[CML 046071] 監督ウイリアム・A・ウエルマンの映画、「女群、西部へ」批評。       塩見孝也 2016 年 12 月 17 日

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2016年 12月 20日 (火) 01:11:11 JST


 皆さんへ、若干、閑話休題という所です。相当、古い映画で、若い人たちには馴染み
のない映画の批評を肩のこらないようにやってみます。 
 皆さん、暇があったら、何とかこの映画のDVDを手にいれて、観てください。安く
手に入ります。或は、映画史の本で、調べてみてください。 
 著作権切れの古典名画のセット、十本入りが、一セット1・5万円から2万円で購入
できます。十本入りですから、一個150円から200円で観れます。注文も出来れば
、神田の古本屋で、売ってもいます。僕は、こうして、この名画のDVDを手にいれた
わけです。僕は、このセットの中に、この映画を、偶然発見したのでした。正にお宝、
発見です。 
 このセットは、僕が、子供時代、夢中になって観たりしてきた西部劇の映画群を満載
しています。 
 「シェ−ン」や「荒野の決闘」、「駅馬車」、「赤い河」なども僕は大好きです。マ
ー、これらを「正統派西部劇」と仮にしておきましょう。しかし、この映画は、このよ
うな「正統派」とは全然違う、思想性・感性から作られている西部劇と言い切れます。
 
 僕は「大いなる勇者(ロバート・レッドフォード主演、シドニー・ポラック監督)」
や「ダンス・ウイズ・ウルブス(ケビン・コスナー監督・主演)」のサマ変わりした、
新しい映画(作風)も好きなのですが、−−なぜなら、ここには、今から1万5千年前に
アジアからやってきて、白人がやって来る前まで、栄えた狩猟採集民族のネイティブ・
インデアンの生活、文化様式が描かれ、これに僕は限りなく惹かれているからです−−
まだまだ、このような、映画には、「世捨て人」的で、「自然逃避」のようなケレンミ
が残っているように思えます。 
 ところが、この映画には、そのようなケレンミが、何処の箇所にも見受けられないの
です。又、ストーリーの必然性として、どんな名画でも、一箇所か二箇所、目を背けた
くなるような残酷なシーンが、映像化面での工夫もせずに、含まれていることがありま
す。ところが、この映画では、十分に工夫されて、洗練された映像になっています。 
 ですから、さながら、音楽好きの人が、名曲に時間の過ぎるのも忘れて、何度も、何
度も聴き入るように、僕は何回も何回も飽きもせずに見入り、時を過ごし、気持ちを落
ち着かすことが出来ます。 しかし、この映画は、全然リアリズムを崩して居ず、人間
として向かい合わなければ核心的課題の全てに対して、外すことなく挑み、それで居て
、観客に受け入れられる様な映像を、白黒ですが、歯切れ良く連続させているのですか
ら凄いです。だから、どのシーン、チャプターから見ても懐かしいし、元気が出てくる
のです。こんな映画は、滅多に見出せません。若しかしたら、この映画が、一番良い西
部劇かもしません。 
 監督、ウイリアム・A・ウエルマンはそれだけの感性、思想性、知性、技術を持った
希有の人と言って良いかもしれません。それでは、この映画は、最新の映画かといえば
、アニハカランヤ、1952年の作なのです。こんな時期、時代に、こんな映画が作ら
れるとに、僕はと驚いています。 
 さて、監督については、この批評の最後に若干述べることにして、先に進みます。 
●1、 1851年、カリフォールニアの大牧場を経営する指導者の音頭取りで、百人
の男達が金を貯め、花嫁募集をします。これに、東部の140人の女性群が応じ、西部
に向かう物語なわけです。シカゴから、セントルイス→インディペンデンスまでは船旅
