[CML 042137] 今日の言葉 ――ぼくは、子供のころから嘘ばかりついてきた。ぼくは、常に何かに怯えながら生きてきたらしい。この怯えこそ、嘘を生み出す肥やし。ぼくにとって嘘は生の証し。

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2016年 2月 25日 (木) 13:34:20 JST


      Blog「みずき」:作家の丸谷才一は「バカなヤツだ」と言って野坂昭如をこよなく愛していました。その丸谷は石川淳
      からやはり「バカなところがいい」と言われてこよなく愛されていました。石川淳の主宰する歌仙連句の興行(共同
      制作)の常連客でもありました。そのまた夷齋先生石川淳の酔狂も有名で、ケンカを覚悟で宴会に出席したが下
      駄を懐に忍ばせていて一目散に逃げ出したなどの逸話もたくさんあります。みなさん無頼派の系譜といえばそうい
      うことなのでしょうが、こうして人生(人の世)は循環していくもののように私などは思います。

【日記には実は飾らない生の声が隠されている】
本書の冒頭に置かれた編集部の注記によると、野坂昭如は2003年5月26日、72歳のときに脳梗塞で倒れたあと、陽子夫人
の手を借りて、口述筆記により作家活動をつづけていた。急逝したのは2015年12月9日夜。享年85歳だった。本書は2004年
から2015年にかけ、「新潮」や「新潮45」に掲載された公開日記を収録したものだが、その日記は亡くなる当日のほんの数時
間までつづいていたという。

この日記にえがかれているのは、からだの具合や身辺のできごと、昔の(とりわけ戦争中の)思い出、さらに日々のできごと
への感想といったところ。2004年と2005年の日記は、病気からの快復期にあって、リハビリも重なり、読者への年1回の不定
期な報告にとどまっている。「だまし庵日記」と称して、毎月ごとの感想風日記が「新潮45」に掲載されるようになるのは2007年
から2015年までの9年間である。この日記からは、この十数年間、野坂がどう生きたのか、そしてけっして明るかったとはいえ
ない日本の状況を、かれがどう見ていたのかを知ることができる。日記は、しょせん日々の断片的記録にすぎず、退屈きわま
りない代物とみられがちだ。しかし、そこには実は飾らない生の声が隠されている。その日記のなかに、時代への思いをとら
え重ねてみること、ともに生きた過去をふり返ってみること、ときにニヤリとする箇所をみつけてほくそ笑むこと──そうしたこと
が日記を読むひそかな楽しみなのである。意外なことに、野坂は医者や奥さんの忠告を聞いて、まじめに脳梗塞のリハビリに
努めている。あれだけ呑んでいた酒もぴたりとやめ、よく運動し、ことばの訓練にも励み、音楽療法で歌も歌い、そしてよく食
べ、よくしゃべり、よく仕事をした。新聞を読んだり、テレビを見たりすると、すぐにくたびれてしまう。それでも、これから代表作
を書く、あれが野坂の最後の女といわれる恋人をつくる、と意気軒昂だった。

日記には思わぬ述懐も混じっている。たとえば「ぼくは、子供のころから嘘ばかりついてきた」というのもそう。「自分の過去を
振り返ったとき、要するに、ぼくは、常に何かに怯えながら生きてきたらしい」というのもそうだ。そして「この怯えこそ、嘘を生
み出す肥やし。ぼくにとって嘘は生の証し」とつづく。直木賞をとった『火垂るの墓』は実体験のように受け止められているが、
事実はちがって、「ぼくは、あんなに優しい兄ではなかった」とも書いている。おしゃれだった。愛妻家であり恐妻家でもあった。
犬と猫が大好き。蕎麦好き。傑作を書きたいと思っていた。ますます日本の将来を危ぶむようになっていた。2005年の日記
には「文豪、永井荷風先生にあやかりたい」とある。だが、荷風先生にしても、どこまで本当やら怪しい。針小棒大はこの稼業
の常なれど、ぼくは誇張せずに書こう」連載をはじめるにあたって、『断腸亭日乗』に負けぬ「だまし庵日記」を残そうと意気込
んでいたのだ。その日記を斜め読みしてみようというわけである。この10年をふり返ると、何がみえてくるだろう。
                                                            (海神日和 2016-02-22)


以下、省略。全文は下記をご参照ください。
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東本高志@大分
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