの会見で中村康二(こうじ)記者(ザ・タイムズ)の質問『陛下は(中略)都合三度広島にお越しに 
なり、広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけておられましたが、原子爆弾投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか。おうかがいし 
たいと思います。』への回答。

昭和天皇の言葉:『そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題につ 
いてはお答えが出来かねます』

この発言は、昭和天皇が米国訪問から帰国直後の1975年10月31日に日本記者クラブとの会見での秋伸利彦記者(中国放送)の質問『天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く 
悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございま 
すか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします』への回答。

▲(再掲ブログ記事) 
日本軍が20万-30万人を虐殺した【南京大虐殺】の直接責任者は『捕虜は取るな』『捕虜は全員殺せ』と命令した昭和天皇の甥・朝香宮鳩彦親王上海派遣軍司令官・陸軍中将だ!

2016年01月08日 山崎康彦 ブログ『杉並からの情報発信です』

https://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/2c8b7fff66d76d3dadb8642251c49baf

【画像1】:昭和天皇裕仁の甥・朝香宮鳩彦親王(あさかのみややすひこしんのう)上海派遣軍司令官・陸軍中将

【画像2】:大元帥・昭和天皇裕仁

【画像2】:映画【ジョンラーベ 中国のシンドラー】の中で昭和天皇の甥・上海派遣軍司 
令官・陸軍中将・朝香宮鳩彦親王を演じる香川照之

日本非公開の映画『南京のシンドラー ジョン・ラーベ』の冒頭で、香川照之が演ずる朝香宮鳩彦親王(あさかのみややすひこしんのう)上海派遣軍司 
令官・陸軍中将が、数千人の捕虜をとらえた若き司令官小瀬少佐に対して、『誰が捕虜を 
取れと言った!』『捕虜は取るな!捕虜は全員殺せ!と言った 
だろう!』『明朝までに自己責任でかたをつけろ!』と命令する場面が出てくる。

日本軍による無抵抗の捕虜や南京市民を虐殺した【南京大虐殺】はこの皇族の命令で行われたのだ。

この場面があるからこそ、この映画『南京のシンドラー ジョン・ラーベ』は配給会社が見つからず長い間日本で公開されずにいたが、ようやく市民に 
よる自主上映会で各地で開催されようやく見ることができるようになったのだ。

皇族朝香宮鳩彦親王上海派遣軍司令官・陸軍中将は、1937年10月10日の南京総攻撃開始、10月13日陥落、その後の南京大虐殺を直接指揮・ 
命令したA級戦犯であり、本来であれば、昭和天皇と共にGHQに逮捕・起訴され、極東軍事裁判で死刑判決を受けて処刑されるべき人物であったの 
だ。

しかし米国支配層は、戦後の日本を『象徴天皇制』という別名の偽装天皇制で日本を植民地支配するために、昭和天皇と皇族、A級戦犯の軍人、政治 
家、特高・ 
内務官僚、財界人、大手マスコミ、宗教指導導者、学者、右翼・暴力団などの戦争犯罪を免責・免罪して1950年代に岸信介の復権と共に 
自民党に再結集させて権力中枢に復帰させたのだ。

昭和天皇と同じく、戦後GHQによって皇族であることで戦争犯罪を全面的に免責・免罪された朝香宮鳩彦親王は皇籍を離脱後『ゴルフの宮様』として 
93歳まで生長きしたのだ。

昭和天皇の戦争犯罪が日本の最高のタブーとなっている以上に、天皇の威光を笠に着て侵略戦争と国民弾圧を強行した皇族たちの戦争責任は一切勝たれ 
れることが無い。

我々タブーなき【市民革命派】は、昭和天皇と共に隠されてきた皇族たちの戦争犯罪を徹底的に暴いて追及する必要があるのだ!

▼朝香宮鳩彦親王とは? (Wikipedia抜粋)

鳩彦王は他の皇族たる陸軍軍人(賀陽宮恒憲王・閑院宮春仁王・朝香宮孚彦王・ 
北白川宮永久王・竹田宮恒徳王等)がそうであったように、軍服は大正 
末・昭和期当時の陸軍青年将校の間で大流行していた、瀟洒なものを仕立て着用していた。中でも鳩彦王は、昭和初期に大流行する以前の大正初期には既に派手な軍装品を誂えていた。

1914年(大正3年)11月には陸軍大学校(26期)を卒業し歩兵第61連隊中隊長となる。その後、1922 
年(大正11年)にフランスに留学するが、翌年、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が交通事故を起こし、この事故で成久王は薨去。 
同乗していた鳩彦王 
は重傷を負う。怪我の療養のためフランス滞在が長引いたことで、フランス文化により長く触れることになった。特に、看病のため渡仏した宮妃ととも 
1925 
年(大正14年)のパリ万国博覧会(アール・デコ博)を観覧し、同様式に対して強い関心と理解を示した。後の1933 
年(昭和8年)に完成した朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)は日本の代表的なアール・デコ建築とされている。

その後、陸軍少将・陸軍中将と昇級し歩兵第1旅団長、近衛師団長、軍事参議官を歴任する。1937 
年(昭和12年)12月2日、上海派遣軍司令官を拝命し、直後の南京攻略戦に参加、1939 
年(昭和14年)8月には陸軍大将に昇った。後の太平洋戦争(大東亜戦争)終盤においては、主戦論者として本土決戦に備えた陸海軍統合(統帥一元化)を主 
張・力説していた。また、小磯内閣当時には杉山元陸軍大臣の更迭を求めて運動したこともあった。
戦後、上海派遣軍司令官として南京事件で「虜の殺害命令」に関与した疑いでGHQから戦犯に指名される可能性があったが、皇族として戦犯指定は受 
けなかった。

1947年(昭和22年)、GHQの命令により同年10月14日に皇籍離脱、後は、東京都港区芝白金台町(現在の港区白金台)にあった朝香宮邸を 
外務省に貸し出し(これは外務大臣公邸 
として一時期事実上の総理大臣公邸の役割を担っており、「目黒公邸」とも呼称されていた)、自身は熱海の別荘に隠棲してゴルフ三昧の日々を送った。

数多くのゴルフクラブの会長・名誉会長を務めたが、その中で1930 
年(昭和5年)に鳩彦王が名誉会長を務める「東京ゴルフ倶楽部」が埼玉県に移転した際、 
移転先の膝折村が朝香宮にちなんで1932 
年(昭和7年)5月1日に朝霞町(現朝霞市、宮号をそのまま使うのは畏れ多いとして一字を替えた)と改称されている。

経歴(抜粋)

1933年(昭和8年)8月1日 陸軍中将・近衛師団長
1935年(昭和10年)12月2日 軍事参議官
1937年(昭和12年)12月2日 上海派遣軍司令官
1938年(昭和13年)3月14日 軍事参議官
1939年(昭和14年)8月1日 陸軍大将
1942年(昭和17年)4月4日 功一級金鵄勲章
1945年(昭和20年)8月15日 終戦
1945年(昭和20年)11月30日 予備役
1947年(昭和22年)10月14日 皇籍を離脱する

(ブログ記事終り)

(終わり)

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