。そして、幌馬車行でのプレーリ−の平原横断→ロッキー山脈の南端越え→ソルトレー
ク砂漠踏破→そして、やっと目的地に到着する。締めて3200キロの旅なのです。 
 そこには、暴風雨が吹き荒れ、砂嵐が舞、雹が降り、動物が暴走し、ガラガラ蛇の危
難が日常的にあり、先住民が襲撃してき、チフスが蔓延し、洪水に晒され、濁流渦巻く
河渡りの危難やロッキー越えの幌馬車の滑落、ソルトレーク砂漠の高温・乾季らの無数
の危険が待っていること。案内人は、「この中の3/1は死ぬ」と女性達の覚悟を問う
。しかし、おんな達の誰一人として、立ち去りません。 
 おんな達の中には、うら若い娘さんは少なく、その大半は、西部で新しく人生をやり
直さんとする中年の女性達である。教師の職業を持っていたり、馬やロバを扱かえたり
、拳銃の名手もいます。或は、夫と死別したり、子連れの母子もいます。しかし、みん
な新しい夫、家族を求め、ひたむきに西部に行こうと決意しているのである。こういう
、おんな達は後がないから、強く、気なげなのでしょう。 
●2、この映画は、 一味もニ味も変わった西部劇なのです。「正統派」の西部劇のよ
うに、男で、飛びぬけた格好良いヒーローのような有能な指揮官は登場しません。映画
の主人公を、誰かと敢て、問えば、強いて言えば、四苦八苦して艱難に不屈に耐えて突
破して行き、フロンティヤをやり遂げる120人〜130人の女たち全員が主人公と言
えます。  
 おんな達は不屈で逞しい、それでいて女らしさ、母性をも残しつつ、集団的生き様を
発揮します。その発揮は、協働主義の原則を守りつつ、それぞれの個性を否定するので
はなく、反対に遺憾なく発揮し、光らせるものとして描かれています。 
 この目的を持った意志的な協働性と個の自主性発揮の結合の中に、おんなの<気高さ
>、そして、その後に続く、男達の<気高さ>が加わり、相乗化された全体的な男女、
人(ひと)の気高さが生み出されてゆくことを謳いあげんとするのが、この西部劇のテ
ーマとなっていると言えます。 
 男性中心でなく、男達に替わって生産・労働も引き受けるのは女達。これと合わせて
、出産、家事、育児を担うおんな達の姿が、正面から描かれています。「雄々しさ」さ
へも見受けられます。おんな達の中心に座る、尊敬すべき大女のボス像もすっきりと映
像化されています。 
 西部劇のなかにも<生活、生産・労働>が厳然とあることを、女性の側から、これほ
どを正面から、かくもいみじくも、細部を示しつつ、全面的に取り上げている西部劇が
これまであったでしょうか?僕は、知りません。これまでの西部劇映画は、女性の<生
産><労働>+<家事・出産・育児>を大きな比重をもって取り上げていません。可な
り、つけ足し的です。男がいないのですから、女が、男の分の生産・労働もやってしま
うので、この分野が破格的に強く押しだされて映像化されているのです。 
 未来の夫達に会う際、目的地を直前にする時、女達は毅然として<淑女>としての<
身たしなみ>のために必要な衣類、シーツ、ブランケット類をを持ってくるよう、おと
こ共に要求します。 
 待ち受けていたおとこ共は、初めは、浮ついて、その意味が良く理解できなかったが
、その後、長い苛酷な、おんな達のフロンティア行の苦労を思いやるようになり、懸命
にそれらを集めます。 おとこ達は、粛然として、レデイ・ファーストのエチケットを
再確認してゆくのである。とは言え、結婚だけを目的にして、西部に来ていない男も女
もいることもこの映画は触れてないわけではありません。 
●3、 おとこ達とおんな達の間柄、関係性を安易に奇麗事で済ましては居ません。或
は、母 
子ら家族らの絆、女同士の友情や諍いもみんな、リアリズムで描いています。 
 一行を案内する助っ人、助手として15人のおとこ共が雇われる。隊長の企画提案者や
