[CML 048378] 【web連載】田口理穂「市民がつくった電力会社」第1回

りょうこ baffydct at gmail.com
2017年 6月 1日 (木) 11:36:53 JST


【web連載】田口理穂「市民がつくった電力会社」第1回
市民がつくった電力会社ドイツ・シェーナウ電力会社の草の根エネルギー革命

田口理穂(ハノーファー在住)



 [image: シェーナウ電力会社設立の中心となったスラーデク夫妻(C)EWS Schoenau]
シェーナウ電力会社設立の中心となったスラーデク夫妻(C)EWS Schoenau


はじめに

2011年3月11日の東京電力福島第一原発の事故は、ドイツにも大きな影響を及ぼしました。何十万人の市民が反原発デモに参加し、事故から3カ月後、ドイツ政府は原発維持を翻し、2022年までの脱原発を可決しました。

南ドイツのシュバルツバルトと呼ばれる地方に、シェーナウという小さな街があります。シュバルツが「黒」、バルトが「森」で、文字通り「黒い森」という意味。その名のとおり、このあたりは深い緑に包まれ、空気の澄んだ美しいところです。夏はハイキング、冬はスキーが楽しめ、「空気の保養地」として認定されている市町村がたくさんあります。フランスとスイスとの国境を接することから、多文化の影響を受けています。

シェーナウはドイツの南西の端っこに位置し、私の住む北ドイツのハノーファーから600キロ離れています。ドイツ版新幹線のICEで5時間かけてフライブルクまで行き、そこからまたバスで2時間ほど走ります。バスは2時間に1本しかなく、山のあいだの細い道をくねくね走っていきます。道の両側には針葉樹がそびえ、日本の風景と少し似ていますが、ところどころに見える三角屋根の家々が、ドイツであることを思い出させます。こぢんまりした建物が点在し、自然の中で人々が生活していることがわかります。

シェーナウ市は人口2500人ほど。ここには有名なものがふたつあります。ひとつは、サッカーのドイツ代表監督ヨアヒム・レーヴ。シェーナウ市で生まれ、国内外のサッカーチームで選手として活躍したあと、2006年よりドイツ代表監督となっています。サッカーファンなら、愛称「ヨギ」のりりしい横顔を知っている人も多いでしょう。そしてもうひとつが、シェーナウ電力会社です。チェルノブイリの原発事故をきっかけにした反原発運動から発展した会社で、15年前から自然エネルギーを供給しています。この二つは、いまではドイツ国内はもちろん、世界でも知られるようになりました。

この連載では、このシェーナウ電力会社について書きたいと思います。市民運動から電力会社となった稀有な企業です。自らを「社会的企業」と称し、脱原発をめざし、電力市場の市民参加を促し、再生可能エネルギーを実践。一般の電力会社とは明確に一線を画しています。

私がはじめてシェーナウ電力会社を訪れたのは2002年のことでした。日本の環境団体の視察に通訳として同行したときのことです。そのとき、この会社の中心人物ともいえるスラーデク夫妻とお会いしました。ひげを揺らして豪快に笑う夫のミヒャエルさん、にこにこしながらも芯の強い妻のウルズラさん。お二人は市民運動を始めたころからのメンバーで、経営に携わっています。シェーナウ電力会社は組合制による会社で、ミヒャエルさんはオーナー会の代表でもあります。

二人はとてもフレンドリーで会話が弾みました。信念に基づいて熱心に活動しているようすが何より心に響きました。お二人と知り合えば、誰でも応援したくなるでしょう。人を引きつける魅力があるのです。ウルズラさんは「夫は医者だから、私は収入はいらないのよ」と、すごい仕事量なのにボランティアで生き生きと働いていました。会社での活動が、信念と一致しているが伝わってきました。

ドイツ広しといえども、反原発運動から電力会社に発展したのはここだけです。1986年にチェルノブイリ原発の事故があり、将来に不安を持つ市民有志が集まったのがきっかけです。当時5人の子どもを持つ主婦だったウルズラ・スラーデクさんを筆頭に、教師や電気技師、警察官、医師、主婦たちで、電力関係者はひとりもいませんでした。この市民グループ「原子力のない未来のための親の会」から発展し、市ではじめての市民投票や、大手電力会社との長きにわたる確執を経て、1997年にシェーナウ電力会社が設立されました。

