[CML 052227] 【今日のブログ記事】■70年前の今日1948年4月3日は韓国済州島で南朝鮮労働党と農民が李承晩政権下の韓国軍、警察、右翼青年団体「西北青年会」による『白色テロ』に抵抗して武装蜂起した日である!
山崎康彦
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2018年 4月 4日 (水) 07:20:50 JST
いつもお世話様です!
【杉並からの情報発信です】【YYNews】【YYNewsLive】を主宰する市民革命派のネットジャーナリスト&社会政治運動家の山崎康彦です。
昨日火曜日(2018.04.03)夜に放送しました【YYNewsLiveNo2525】の『メインテーマ』を加筆訂正して【今日のブログ記事】にまとめました。
【放送録画】 81分11秒
http://twitcasting.tv/chateaux1000/movie/454276989
【今日のブログ記事】
■70年前の今日1948年4月3日は韓国済州島で南朝鮮労働党と農民が李承晩政権下の韓国軍、警察、右翼青年団体「西北青年会」による『白色テロ』に抵抗して武装蜂起した日である!
これに対して韓国軍憲兵、警察、反共団体は、在韓米軍の許可と協力の元その後7年7カ月にわたって『朝鮮労働党員狩り』を行い済州島島民6万人(BBC放送は10万人)を殺し村の70%を焼き尽くした!
『済州島4.3事件』は『韓国版ホロコースト』であり韓国では今でも最大タブーの一つである!
済州島の多くの島民は『4.3事件』の大虐殺を逃れて日本に密航し大阪を中心に定住した。
彼らにとっても『済州島4.3事件』は今でも悪夢であり最大のタブーなのだ。
【画像1】『済州島4.3事件』今でも洞窟に横たわる犠牲者の遺体
【画像2】『済州島4.3事件』韓国軍に殺された直後の島民たち!
(この写真を撮ったのは米軍)
▲【済州島4.3事件とは?】( Wikipedia 抜粋)
済州島四・三件は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。
南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた。
背景
事件の現場となった済州島
済州島(1948年9月以降の地図)
洞窟に横たわる犠牲者の遺体
済州四・三中文面犠牲者慰霊碑(西帰浦市)
1945年9月2日に日本が連合国に降伏すると、朝鮮半島はアメリカ軍とソ連軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成の北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。1945年9月10日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた[4]。1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた[4]。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体「西北青年会」を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。
特に上述の西北青年会は反共を掲げて島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした。
▲【関連記事】
「済州4・3ー70周年企画 4]“4・3”白碑は名前が欲しい
2018/04/02 ハンギョレ新聞日本語版
済州市奉蓋洞の済州4・3平和記念館を訪れた見学者が、記念館に置かれている白碑を見ている=済州/ホ・ホジュン記者
済州4・3平和記念館に碑文の内碑石 名前も付けられなかった4・3の現住所
