[CML 048796] 朝日新聞『声』欄投稿の「『教育勅語』に関して、彦坂諦さんの指摘!

masuda miyako masuda_miyako1 at hotmail.com
2017年 6月 19日 (月) 17:28:25 JST


皆さま
 こんにちは。増田です。これはBCCでお知らせしています。重複ご容赦を! また超長文になりますが、事柄の性質上、どうぞ ご容赦を!
 
先日、6月10日付朝日新聞『声』欄投稿の「『教育勅語』 切り売りは無意味」(花輪紅一郎氏)をご紹介しました。「『教育勅語』道徳に『ウソをつくな』は無い!? と…それについて作家の彦坂諦さん(代表作『ひとはどのようにして兵となるのか ある無能兵士の軌跡第1部』罌粟書房)から、とても考えさせられる返信をいただきました。
 
転載の了承を得ましたので、以下ご紹介します。『道徳』を「主要教科」とすることを、「道徳心」なんぞ皆無のアベ壊憲政権が強行する現在、これらの指摘は肝に銘じておいたほうがいいですね!
 
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みやこさん、
 
ありがとう、いいおしらせでした。
こういうところに着目した教師がいたってことがうれしい。
 
カンジンカナメの指摘です。
十戒と呼ばれようが五戒と呼ばれようが、これらは、けっして、特定の宗教の信者にあたえられた
戒律ではないのです。
法的な用語を用いるなら「自然法」ですね。つまり、明文規定があろうがなかろうが、
人間が人間である以上、おのずから身につけ、自然に実行しなければならない、
いや、実行するはずの掟を示しているのですよね。
 
ここにあげられている よっつは、つまるところ「殺すな」に収斂するのではないでしょうか。
たとえば、「盗む」という行為は、現代では ひとを殺す行為に直結して考えられていないけど、
そのむかしは、じっさいに、盗まれたひとが死ぬほかない状態であったし、
いまでも、じつは、原理的に考えれば、これは殺すことにつながります。
ほかの戒についても おなじこが言えるでしょう。
 
教育勅語に これがないのは、※あそこで列挙されている「徳目」とまちがって言われているもの※ のいずれもが、けっして、人間が人間として生きるうえに不可欠な掟ではないのだから、当然です。
 
権力者がおしつける「道徳」あるいは「道義」とは、けっして、十戒や五戒にあげられているような「いましめ」ではなく、たんに支配するための「秩序」を確立するための手段にすぎません。
だから、時代がかわり支配者がかわれば、正しいとされる道徳もかわってしまうのです。
けっして「古今ニ通シテ謬ラ」ないものでも「中外ニ施シテ悖ラ」ないものでもなく、いつにかかって「我カ皇祖皇宗ノ遺訓」であるとのたもうたにすぎず、
だからどうした? ってものでしかない。
 
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」だけが強調されているようですが、いま のべた観点からすれば、むすびのひとことである、「臣民」みな「其の徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」がカンジンカナメであったのですね。
 
つまり、国民(でなく「臣民」と表記されている実態のピープルではありますが、すべて、例外なく、時の国家の支配者、この時点でなら明治天皇、いまの時点でなら安倍首相の定めた(つまり権力者ののぞむ権力者のための)「徳」を信奉し実行するように「のぞむ=I  hope」と言っているのです。
 
まさに、時の権力者がのぞむように考え、感じ、行動することを、こころをひとつにしてごくごく自然に、自分自身がのぞみ、考え、感じ、行動しなさいと強制しているのですから、これこそ「共謀罪」の神髄であるとも言えるでしょう。
 
そういえば、戦時中にはやった歌のなかに「一億一心」というのが入りこんでいましたね。
この「一億」のなかに、民族的に大和民族に属さない「国民」は入っていない。
はじめから、排除されているのですね。
 
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※「『教育勅語』12の徳目」なんぞと、よく言われています。以下のように
http://ilovenippon.jugem.jp/?eid=97
 
 そこで、増田は質問しました。「『教育勅語』の『徳目』と言われているものを、『徳目』というのは誤りだ」という理由を教えていただけないでしょうか。」お答えは以下でした。納得!!!
 
