[CML 043268] Fw: 9条と象徴天皇はセット・ 経産省前テントひろば1697日目>

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2016年 5月 5日 (木) 09:22:23 JST


みなさんKMさん
お世話様

アベ達は憲法を押しつけと言っていますが、

「戦争はもうこりごり」の国民・市民は大歓迎しました。

国民・市民が新憲法に反対していたら、確かに押しつけですが、

そうでない限り、押しつけとは言えません。

しかし、アベのいう押しつけ憲法によって

天皇の命が助かった、という事実をアベに突きつける必要もあります。

なぜなら、本来天皇は戦争犯罪者として処刑されなければならなかったからです。

「象徴天皇と9条(永久に戦争のできない国)」はセットですから。

アベが9条変えろというなら、天皇制も廃止させることになります。

           (さいたま市 石垣敏夫)


以下一部転送です

テント日誌5月3日(祝)
経産省前テントひろば1697日


三輪さんの録画です。
https://www.youtube.com/watch?v=PBrdMFHHUDs
(I・K)


朝、NHKニュースで世論調査の結果を伝えた。
≪「憲法9条」について改正する必要があると思うか聞きました。
「改正する必要があると思う」が22%
「改正する必要はないと思う」が40%
「どちらともいえない」が33%
3年前の同じ時期に行った調査では、憲法9条について改正が「必要」という人と「必要はない」という人の割合はほぼ同じ程度でした。その翌年のおととしからはそれぞれ「必要はない」という回答が「必要」という回答を上回っています。≫ 安倍が九条改憲反対者を増やしているのはうれしい。でもまだ「どちらともいえない」多いので安心できない。

憲法集会会場には広々とした空間に沢山の人が集まった。発表は5万人で確かに昨年の横浜大会より多いと感じた。
集会では、むのたけしさんの話が印象に残った。
≪戦争とは何か:常識では考えられない。相手を殺さなければこちらが死ぬ。死にたくなければ殺せ。戦争を始めてしまったら止めようがない。
憲法九条は屈辱であるが、九条が平和をもたらすと受け止めたのが、古い世代が精一杯できたこと。70年間、戦死させず、他国民の誰も戦死させなかった道はまちがっていなかった。≫

4野党党首が揃い、夏の参議院選挙に向けて、戦争法廃止を訴えたのも良かった。
集会後のお台場コースデモは、心配したとおり、湾岸の広々とした道路を歩くのみで沿道には関係者以外誰もいない。沢山の隊列なのに勿体ないと強く感じた。
(K.M)

いつもと違う光景を見た憲法集会
雨降らず、且つピーカン過ぎずの好天に恵まれ、私は預かっていたチラシ等を自転車に積んで9時半、テントひろばに立ち寄ったところ、ちょうど荷物をタクシーで運び込む一隊が出るところで、チラシをお願いして一息ついてから追っかけた。

テントでもお馴染みの制服向上委員会(自体の楽曲は別の「イベント広場」で惜しくも撮り逃してしまったが)齋藤優里彩さん司会で正午からのプレコンサート以降はまるまる(事前の音合わせ風景やブース等一通りも)録画があり、
<a href="http://twitcasting.tv/showering00/movie/267197495" target="_blank">http://twitcasting.tv/showering00/movie/267197495</a>
<a href="http://twitcasting.tv/showering00/movie/267197495" target="_blank">http://twitcasting.tv/showering00/movie/267205582</a>
また他の方々の報告記事も多いだろう。

原発それ自体としては「福島の被災地から」原子力資料情報室のイケメンホープと期待される片岡遼平さん。勿論、お馴染みのみなさんからも「原発反対」等の言葉が飛んでいた。
)