済州市(チェジュシ)奉蓋洞(ポンゲドン)の済州4・3平和記念館。うす暗い第1館「歴史の洞窟」に入れば、鳥の声がしばし聞こえ、両壁には欠けた水瓶と壷が置かれている。天井からしたたり落ちるような水音は、そこが洞窟の中であることを感じさせる。済州4・3当時、済州島に散在している自然洞窟は、済州の人々の避難所だった。その洞窟の終点には白い大理石の碑石が横たわっている。碑石は、円筒形の柱を通じて来る日光を受けて輝く。
抗争・暴動・虐殺など
7年7カ月間、絡まり合った事件…
政府報告書には事件の定義だけ…
2014年国家追悼日には指定されたが
歴史的評価は後世の役割に残し
70周年迎え正名運動が始まった
国家は50年間「暴動」とし
進歩史学界は「抗争」とした
最近15年間、虐殺糾明に焦点
「統一国家に向けた闘争」談論喪失
抗争性など歴史的大義に再照明
多様な性格を包括した「正名」見つけるべき
■名付けることすらできなかった歴史
碑石の表面には何の字も彫られていなかった。いわゆる“白碑”だ。説明文には「4・3白碑、名付けることもできなかった歴史」と記されている。名もなく立てることもできなかった。白碑は、事件発生から70年が経っても名付けることもできなかった4・3の現住所を見せる象徴物だ。
2003年10月、韓国政府の「済州4.3事件真相調査報告書」(政府報告書)が確定して、大統領が謝罪し国家追悼日に指定されたが、依然として4・3は“名付けることもできなかった歴史”として残っている。当時の政府報告書は、事件の定義はしたが、性格規定は先送りした。2003年10月、国務総理室傘下の「済州(チェジュ)4・3事件真相究明および犠牲者名誉回復委員会」(済州4.3委員会)が確定した政府報告書の序文で、当時コ・ゴン国務総理は「報告書は事件の真相究明と犠牲者・遺族の名誉回復に重点を置いて作成され、4・3事件の全体に対する性格や歴史的評価は下さなかった。これは後世史家の役割と考える」と明らかにした。
現代史の大きな事件の中で、4・19革命(注山崎)はすでに法・制度的公認がなされ、釜馬(釜山・馬山)抗争、5・18民主化運動、6・10抗争は文在寅(ムン・ジェイン)大統領が用意した改憲案前文に明示されるほどに民主化運動として公認された。
これとは違い「済州4・3」は単に「4・3」だ。発端から終結まで一カ月前後だった他の懸案と比べて、4・3は7年7カ月にわたり、性格規定が難しくなった。分断と冷戦初期の展開過程で起きた済州4・3は、米軍の直接・間接的な介入と鎮圧に出た軍・警と西北青年団などの反倫理的な残虐行為が絡まり合いながら拡大した。
3月10日、旅行で済州に来て、済州4・3記念館に立ち寄ったソン・ハンヨン全南大学5・18研究所長は、「初めは4・3の時に多くの人が犠牲になったので、誰が犠牲者かわからなくて白碑を作ったのだと思ったが、済州の人々のジレンマが白碑を通じて凝縮的に見える」と話した。ソン教授は「どうにも自身の心を表わせないジレンマが白碑に象徴されているようだ。“国家暴力”についてあえて話すこともできない気持ち、“抗争”とか“虐殺”とかいう表現は、国家権力や右翼が嫌うために使えないという気持ちが感じられる」と解釈した。
■済州4・3とは
与野党合意で2000年1月に制定された「済州4・3真相究明および犠牲者の名誉回復に関する特別法」(済州4・3特別法)には「済州4・3事件」の定義を「1947年3月1日を基点とし1948年4月3日に発生した騒擾事態および1954年9月21日まで済州島で発生した武力衝突とその鎮圧過程で住民が犠牲になった事件」と規定している。
政府報告書によれば、済州4・3は米軍政時期の1947年3月1日、警察の発砲で「3.1節28周年記念大会」参加者の街頭行進を見物していた小学生と若い女性を含め6人が亡くなったのに、警察は発砲責任者の処罰どころか正当防衛だと主張して、大々的な検挙旋風が吹き荒れて始まった。
その後1948年3月まで2500人余りが検挙され、拷問を受けたり裁判に付された。また、極右性向のユ・ヘジン道知事の独断的行政行為、極右勢力である西北青年団の済州島民に対する苛酷行為と、1948年3月の警察による2件の拷問致死事件を契機に、南朝鮮労働党(南労党)済州島委員会が1948年4月3日「弾圧には抗争だ」として、5・10単独選挙反対などを名分に武装蜂起を起こした。4・3は、米軍政下で起き朝鮮戦争が終わった翌年の1954年9月に漢拏山(ハルラサン)入山統制区域が解除される時まで、7年7カ月にかけて展開された。
