Re: [CML 041745] 許しがたい戦犯が許されることこそ、「日本人が過去を反省し、懺悔(ざんげ)し、軍国主義を拒否することになる」 あるいは、上田敏明『聞き書きフィリピン占領』

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2016年 1月 29日 (金) 09:13:28 JST


檜原転石さん
お世話様
富国強兵政策(実態は貧国強兵:軍人武器は何も生産せず
国民市民は重税にあえぐ)
を強引に進めるアベ政権
とうしたら倒せるか、
についてもご意見を発信してください。
 (いしがき としお)


許しがたい戦犯が許されることこそ、「日本人が過去を反省し、懺悔(ざんげ)し、
軍国主義を拒否することになる」 あるいは、上田敏明『聞き書きフィリピン占領』 

檜原転石です。

許しがたい戦犯──天皇ヒロヒト、岸信介とか大勢・・・

許してしまって、日本低国は、ヒロヒトに売られた沖縄が米軍基地でボロボロに
なり、安保で本土にも米軍基地で、侵略基地として敗戦後も侵略戦争で大儲
け、・・・戦犯の孫・安倍晋三によって解釈改憲クーデターまでされる始末。

まるで弁護に窮した悪徳弁護士の苦し紛れの戯言のよう──

【許しがたい戦犯が許されることこそ、「日本人が過去を反省し、懺悔(ざん
げ)し、軍国主義を拒否することになる」】

▼特赦願った200通、比大統領の決断 両陛下、孫娘らと懇談へ

2016年1月28日16時30分
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12182690.html?rm=150

・・・
だが、在日フィリピン代表部で懇意になった大使からは、こう言われた。キリノ
氏はマニラ市街戦で妻子4人を亡くし、日本軍に銃剣で殺された2歳の娘を自ら
埋葬した。女性や子どもを殺された傷痕は永遠にフィリピン国民の胸から去らな
いだろう――。

それでも莞蕾は許しがたい戦犯が許されることこそ、「日本人が過去を反省
し、懺悔(ざんげ)し、軍国主義を拒否することになる」と訴え、嘆願書を送り
続けた。キリノ氏は国交正常化前の53年7月、「日本人に私から憎悪の念を受
け継がせない」とする声明を出し、100人超の戦犯全員を特赦した。
・・・



▼2005年7月23日(土)「しんぶん赤旗」

太平洋戦争でフィリピンはどうだった?
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-23/05072312faq_01_0.html

〈問い〉 太平洋戦争で日本軍がフィリピンを占領し犠牲者も多かったと聞きま
す。どんなことがあったのですか?(東京・一読者)

〈答え〉 1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾攻撃の直後に、米
国統治下の保護領フィリピンで上陸作戦を展開し、42年1月2日、「誰一人歓
声をあげる者もおらず拍手をする者もいなかった」(『フィリピンの歴史』グレ
ゴリオ・F・サイデ 松橋達良訳)なかで首都マニラに入城しました。

日本軍は、戒厳令を布告。フィリピン人による行政委員会を設置し、大政翼賛
的な組織カリバピをつくらせ、「第二共和国独立宣言」(43年10月)をさせ
ました。しかし、「実質的な軍政はこの後も続き、『独立』は形骸化した」
(『フィリピンの事典』)ばかりか、台風の影響もあり、「大規模な飢餓」が起
こりました。(『マニラ、私のマニラ』(ニック・ヨアキン)

学校では日本語の学習が義務付けられ、抗日のうわさを広めたというだけでも
「犯罪」とされ死刑が科せられました。

マニラ・イントラムロスのサンチャゴとりででは、多くのフィリピン人が「水
面下の地下ろうに閉じこめられ、満潮時に水死させられ」ました。(『地球の歩
き方 フィリピン』)

42年4月9日、マニラ湾に突き出たバターン半島では、米軍が降伏。フィリ
ピン兵7万人、民間人4万人、米兵1万人が、112キロの「死の行進」を強い
られ、米国の公表でもフィリピン人1万6千人、米人1200人が死亡しました。