「徳目とは、たしかに、『仁』・『義』・『信』などのような「徳」について、それを分類したものを言うのですね。
『教育勅語』のなかには、そういった本来の徳目と、そうではない ただの御説教とが ごっちゃにぶちこまれています。たとえば『夫婦相和シ』なんて、徳目とするにおよばない、よけいなお節介でしかないでしょう。『恭謙己レヲ持シ』『博愛衆ニ及ほし』『学ヲ修メ業ヲ習ヒ』など あげるのがいやになるほど、じつは、徳目とは言いかねる よけいな御説教がつづきます。
 
 きわめつきは『国憲をヲ重シ国法ニ遵ヒ』と『義勇公ニ奉シ』などです。いったい、これを道徳と言いうるのでしょうか?! しかもそれは『天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼』するためだと言うのですからね。このことに普遍性はありません。普遍性のないものを徳目とは言いえない、と、わたしは考えています。」
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もうひとつ、あなたはもうとうに知ってることでしょうがね、じつは、『文学界』誌のコラムでみつけたこと。
小学校の入学式で「保護者の皆様へ」という文章が配布され、そのなかにこんなことが書いてあるそうな。
 
「この教科書は、義務教育の児童・生徒に対し、国が無償で配布しているものです。この教科書の無償給与制度は、憲法に掲げる義務教育無償の精神をより広く実現するものとして、次代を担う子供たちに対し、我が国の繁栄と福祉に貢献してほしいという国民全体の願いを込めて、その負担によって実施されております。」
さいごに「文部科学省」と署名してある。
 
これを引用した筆者(武田砂鉄)は「我が国の」から「込めて」までに傍点をふって、
「次代を担う子供たちに対しては、我が国の繁栄と福祉に貢献するよりも、自分の考えを誰からも制約されたり歪められたりすることなく、思うままに伝えられるようになってほしい」とコメントをつけています。
 
おだやかな批判です。
わたしなんぞ修養がたりないから、烈火のごとく怒ってしまいます。
 
そうか、国家統制もここまできてるのか。
このわたしが受けた教育と、もう、ほとんどかわらないところまできていますね。
それに「国民全体」の「願い」だなんて、よくもまあ、いけしゃぁしゃぁと!
わたしは「非国民」あつかいかもしれないけど、すくなくとも現行法のもとでは「日本国民」ですがね、
一度たりともこんなねがいを表明したことはない。
 
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みやこさん、
 
追伸です。
「国民」という名によって、多種多様なひとびとを あっさりと ひとまとめにすることに なんのためらいもないひとたちが けっこういますよね。先の文章を起草した文科省の官僚もそのひとりなのでしょう。
 
そこで、おもいだしたことがあります。教育勅語の冒頭にはつぎの文言がおかれています。
 
「我が臣民よく忠に、よく孝に、億兆心を一にして世々その美をなせるは、これ我が国体の精華にして教育の淵源また実にここに存す。」
 
「億」はまだしも「兆」とまでよく言うたよなあ。
それはともかく。ここでの力点は、帝国の「臣民」はむかしから、「心を一つにして」いたということ、それが帝国の「国体」であること、ゆえに、「教育の淵源」もここにあるということです。
 
ついでにいうと、この「心を一つに」のなかには「忠」と「孝」とが二つの柱として かかげてあるのですが、問題はこの順序です。
典拠としている朱子学にあっては、「孝」こそがたいせつな徳目としてかかげられており、「忠」などは問題にもされていません。
 
重要なのは「仁」「義」「礼」「智」「信」の五つであって、ここには「忠」はもとより「孝」も入っていない。
もっとも、南総里見八犬伝ではこの五つの玉にくわえ「孝」と「忠」と「悌」の三つの玉がくわわりますが。
もっとも重視されているのは「仁」で、上記の順序はそのまま重みの順序なのですね。
 
「忠」の対象を天皇が専有したところから「大日本帝国」は はじまります。
それまでの日本の歴史的「伝統」とは断絶しているのです。
「万世一系」というおはなしは これを正当化するためにつくられたものにすぎなかった。
 
「女性と天皇制研究会」(略称「女天研」)がジェンダーという視点から天皇制を考える連続講座をつづけています。わたしは、もう、出ていかないことにきめていますが、しかし、とりわけ、「女性宮家」の創設ってきくと、なんとなく、いいことだよねっていうふうに、だれもが感じてしまって、その根底にある思想の持つ意味などには おもいいたらないって風潮が一般化している、このいまの状況のもとで、ジェンダーという視点を入れて、家父長制の「おおもと」である天皇制について、あらためて考えてみるのは、とてもたいせつなことでしょう。
 
ひこ
 


     


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