一部の保守団体は、南労党の武装蜂起と「5・10選挙反対」などを挙げて、4・3を相変らず「共産主義の暴動」であり「反乱」と見ている。
しかし、済州4・3時期に武装隊の民間人虐殺や放火はあったが、多くの集団虐殺と無差別的放火が軍・警などの公権力によってなされたことは否めない。済州4.3委員会が犠牲者と遺族を最後に審査した昨年7月25日現在、犠牲者は1万4232人(死亡1万244人、行方不明3576人、後遺障害164人、受刑人248人)、遺族は5万9426人だ。犠牲者全体のうち、10歳以下は5.4%(772人)、11~20歳は17.3%(2464人)で、全体の22.7%が20歳以下だ。また61歳以上は6.3%(900人)を占めた。このような犠牲者比率は、当時済州島民が老若男女の別なく無差別に犠牲になったことを意味する。政府報告書は犠牲者数を2万5千~3万人と推定している。
■なぜ正名運動が展開されるのか
済州4・3
70周年汎国民委員会は今年70周年をむかえ「4・3に定義を、歴史に正名を」をスローガンに掲げた。政治を任されたら何からするかという問いに孔子が「名を正す(正名)」と答えたという話から正名が出てきた。パク・チャンシク4・3汎国民委運営委員長は「公式的な歴史になるまでには多くの社会的討論と合意の過程が必要だが、正名問題をずっと先送りすることはできない。70周年に国家的な次元で公式正名がなされることは難しくとも、4・3の主体的な側面に光を当て、評価する部分は本格的に始めなければならない。正名運動の本格的な出発だ」と話した。彼は「4・3が特別法の制定などで制度化され、国家暴力による犠牲、大量虐殺などのフレームに閉じ込められた側面がある。当時、島民たちは単純に犠牲と抑圧のオブジェクトとしてのみ存在したわけではなく、歴史の主体であった。解放空間で近代国民国家を形成していく主体として、統一された国を建設するための努力と闘争があったが、(政府報告書以後の)過去15年間、談論の中で失踪した側面があった」として、正名運動の背景を説明した。
済州4・3はこれまで暴動、抗争、虐殺などの名で呼ばれてきた。「暴動」は事件以後50年近く国家の公認された認識であったし、今も一部の保守勢力は4・3の性格を「暴動」で規定している。彼らは、討伐は正当だったし、鎮圧過程で一部の罪のない者の犠牲があったという見解だ。進歩歴史学界などは外勢の不当な弾圧に抗して分断に反対した「抗争」と規定する。またもう一つは、4・3の真実を糾明し傷を治癒するために、4・3は国家暴力による「民間人虐殺」と見たりもする。最近では、4・3の発生原因を分析し、外部の不正と不義などの不当な弾圧に抗して島の共同体を守るために起きた「正義」の闘争と見る研究者もいる。
こうした多様な見解により、研究者は済州4・3は長期にわたって展開されたため正名に対する合意は容易でないと口をそろえる。ヤン・ジョフン済州4・3平和財団理事長は「正名問題に関する限り、現場と研究者の間に乖離がある。学者の立場から見れば、4・3は『抗争』だ。解放空間から48年の状況までを見れば抗争だ。しかし、その後54年までの期間は抗争でもなく、生存のための殺す側と殺される側との戦いだった」として「そのために正名には時間が必要だ。白碑は余韻を残すものだ」と話した。
キム・ジョンミン元4・3専門委員は「犠牲者全体の10%未満と考えられる武装隊による犠牲者の遺族の気持ちも共に推し量らなければならない。比率が少ないからと言っても武装隊の誤りも確実にある。東学のように100年あまりの歳月が流れた後に、4・3を個人史や家族史ではなく歴史の目で見る時に初めて正名できることになるようだ、しかし、研究者が抗争と表現する分には反対しない」と話した。歴史学者であるパク・チャンシク済州学研究センター長は「個人の意見と公的領域で扱われるのは別の次元だ。公的な領域において正名運動は4・3
