[CML 050113] 報告とお詫びです

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2017年 8月 31日 (木) 14:35:54 JST


皆様、再度BCCで失礼します。

 

まずご報告です。

三浦俊一さんは、昨日の精密検査等の結果、とりあえず入院はせずに当面の自宅安静
という診断結果が出ました。一安心です。彼は既に釜ヶ崎の活動現場に戻っており、
加えて毎月の「従軍慰安婦」支援集会の準備や、毎週の三宮と梅田での「辺野古アッ
ピール」、そして「辺野古現地闘争」への毎月の参加等を、今まで通り続ける予定に
しているそうです。

 

さて、続いてお詫びです。

昨日の三浦俊一さんへの支援のお願いについて、「彼の事をちゃんと教えてほしい。
全然知らない人への支援要請ならばそれが最低のマナーではないか」とのご批判を、
教団関係者や大学研究所の先生方、それに今までの活動現場で彼と関わらなかった活
動家の皆さんから寄せられました。当然のご批判です。何時もながらの慌て者の大失
敗、まず自己批判いたします。そのうえで、彼の今までの働きを、各方面に迷惑をか
けない範囲で、お伝えします。内容のほとんどは、彼が今までfacebookで随時公表し
ている文章を省略して参考にしています。

 

彼は1966年関東学院大に入学し、社学同系の自治会活動に参加。第二次ブントの結成
の中で各種闘争に参加し、67年10・8闘争を現地部隊の最先頭として担い、67・68年
のゲバルト闘争に「ほぼすべて参加した」(本人の弁)とされている。関東学院大全
共闘の結成で議長にされ、カクマル派を除くほぼ全てのセクトが乱立する中、現場指
揮官としての人格的信頼から「纏まらない時の『議長一任』」という神話を残す。69
年1・18東大闘争「安田砦攻防戦」に「田舎大学の全共闘」(前同)として最大動員
を果たすが、本人は議長として「無念にも」(前同)残され、69年の学内闘争の中で
バリケードの部隊は拡大するが、ブントの党内闘争では何時も「部外者」(前同)と
なり、その後、党内闘争に敗れた赤軍派が突如助けを求めてバリケードに押しかけ、
その残留を認めたことで、他称「赤軍派」となる。69年の闘争は各派がしのぎを削っ
て闘うが、全共闘議長として、闘う者は全て「同志」との基本姿勢から各派に万遍な
く対応して支援し、その中で「米軍基地爆破闘争」に加わった京浜安保共闘の後輩を
バリケードの中で守り、逮捕状を掲げる機動隊部隊と長期にわたって対峙という事態
も。11・16佐藤訪米阻止闘争では全共闘単独闘争を現地各所で展開し、明け方近く空
港フェンスまで唯一たどり着いたが、機動隊もいない中シュプレヒコールを延々と繰
り返すことで闘争終焉となる。バリケードと全共闘の解体過程で、距離を置いた赤軍
派として行動し、連合赤軍結成から崩壊、赤軍派再建、党内闘争を体験。以後、活動
の限界から「生活的転換」を図り、大衆運動を維持しながら貿易商として働き、エー
ジェントとしてパリ等で企業活動を長期にわたって展開し、家族も持つが、経営的問
題もあり企業を整理。大衆運動への捨て難い思いと、「連合赤軍総括」への苦悩の中
で、大阪・釜ヶ崎でのやり直しの活動へと転身し、以後、釜ヶ崎日雇組合を中心とし
た闘いを現在も続ける。本田哲郎神父の釜ヶ崎教会へもしばしば通っていたという。

 

以上が、取り敢えずの三浦さんに関する時系列的経過です。経済的にも困難な中、こ
の数年、辺野古での現地闘争にも毎月参加し、現地での信頼も大きなものがありま
す。また、毎週の反原発関電抗議闘争など関西での各種運動の中での彼への信頼は強
いものがあります。

 

少し長い紹介となりましたが、どうかお許しください。なにとぞ皆様のご理解を頂け
ればと、心から祈っております。

 

橋野高明拝

 

 



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