メンバーたちはボランティアでずっと活動を続けてきたので、はじめて有給の社員が生まれたのは正式な会社設立の3カ月前とのこと。ドイツで1998年に電力市場が自由化される以前から、自然エネルギーを供給してきました。当初社員3人、顧客数は1700でしたが、現在は社員70人、顧客数13万を誇ります。

シェーナウ電力会社を作ったメンバーは、そもそも電力会社をつくろうと思っていたわけではありません。チェルノブイリの事故を通して「政府や電力会社は何もしてくれない。このままでは原子力のない社会は望めない」と悟ったのがきっかけでした。「すべての原発を停め、100%再生可能エネルギーにする」というビジョンがあっただけ。それが、結果的に会社設立に行きついたのです。

「当初は誰もが、失敗するからやめたほうがいいといいました。でも成功するとわかっていたから始めました。そして本当に成功したのです」と話すウルズラさんは今年66歳。現在はボランティアではなく、有給の役員としてばりばり働いています。講演会やワークショップで発表するなどドイツ各地を飛びまわり、自然エネルギーを推進する人たちに勇気を与えています。とても孫が9人いるようには見えません。

「日本ではまだまだ省エネの余地があります。電力が自由化されていなくても、電力市場を変えるために、日本でできることはあります」と話すウルズラさん。日本でも家庭用電力市場の自由化や、自然エネルギー買い取りの義務化が始まりますが、その先駆者であるドイツでどのような試みがおこなわれてきたのか。シェーナウ電力会社のなりたちとともにレポートします。


(1)福島原発の事故とドイツへの影響チェルノブイリ原発事故から25年

2011年4月25日月曜日、ドイツ各地12の原子力発電所前で反原発運動が開かれた。福島原発で事故が起こってから1ヵ月半後のことだ。この日は復活祭による祝日で、1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故からちょうど25年。私も北ドイツのグローンデ原子力発電所に出かけた。自宅から42キロしか離れていないから、事故が起これば他人事ではない。

グローンデ原子力発電所は、「ハーメルンの笛吹き男」で知られるハーメルン郊外の、のどかな田園地帯に位置する。加圧水型原子炉で1360メガワットの発電容量を誇り、83%の株を保有するイーオン社によると「世界でもトップ10に入る生産的な原発」であるという。

ドイツ鉄道はデモ参加者向けに臨時列車を用意したが、列車は満員だった。若者や家族連れ、年配者など幅広い層、約1万人がやってきた。大半は列車で来て、駅から原発までの田舎道を3キロ歩いた。人々は思い思いに太鼓を鳴らしたり、プラカードを掲げたりしている。反原発の飾り付けを施したトラクターが70台勢ぞろいした。

日差しは穏やかで、駅からの道のりにはよく手入れされた家が建ち並ぶ。何人かが窓から顔を出して、なにごとかと行列を見ている。乳母車を押して散歩する夫婦とすれ違った。ドイツ政府の調査によると、原発から5キロ以内に住む子どものガン発症率は、通常の倍以上だという。ここに住む人たちは普通に生活しながら危険にさらされているのだと思った。

デモといっても平和的なものだ。午後の日差しのなか、風にたなびく冷却塔からの煙を眺めながら、原発周辺で寝転がっていただけ。原発に隣接するウェーザー川では、ボートに乗る参加者の姿も見られた。警察官も大勢いたが、原発周辺で柵にもたれて人々を見守っている。原発前の道路に設けられた舞台からはスピーチや音楽が聞こえ、子どものコーラスや太鼓の演奏もあった。ボール遊びをする家族や、トランプをする若者グループもおり、いつもなら公園にでかけるところが、たまたまこの野っ原に集まったという雰囲気だった。同原発での大規模デモは1977年の建設当時以来だという。当時は2万人が参加し、警察による催涙ガスや放水がおこなわれた。しかし建設は進められ、1984年から稼動となった。