案内人は、おんな達には、この「おとこ達に手を出すな」と厳命し、同時におとこ達に
も、「このおんな達に手を出すな」と誓わせる。 
 そのルールが、どうして、乱されてゆくか、そして、どのように克服されてゆくかも
、もう一つのこの映画のテーマといえます。 
 ヒスパニックの母とその息子と愛犬の3人家族は、残念にも、息子が銃の暴発であっ
けなく亡くなってしまい、半狂乱で、呆然自失した母親は泣き叫び、死のうとするが、
長い間、仲間達によってロープで縛られて、自殺を思いとどまされる。或いはフランス
系の幼い時からの友人であるマージーとロージーは、濁流に飲まれ、ロージーは死んで
しまいます。 
 更に、先住民の攻撃に遭って、7〜8人の女性仲間や一人の白人青年や隊長が、一遍
に亡くなってしまいます。この白人青年は、脱落者の助手たちやそれに同調した8人の
女達のグループに誘われるが、それに参加せず、愛し合っていた娘とともにカリフォー
ルニヤに行こうとして残留したのですが、可愛そうにも亡くなるのです。これで、男は
案内人と日本人青年、イト−(伊藤)の二人のみになってしまいます。 又、ロッキー
下りでは、更に幌馬車共々に、一人の女性が滑落死してしまいます。 
 しかし、おんな達は、これにメゲず、フロンティア行を放棄せず、怯まず前進してゆ
こうと覚悟を固めます。 
 男と女の恋愛、性愛関係も極く自然にリアリスティックに目を背けることなく描かれ
ています。脱落した助手の男達とともに消えていった恋愛禁止の誓いを破った8人のお
んな達の問題も映像化されています。男と女の恋愛、性愛関係の中には、このような、
目的を忘れ、集団の利益を忘れる個人利己主義の日和見主義が生まれることを、この映
画では、淡々と描き出しています。男女の性愛が、希望の光と悲哀とない交ぜにされつ
つ存在していることも、男女の気高さとともに、あくまでも副次的にせよ、チャンと記
録されているわけです。 
●4、監督 ウイリアム・A・ウエルマンは1896年生まれで、1975年、80歳で
没しています。 
 「つばさ」で第1回・アカデミーショーを受賞しています。この映画は1952年の
作である。彼は、時流に迎合しない、上品さ、節度、簡潔さ、知性を持った、アイルラ
ンド系の映画監督で、フランス外人部隊の飛行隊のエース・パイロットから出発点にし
ています。これは、「ボー・ジェスト」を観れば分かります。 
 「ミズーリ横断」「スター誕生」「廃墟の群盗」「ポージェスト」・「西部の王者」
・「牛ドロボー」「民衆の敵」・「紅の翼」「ウインチスター銃73」など多数の作品
がある。非常に、映画作りは多方面、多分野にわたっています。調べてみて、僕は、こ
の中の七つ位は見ていることを知りました。 
 僕は、この映画が、余りにも異色なので、監督、その人がマルクス主義の影響を当時
受けていた人かもしれない、と未確認ながら、臆断したりもしていたのです。多分、こ
れは正しいと思いますが、彼の熟達の映画作りの経験、才能を活かせば、この映画は、
マッカ−シイズムの弾圧に、内容面で付け込まれる隙を亳髪も与えていません。又彼は
、「ミズーリ横断」や「西部の王者」では、ジョン・フォードに先んじての、先住民へ
の深い同情、連帯の念を示しています。 
 主演のロバート・テーラーは、地味で抑えた、素晴らしい演技を見せています。 こ
の映画で、日本人俳優、ヘンリー・伊藤(「二世部隊」主演)も出演し好演しています
。マージー役は後に「ベラクルス」に出演した貴族夫人を演ずる女優さんです。女性達
の親分、大女の女優さん、拳銃使いの二人の女性、ヒスパニック系の女優さん、その他
の女性達全員、活き活きと好演しています。 

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