70周年をむかえて掲げたスローガンであり、積極的に推進しなければならないのは明らかだ。しかし、正名運動で国民的追認を受けることは相当に難しい過程を踏まなければならないだろう。東学運動も最初は東学の乱から始まり、東学革命を経て、東学農民戦争で定説化されたが、100年近い時間を経て正名化された」と見通した。
韓国現代史研究の権威者であるソ・ジュンソク成均館大学名誉教授は、4・3の「抗争的」側面を強調する。彼はハンギョレとの電話インタビューで「4・3事件という名前をつけるだけでは、4・3を完全に理解することはできない。これまでは政治的な理由で4・3の抗争的な面を浮き彫りにすることが困難で、ただ4・3特別法にあるとおりにしようと適当にやり過ごしてきた面がある。正名を見つけるための積極的な努力があったとは見難い」と指摘した。彼は「4・3の勃発原因がきわめて重要だ。政府報告書にもあるが、特に3.1節記念大会以後に済州島に押し寄せてきた内地の人々の横暴や米軍政の実情、解放から2~3年が過ぎても統一独立国家を成し遂げられなかったことに対する絶望、こういうものが結局は4・3で爆発した。西北青年団などにやられたという強い被害者意識も作用した。そうした面で抗争的な性格を持っている。また、4・3は他の事件とは異なり、非常に長く続いた。抗争的な性格が強く入っていなければ、それほど長くは続かない。今までは真相究明と名誉回復に焦点を合わせざるをえなかったが、これからは一段階さらに(研究が)前に出て行かなければならない」と話した。
「4・3抗争」研究で博士学位を受けたヤン・ジョンシム博士は、「4・3が現在進行形であるように、現世代と未来世代が出会うためにも、4・3の多様な性格を表わさなければならない」と強調した。彼は「4・3は追慕公園、追悼碑、遺跡、遺体発掘などの痛みだけでなく、当時の一般大衆の自主的国家樹立、より良い世の中に対する熱望が溶け込んだ時間であることを記憶しなければならない」と話した。
パク・チャンシク4・3汎国民委運営委員長は「武装隊による虐殺は、そうした部分があったままに十分に照明を当てられなければならない。しかし、その問題を正名問題と結びつけてこそ正しいと言えるかは熟慮を要する。武装隊として立ち上がった一部の人々の問題ではなく、当時の済州島民、多くの国民の熱望が基底にある。抗争としての正当性を有していたとは言え、武装隊によって殺害された当事者遺族たちの立場としては簡単に受け入れにくい立場が確かにある。そのために時間がかかりうるということを十分に考慮しなければならない。しかし、歴史的大義を持って戦った部分を覆い隠してしまい、犠牲のフレームだけが4・3の全てになってしまうことを放置することはできない。4・3が本来始まった背景、動機、主体としての歴史、大衆の歴史に対する照明を遅らせることはできない」と強調した。
済州4・3問題の解決に深い関心を見せてきた天主教済州教区のカン・ウイル主教は「立場の差により眺める視角が異なり、皆が合意する名称を付与することはまだ容易でないようだ。4・3勃発の事前と事後の歴史、そして、その過程に対するさらに深い研究と議論が省察の過程を経て、お互いの立場の違いを狭めて行った後に可能になると考える。その時までは、当分不完全だが『4・3』で満足せざるをえないようだ」と話した。
済州/ホ・ホジュン記者(お問い合わせ japan at hani.co.kr )
(注1山崎):四月革命(4.19革命)とは、1960年3月に行われた第4代大統領選挙(3.15不正選挙)における大規模な不正選挙に反発した学生や市民による民衆デモにより、当時、第四代韓国大統領の座にあった李承晩が下野した事件。最も大規模なデモが発生した日が4月19日であったことから、4.19革命(サイルグヒョンミョン)、4.19(サイルグ)とも言う。また、革命後一年足らずで朴正煕少将らによる軍事クーデター(5・16軍事クーデター)が発生して、自由が抑圧された長い軍政時代に突入したため未完の革命とも呼ばれている。(Wikipedia抜粋)
(終り)
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