[CML 049378] 1937年7月7日

donko at ac.csf.ne.jp donko at ac.csf.ne.jp
2017年 7月 8日 (土) 00:21:40 JST


 坂井貴司です。
 
 フェイスブックからの転載です。
 
  今年は日中戦争開戦から80年です。しかし、マスコミを始め誰も話題にはし
ていません。皆、忘れています。

 80年前の1937年7月7日、北平(現在の北京)に駐屯していた日本陸軍の部隊
が演習を終え、基地に帰ろうとしました。盧溝橋(ろこうきょう)を渡っていま
した。そこへ銃弾が2発飛んできました。驚いて臨戦態勢を取りました。点呼を
すると、兵士が一人いないことがわかりました。
 部隊の指揮官は、基地の司令官だった牟田口廉也に電話で連絡し、指示を仰ぎ
ました。牟田口は即答しました。

 「撃たれたら、撃ち返せ!」

 日本軍部隊は、中国軍基地を攻撃しました。
 戦闘が始まった後、いなくなっていた兵士が戻ってきました。用を足しに部隊
から離れていたと言いました。
 
 この謎の発砲から日中戦争が始まったことを、藤岡信勝を始め右翼の学者やネ
トウヨは

 「盧溝橋事件は日本と中国を衝突させるために、毛沢東とスターリンが共謀し
て行った工作だった。コミンテルンの陰謀だった」

と言っています。ネット上では定説になっています。
 もちろん、これはなんの証拠もないデマです。
 誰が何の目的で発砲したかは、80年が経った今でも謎のままです。しかし、こ
の発砲を中国軍のものだと決めつけ、戦闘をはじめたのは日本軍側でした。

 日中両軍が武力衝突をしたことに対して、日本陸軍首脳部は2つに割れました。

 「即時停戦、不拡大」を主張したのが、石原完爾でした。謀略によって、満州
事変を起こし「満州国」を建国させたことで英雄となった石原は、参謀本部作戦
部長に栄転しました。彼が行ったことは、天皇の許しを得ずに部隊を動かした陸
軍刑法違反でした。本来は軍法会議にかけられ、死刑になるはずでした。満州事
変を成功させたことで、それは免罪になりました。
 これが思わぬ形で、彼に帰ってきました。

 石原完爾は主張しました。
 
 「日本とアメリカは、世界の覇権をめぐって最終戦争を行うだろう。だから、
それに備えて満州国を建国させたのだ。
 だが、アメリカとの戦争の準備ができていない今、中国と全面戦争に入るのは
まずい。アメリカとイギリスが中国を援助するだろう。ソビエトも肩入れをする
だろう。戦争は長期化する。そうなれば、アメリカに有利となる。
 戦争は拡大すべきではない」。

 それに対して、同じく参謀本部作戦課長だった武藤章は戦争拡大を主張しまし
た。

「これは、満州国をあくまで認めない蒋介石を叩く絶好のチャンスです。ヨーロ
ッパ情勢が緊迫している今、アメリカやイギリスがわが国と関係を悪化させてま
で、中国を支援することは考えにくい。ソビエトも同様です。
 それに、現地部隊の若手将校たちが張り切っていますので、抑えるのは難しい
です。」

 「勝手に軍を動かすことは禁止されているはずだ!」

 「しかし、石原さん、あなたは謀略で満州事変を起こし、畏れ多くも天皇陛下
の許しを得ずに、軍を動かしたじゃありませんか。それを、若手は見習っている
のですよ」

 石原は絶句しました。

 武藤の言葉通り、現地の陸軍部隊は参謀本部の命令や方針を待たずに、次々に
中国軍を攻撃し、戦線を拡大させていきました。それを追認する形で、日本から
増援部隊を送りました。