憲法 立憲主義が新たな言葉として登場して
「柱のきずは おととしの 5月5日の 背比べ」というのが時折口をついて出る。これは子供の日の歌なのだが、どこか5月の歌でもあるように思う。連休の街並みはちいさな子殿をつれた若い人にたちが多い。これは街の雰囲気を和ましてくれる。連休の街並みの風によくあうのである。このことは子供の日が自然に浸透していることと無縁ではあるまい。これに比べると憲法をたたえる歌はないし、憲法はどこかよそよそしいところがある。
僕が5月3日にいつも気づくのはこのことだ。5月3日は憲法記念日であり、祝日なのだが、どうもそんな扱いを受けてはいないのである。そしてこれは何故だろうと、いうのがいつのこの日に僕が自然に考えることだ。本当は子供の日のように自然に口をついて出る歌のようなもので祝えばいいのにとは思うのだけれど…

これには理由があるのだと思う。憲法は国民(市民あるいは地域住民)が権力を律する法(掟)を創りだしたものあり、それは革命という祝祭のなかで誕生したものだ。これが歴史的には憲法の生誕にまつわる物語だし、めでたさの起源である。どうも、我が国では憲法はお上(権力)が国民に下賜したものであるという性格が色濃くある。大日本帝国憲法が欽定憲法であったことを想起すればいい。歴史的にはこの憲法を国民の創ったものに練り直す闘いを戦前から繰り返してきたことを僕らは知っている。戦前の憲政政治を目指す闘いや戦後民主主義の国民化の努力としてそれはあったと言える。だが、それでも、憲法にはよそ行きの着物という感じとどこか馴染めないところがある。憲法はあえて言えば、僕らの「自由や民主制」の現存感覚として現存し、それが現実に存在する憲法であるといえる。
言葉や理念としての憲法はこの自由で民主制という現存感覚と乖離し隙間がある。憲法という言葉や理念にある種の距離を感じ、なじまないところがあれば、これは憲法の生誕とその後の歴史によるものだし、僕らはここのところはしっかりと受け止めて、現存感覚としての自由や民主制から憲法に魂を入れ、不断に憲法を憲法として創り変えているのだという自覚が必要だろう。護憲とは条文としての憲法(成文としての憲法)の墨守ではなく、不断に憲法に魂(精神)を吹き込み、それを作り変えていくことであり、憲法を身体化していくことなのだ。憲法をよそ行きの着物から脱しさせていくことである。
最近の立憲主義という言葉の登場とその流行りもこの観点から理解しなければならない。憲法の本質は国民主権であり、権力を制限ししばることであり、このことが国民のみならず、権力者にとっても通用する、つまりは誰もが規範にするもとしてあらしめることである。先に僕が憲法とは僕らの自由で民主的な現存感覚であるといったもの一つの表現なのだ。「民主主義って何だ」「これだ」という掛け合いの中で確かめられるものと同じである。

憲法が僕らに馴染みにくいもう一つの理由がある。左派や左翼の思想に起因するものである。憲法とはブルジョワ憲法であり、自由や民主主義はブルジョワ思想であるという見解である。ロシア革命とともに人々の間に浸透した考えである。これはロシア革命が滅んだのとおなじように滅んでいったロシアマルクス主義の所産だが、これが左派や左翼の面々に与えた影響は強く、薄らいでいるけれどまだ残っている。自由や民主制は資本主義とともの登場し、歴史的にはそのように段階づけられるとする理念やイデオロギーだが、これはロシア革命が後代に残した悪しき考えである。自由や民主制は歴史段階的に制約されるものでなく、もっと永続的なものだ。その具体的な現れが、歴史的に制約されるのは当然だが、それは歴史的な段階や制約を超えていくものだ。
例えば自由は自由が実現して行く過程としてあり、この過程は永続的なものである。人は生まれながらに自由ではなく、闘い闘い自由に成っていくのだ。人はこの自由の途上でなくなるのだ。由や民主制の重要性を見そこなった左派や左翼の思想は憲法をまたみそこなったのである。ブルジョワ憲法という概念で憲法の理解を歪めた。憲法にブルジョプワ憲法とプロレタリア憲法がるわけではない。左派や左翼の思想が再生できるとすれば、自由や民主制の、また憲法の正当な評価が手掛かりになうのだろう。現在ではこんなことは語る必要のないことかもしれないが、左派や左翼の影響下で憲法観も形成された僕らの世代のこととして一言語って置きたかった(三上治)



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