この日だけで、ドイツ全土で10万人以上がデモに参加した。事故がなければ、チェルノブイリ25周年とはいえ、こんなにたくさんの参加はなかっただろう。福島第一原発の事故は、各国のなかでもとくにドイツでもっとも大きな影響を及ぼしたといわれる。事故直後から何十万人もの人がデモに繰り出し、州選挙では原発推進の現与党が票を減らした。事故3カ月後に、政府が2022年の早々に脱原発を決めたのも、このような下からの圧力が大きかったためだ。



2011年4月に行われた反原発デモのようす


国民が望んだ脱原発

福島原発で事故が起こったとき、ドイツでは17基の原発が稼動し、電力の3割をまかなっていた。国産の石炭は単価が高いため競争力がなく、ウラン、石油、天然ガスを輸入に頼るドイツでは、風力や水力、太陽光、地熱などの再生可能エネルギーを推進している。2011年に自然エネルギーの占める割合は20%、原発は約30%だった。エネルギーコストは概して高い。1991年には「電力供給法」により再生可能エネルギーの買い取りが義務化され、2000年の「再生可能エネルギー法」により自然エネルギーを固定価格で買い取ることが定められた。

20年間の固定価格により、採算が合うことが保証されたため、投資の対象となった。ソーラーパネルを各家庭が自宅の屋根に設置したり、生徒や親が学校に、企業が自社ビルに設置する例も見られた。市民団体が風力発電の出資を募って共同建設したり、農家数軒が一緒にバイオマス施設を作るなど、分散型のエネルギー生産が各地で始まった。「100万の屋根ソーラープロジェクト」など、国や自治体による推進プロジェクトも成果を上げた。

1998年より電力市場は自由化されており、人々は電力会社を選べる。ネットには電力料金比較のサイトがあり、各社を比較するのも簡単だ。郵便番号を入れると、その地域に電力供給している会社の一覧が出てくる。全国には1000ほど電力会社あるが、各地域ではそのうち150から200の会社のなかから選んで電力を購入することになる。電力会社の乗り換えは簡単で、新しい会社で購入手続きをすれば、新会社がこれまでの会社の契約解除も請け負ってくれる。2012年から、2週間の猶予期間で電力会社を乗り換えることができるようになった。

「福島原発の影響で、ドイツは2022年の脱原発を決めた」と言われているが、厳密にいうとすでに2000年に、労働者の支持が高い社会民主党(SPD)と環境政策に重点を置く緑の党の連立政権が、2022年の脱原発を決定していた。しかし政権交代があり、保守政権のキリスト教民主同盟(CDU)と自由民主党(FDP)の連立政権は2010年秋に原発の稼動延長を決めた。旧型の原子炉は8年、新型は14年稼動期間を延長するというもので、脱原発の延期である。福島原発の事故の半年前のことで、これは原発を保有する企業の悲願だった。当時も多くの反原発運動が各地で起こったが、法案は採決された。

しかし福島原発の事故の3日後、アンゲラ・メルケル首相(CDU)はすべての原発の点検と、半年前に決定したばかりの稼動期間延長の3カ月間のモラトリアム(猶予期間)を発表した。15日には、旧型原発7基の暫定的停止を決定し、うち2基を即永久停止とした。

国民の反応も早く、事故から3日後の3月14日に全国450以上の都市で一斉デモが起こった。21日には全国600カ所で11万人が反原発デモに参加し、26日には21万人が、ベルリンなど4都市での大規模デモに出かけた。4月26日はチェルノブイリの事故から25周年とあって以前から各地の原発周辺で反原発デモが計画されていたが、福島の事故を受けて予想以上の人出となった。

政府は福島事故の数週間前に原発は安全だと太鼓判を押したにもかかわらず、事故後すぐ暫定停止をしたため、かえって不信感を招いた。野党からも、州議会選挙を控えてのポーズにすぎないと批判が集中した。結局、南ドイツのバーデン・ビュルテンベルク州議会選挙では保守派で原発推進のCDUが負け、与党の座を58年ぶりに降りることになった。代わりに、ドイツではじめて緑の党の州首相が誕生した。ブレーメンなど他の州議会選挙でもCDUは票を減らした。とくにFDPは大敗して政権入りできない州もあるなど、現政権の求心力が非常に低下していることを示した。緑の党はこれまでになく躍進した。同年夏のアンケートによると、ドイツ人の8割以上が脱原発を望んでいた。