 この戦線拡大を後押ししたのは、沸騰した世論でした。
 虞溝橋事件以降、日本の新聞や雑誌は、戦争を煽る記事を書きまくりました。

 「傲慢無礼なシナを撃て!これは東洋平和のための聖戦だ。徹底的にやっつけ
ろ!」

 それに煽られ、日の丸を林立させて全国各地で数十万の人々が「支那撃滅国民
大会」を開催し、デモ行進をしました。
 世論調査の数字は、圧倒的多数が戦争支持でした。
 戦争反対の声は少数でした。言論統制によって、戦争反対の声を公然と叫ぶこ
とはできなくなっていたからです。

 戦争支持の世論は、陸軍の強硬派を後押ししました。

 ところが、日中戦争は日本の予想を裏切る展開になりました。
 すぐに中国は日本に降伏すると軍を含めほとんどの日本人は思っていました。
ところが、中国軍は激しく日本軍と戦いました。日本軍は苦戦しました。
 日本軍を驚かせたのは、中国軍の武器の性能が日本軍のものとほぼ同じだった
ことです。
 特に機関銃は正確に日本軍の将兵を撃ち抜いて倒しました。
 調べてみると、小銃はドイツ製のモーゼル銃、機関銃は当時ドイツが支配して
いたチェコで製造されたものであることがわかりました。
 これらの高性能の武器は、ナチスドイツが中国に輸出したものでした。

 清朝末期、軍隊を近代化する「洋務運動」が行われました。そこで協力したの
がドイツでした。軍事顧問団を送って、清朝の軍隊にドイツ流の戦闘のやり方や、
ドイツ製武器の使い方を教えました。それは清朝が打倒され中華民国が成立した
後も続きました。ことに、第一次世界大戦敗北、ドイツ軍が大幅に縮小されると、
失業したドイツの軍人を顧問として中国軍は大勢雇い入れました。
 中国軍とドイツ軍の密接な関係は、ナチスドイツになっても継続されました。
 日中戦争が始まると、ドイツ人の軍事顧問は中国軍と一緒に行動して、日本軍
との戦いをアドバイスしました。訓練や武器の扱い方を指導しました。

 「日清戦争とは全く違う。中国軍は整然と行動し、モーゼル銃やチェコ機関銃
で攻撃する」

と、日本軍は記しました。

 日本政府は中国への武器輸出をやめ、軍事顧問団を引き揚げるよう、ヒトラー
に何度も要請しました。しかしヒトラーは

「中国は長年に渡るドイツの友好国である。それに中国への武器輸出は、ドイツ
に大きな利益をもたらしている」

と、はねつけました。
 そのヒトラーは日本との同盟を関係を結ぼうと働きかけていました。

 中国は日本軍を「大地の罠」にはめる作戦に出ました。後退して、日本軍を奥
地へとおびき寄せたのです。

 日中戦争開戦時、この戦争はすぐに終わると日本軍は楽観していました。です
から補給計画は立てていませんでした。ところが、戦争が長期化したため、食料
は欠乏しました。それで日本軍は食料を「現地調達」しました。中国人から略奪
したのです。何もかも強奪し、家屋を焼き払いました。中国人を皆殺しにしまし
た。
 南京占領の前から、すでに日本軍による組織的な略奪や虐殺は行われていまし
た。

 当時、中国の首都だった南京の占領に日本軍は全力を注ぎました。激戦の末、
南京を陥落させました。日本全土で「祝南京占領」の提灯行列が盛大に行われま
した。それと同じころ、南京市内では日本軍による殺戮が行われていました。

 戦争は終わりませんでした。蒋介石は首都を奥地の武漢、重慶に移しました。
日本軍は奥地へ奥地へと進撃しました。
 その結果、日本の総面積の倍以上の土地を日本軍は占領しました。しかしその
実態は、日本軍自身が認めた通り「点(都市)と線(鉄道、道路)の占領」でした。
中国軍はその点と線を攻撃しました。線(鉄道、道路)は寸断され、日本軍はし
ばしば、点(都市)の中に孤立しました。その点の中でも爆弾が爆発し、狙撃が行
われました。日本軍は振り回され、疲弊し、消耗しました。