米軍は44年10月、レイテ島に上陸し、45年2月にはマニラへ。敗走する
日本兵は民家や政府の建物、大学、教会に火を放ち、女性に乱暴し、多数の市民
を虐殺しました。45年8月15日、日本が無条件降伏。フィリピンは解放さ
れ、米国の統治下に戻った後、46年7月に独立しました。

51年9月、サンフランシスコ講和会議でフィリピンの外相は、日本軍が
100万人のフィリピン人を殺したと告発。フィリピン戦の日本兵の「犠牲者数
は50数万。これは満州事変以来の中国大陸での犠牲者数を上まわる」(『ルソ
ン戦―死の谷』(阿利莫二)とされています。(崎)

〔2005・7・23(土)〕

▼上田敏明『聞き書きフィリピン占領』
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/Philippines/kikigaki2.html

・・・

一〇日の深夜、師団は降伏命令を受け、定められた降伏地点へ向かい、徒歩で移
動し始めた。途中、日本軍の車が後ろから隊列の先頭に追い付き、将校に止まる
よう命じた。約四〇〇人の将校と下士官が残り、両手を縛られ、さらに戦場電話
の通信線で一列の隊列につながれた。六号道路と二九号道路の交差する辺りまで
歩かされ、近くの渓谷に沿って立たされた。

  日本兵たちは列の後部から銃剣で、日本軍将校は列の頭から日本刀で、捕虜
を刺し殺しだした。虐殺は午後三時から始まり、五時過ぎに終わった。

  またピラー町-バガック町間の道路(二〇号道路)では、第一一師団の捕虜
の多くが生き埋めにされた。歩けない米比兵を埋めるよう、日本軍の軍医将校が
命じたのだった。

  こうした捕虜の殺害は、前に触れた辻正信参謀の越権行為が主因だった。大
本営の命令と称し、「米比軍投降兵を一律に射殺すべし」と辻参謀が口頭で各部
隊へ命じたのだ。

  ただし全部の部隊が従ったわけでなく、例えば御田重宝が著した『バターン
戦』によると、第六五旅団の第一四一連隊の隊長=今井武夫大佐や同旅団第一四
二連隊の副官=藤田相吉大尉は、命令を拒絶している。

  個人の生命を優先したのか、国家からの命令を優先したのか。個人の戦争責
任とは、ゆき着くところ、その人が戦時中いったい何を最優先に行動していたの
か、ということではないだろうか。そして国家に強く帰属意識を抱き、国家を最
優先に考えられる人は、いつの日か再び戦争に巻き込まれる可能性がある、とい
えるのではなかろうか。(P68)

辻参謀は敵に対する冷酷・残虐な行為で知られ、当時から軍部や一般にも不愉
快がられていたらしい。ローレンス・テイラーの『将軍の裁判』によると、許可
もなく他人の名で命令をくだし、中国やマレーシアで残虐行為を重ね、華僑五〇
〇人を集団虐殺したこともあった。また彼はのちにも何人かの指揮官を騙して
「人種戦争」の種を撒き、「死の行進」の最中にも、そして収容所へ捕虜を入れ
た後にも捕虜の殺戮を指示したようだ。

▼辻政信
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1
・・・
その一方で、軍人や地元住民の中には辻の軍事功績や人柄を支持し、敬愛した
人々が多く存在したことは事実であり[60]、その評価は戦後になっても変わら
ず、終戦後30年を経た昭和54年に加賀市には辻を顕彰するために銅像が建立され
ている[61]。

▼両陛下、26日フィリピンへ 慰霊の思い胸に、親善も

2016年1月25日 20時30分

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016012501001794.html

・・・
海外での慰霊は、戦後60年のサイパン、戦後70年だった昨年のパラオに続
き3回目。太平洋戦争で日米の戦場となったフィリピンでは、約51万8千人の
日本人が命を落とし、フィリピン人も約110万人が亡くなったとされている。

両陛下は皇太子ご夫妻時代の1962年に昭和天皇の名代としてフィリピンを
訪れており、今回が54年ぶりとなる。

(共同)


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