ドイツでは1962年、カール原子力発電所がはじめて操業を開始して以来、プロトタイプを含め25基が建設された。しかし89年のグライスヴァルト原発を最後に新設されていない。他にも工事を開始してから中断したものが6基、計画倒れはもっとある。緑の党は30年以上前から脱原発を推進しており、2000年の脱原発決定のさい与党として大きな役割を果たした。しかし当時から、政権交代により脱原発案は覆されるのではないかと危惧されていた。2010年秋の稼動延長はその予想が当たっていたことを示すが、福島原発の事故が軌道修正を迫ったことになる。福島原発の事故により、「脱原発」という国民の総意が確立され、政府はそれを無視できなくなったのである。
繰り返された惨事

反原発運動は60年代からあったが、一時下火に。そして1986年のチェルノブイリ原発事故をきっかけに激しく再燃した。ドイツでも農作物や牛乳から放射能が検出され、多くの人を不安に陥れた。とくにウルズラ・スラーデクのように子どもをもつ母親の心配は大きかった。チェルノブイリ以降は、カルカー原発のように建設されたにもかかわらず、安全性を満たしていないとして稼動されず、跡地が遊園地に生まれ変わったものもある。

今回の福島の事故では、多くのドイツ人の胸に、チェルノブイリで味わった恐怖感がふたたびよみがえった。黄色をバックに赤い太陽が微笑む「原子力おことわり」のマークが、あちこちで見られるようになった。店先や、車のボンネット、家の窓、ベビーカー、自転車などに貼られた。日本語版もあらわれた。

ドイツのメディアは連日、福島について報道した。ドイツの反応は世界のなかでもっとも極端だったとも言われる。ドイツの会社は早々に社員を日本から引き上げ、ルフトハンザ航空は東京就航をとりやめ、ドイツのテレビ局は東京から大阪に事務所を移した。ドイツ国内でも、放射能測定器が売り切れ、放射能の拡散のようすや放射能値が詳細に発表された。一方、日本人がパニックや暴動におちいらず、落ち着いたようすで事態を受け入れていることに賛嘆の声が上がった。水や食べ物の配給に長い列を作り、身内を失ったにもかかわらず他の人を助けるなど、日本人の精神を評価する論調が多かった。

反面、日本政府の対応が遅いこと、「大丈夫」をくりかえして正確な情報を提供しないことを「チェルノブイリのときと同じだ」と痛烈に批判した。チェルノブイリのときのソ連政府やドイツ政府の対応への不信感も下敷きになっているのだろう。1500キロ以上離れているのに放射能が検出されたこと、その恐怖感をドイツ人はすぐさま思い出した。そして日本の被災者に思いをはせ、胸を痛めている。

南ドイツのフライブルクやシェーナウ周辺で反原発運動が盛んなのは、川向こうのフランスに原発があり、チェルノブイリのときの放射能がいまだ野生のキノコやイノシシから検出されるためだ。ドイツの使用済み核燃料はフランスのラハクで再処理された後ドイツに戻り、北ドイツ・ゴアレーベンの一時保存所で保管されるのだが、この輸送「カストロ・トランスポート」のさいにも毎回、大きなデモが起きている。最終処分場も決まっておらず、場所選びに難航している。

チェルノブイリ事故により原発の危険性を切実に感じたシェーナウの市民たちが、どのような活動を展開したのか、どうやってさまざまな困難をのりこえ、ついには自ら電力会社を設立するに至ったか。これから紹介したい。

(第2回に続く。次回は6月下旬更新予定です)



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田口理穂(たぐち・りほ)
ジャーナリスト、ドイツ語通訳。日本で新聞記者を経て96年よりドイツ・ハノーファー在住。州立ハノーファー大学で社会学修士号取得。共著に「『お手本の国』のウソ」「ニッポンの評判」(ともに新潮新書)。


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