 この戦争で、海軍航空隊のパイロットとして戦ったのが、戦後『大空のサムラ
イ』を著して有名になった坂井三郎でした。
 長距離飛行ができる零式艦上戦闘機(ゼロ線)に乗った坂井は、ゴビ砂漠の西端
を飛行して、

 「こんな地の果てまで行っても戦争は終わらない。本当に勝てるのだろうか」

と強い不安を抱きました。

 日本とナチスドイツが三国同盟を結んだことで、中国からドイツは手を引きま
した。代わってアメリカ、イギリス、ソビエトが中国支援にのりだしました。日
本が中国全土を支配して、アメリカ、イギリス、ソビエトの権益を奪うのではな
いかと思ったからです。
 米英の世論は中国に同情的でした。日本に対する感情は悪化しました。
 アメリカは日本に対して、日中戦争をやめ、「満州国」建国を取り消すよう、
経済制裁を行いました。これにより、日本は深刻な物資不足、燃料不足に陥りま
した。このままだと、戦争の継続は不可能になることは明らかでした。
 しかし、「日本は必ずこの戦争に勝利する」と国民に言い続けてきた手前、い
まさらやめる訳には行きませんでした。「満州国」建国取り消しを飲むことはで
きませんでした。もし、「満州国」建国を取り消したら、日本の植民地支配体制
が崩壊する恐れがありました。それは大日本帝国の滅亡でした。

 石原完爾が危惧した通りになってしまいました。

 自ら八方塞がりの状況を作った日本は、打開策としてアメリカ、イギリスとの
戦争を始めることを決めました。東南アジアを素早く占領し、その豊かな資源で
戦争を継続し、有利な条件で和睦するという虫のいいものでした。
 
 1941年12月8日、日本軍と中国軍との戦争が続いている中、日本は太平洋戦争
を始めました。

 結局日中戦争は、台湾出兵から始まった日本のアジア侵略の帰結となりました。
 同時に2つの戦争を行うという無謀な選択をした日本は、破滅の道を転げ落ち
ました。
 
(以下は別の方の投稿です) 
 
 今夜は七夕。盧溝橋事件80ヶ年。
日中全面戦争に突入した日です。

1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で日本軍の支那駐屯軍(ママ)と国民革
命軍第29軍が衝突し、日中間の全面戦争がはじまりました。

その後、日本軍は中国戦線において、無差別爆撃や大虐殺、略奪、性暴力を繰り
返しました。

でもなぜ、あの夜、日本軍が北京にいたのでしょうか。

盧溝橋事件の37年前、義和団の乱(1900)に軍事介入した日本は、中国大陸
に出兵します。
そして、翌1901年に調印した北京議定書を根拠にして日本は中国大陸に軍隊
を常時駐屯させていたのでした。

これが事実です。
歴史の事実をねじ曲げることはできません。
あったことをなかったことにするなんてとんでもないことです。

明治維新(1868)でアジアではじめて近代国家を建設した日本は、アジア諸地
域の独立運動や抵抗運動を支援・連帯するのではなく、欧米諸国とともに帝国主
義侵略国家の道を歩みました。

1945年まで続く「侵略の80年」をきちんと捉え返していかないといけない
と思います。

今、戦争の足音が近づいている。

今こそ、反戦平和のたたかいを!

日中不再戦の熱い誓いを胸に!

(ここまで)

坂井貴司
福岡県
E-Mail:donko at ac.csf.ne.jp
======================================
「郵政民営化は構造改革の本丸」(小泉純一郎前首相)
その現実がここに書かれています・
『伝送便』
http://densobin.ubin-net.jp/
私も編集委員をしています(^^;)
定期購読をお願いします!
購読料は送料込みで1年間4320円です。


CML メーリングリストの案内