[CML 044603] <テント日誌8月12日(金) 経産省前テントひろば1797目>

木村雅英 kimura-m at ba2.so-net.ne.jp
2016年 8月 14日 (日) 17:24:04 JST


(転送します)

テント日誌8月12日(金)
経産省前テントひろば1797日

暑いと言って闘いを休止はできない
「鬼灯のひっそりいろづくテントかな」。テントの背後には青々とした木々が生い茂っている。冬の寒々とした裸木から濃い緑の樹木に移り行く様は僕らのこころを和めてくれる。また、テント前の鉢の小花も可憐でこころを慰めてくれる。第二テントのHさんがいつも世話をしてくれるのだが、僕はよく眺めている。それでというわけではないのだが、いつの間にか、テントへの通い路で小花や草木にも目をやるようになった。人間は花や植物のことをどんな風に考えてきたのだろうか、と思いながらテントに通ってきている。テントも1800日を数える日が近づいている。何の変哲もない日々に見えるテントだが、そこではいつも何がしかのことがある。

今日、8月12日は四国電力が伊方原発3号機を再稼働させた。あらためて、いうまでもなく、事故、とりわけ地震や津波の危険が指摘され、万一の事故の際の住民避難の方策も不備なままの再稼働である。東日本大震災後の新たな原発の規制基準の下での再稼働としては川内原発、高浜原発に続く三カ所目であると言われている。高浜原発は大津地裁の運転差し止め仮処分決定で停止中である。川内原発も秋から定期検査のために停止するし、その後の稼働はすんなりいくかどうかは不明である。以前のように鹿児島県知事が同意するか、どうかはわからないからである。(新知事の三反園氏は川内原発の再稼働に疑念を持っている、これまでの再稼働のやり方には反対している)。政府や電力業界は再稼働している原発の存在を人々に示して置きたいのだろうが、彼らが描くシナリオ通りにことが運ばないのは明らかだ。政府や官僚たちは原発の推進について焦っていると新聞にでていたが、これが実状だろう。

世耕経産大臣は地元の合意を得られて再稼働にいたったことやエネルギー構成のバランスという視点でも原発の再稼働は望ましいことだと談話を発していた。が、ここでは一番肝心な何故、原発を再稼働させるのかについては何も述べていない。福島原発事故は原発の存在や存続についての僕らに考えることを促した。原発を創設した時やそれを稼働させてきた以前の時期には考えずに済ませられたことが事故は許さなくしたのだ。それほどの衝撃を事故は人々にもたらした。原発事故とはそういうことなのだ。

原発が民間企業たる電力会社の事業でありながら、それは国策としてあった。だから、その存続について国家的、政治的見地からの考えをはっきりさせることが促された。それは現在も続いてある。これは特に政府や官僚に要請されてきたことだ。政府はとりわけ、安倍政権以降の保守政権はそれを避け、その議論から身を隠してきた。国民的な議論になることを回避し、官僚と電力業界で再稼働―原発存続のシナリオを描き、秘密裏に(誰がどこでどのようにことを決めているのかを隠し)ことを進めてきた。政府は原発行政がかつては原発官僚(原発ムラ)のシナリオに盲目的にハンコを押してきただけで、という石破茂の語った状態を少しも変えてはいない。こうした政府や官僚のあり方を反省して原発=即ゼロという考えを打ち出した小泉元首相は例外としてあるにしても。
国民的な議論の中で、原発の是非をという最低限の問題解決の方法を拒否してきたのは政府・官僚だが、世耕大臣の談話は改めてそれを実感させた。大事なことは何も触れてはいない。政府や官僚たちは物事を真正面に考えずに、時の流れや自然の流れの中でなるようにしかならない、という日本的な問題処理の方法に身を委ねているのか。それが権力の側を利する解決方法だという日本的なあり方を期待しているのか。物事を真正面から考えることを要求する抵抗は現在では根強くあるのだ。甘くみなさんな、とでも言っておきたいところだ。

敗戦濃厚な戦争をただ続けるだけでより悲惨な戦争への道をひた走った日本の政治というか、国家のありかたを原発問題の推移を見るたびにいつも思う。そうした類推の中で考えている。原発をもう存続すべきではない、それは今度事故に遭遇すれば福島の二の舞、三の舞を超えた事態になることは誰も知っている。それなのに、なぜ、原発は存続するのか。あるいは止められないのか。これは戦争を推進していた日本の権力構造に、原発を推進している権力構造に秘密があるのだと思う。そこにある種の共通性があるのだ。連続する構造があるのだ。

これをどうしたらいいのか、僕らが反対闘争をやりながら考えあぐねているとことでもある。なかなか、糸口というか、問題の所在さえつかめないのが現状である。事故が起こってからの反省では遅い。そうさせないための最低限の事が、原発の存続について、その存続の必然性、あるいは廃止の必然性の議論である。原発の存続の是非が公的なことなら、公的なことの最小限のことだ。このことは原発を推進する責任のある部署、つまりは政治権力(政府や官僚)からまず出てくるほかない。彼らが逃げ回り、背後で原発推進の理由や根拠を示さずに、ことを決めて行くのでは埒があかないのである。政府や官僚が公的な存在であり、原発の存続の主体であったし、それに責任のある存在だからだ。あるいは原発の独占的に支配しているのはかれらだからだ。

戦争なら軍の秘密と反対派の排除が、秘密裏にことを進める日本の権力構造と相まって戦争を止める道を困難にしていた。敗北を知り、無謀な戦争の継続に対して敗北を闘いその悲惨さを人々(後世の人も含めて)に知らしめること以外の道は知らなかった。戦艦大和にあった吉田満は彼らの姿を伝えていた。これらを読みながら戦時期にそれに反対するにはどうしたらよかったのだろうと想像することがある。暗澹たる気持ちに誘われる。日本の政治権力の歴史的な連続構造を現下でも見ているという時にその気分は続く。

だが、現在は原発推進には反対の声をあげるグループや人々の存在がいる。それは公的な存在としてある。そこは戦争の存続と原発の存続がいくらかは違うところだし、希望としてあるところだ。戦争期の抵抗と原発存続や再稼働について抵抗の違いである。原発存続は圧倒的な国民が反対し、疑念を持っていることが希望であり、戦争期の問題とは違った条件だ。簡単に国民は政府の言辞に騙されも、説得もされないだろう。選挙の勝ち負けとは違うことだ。政府や官僚たちが国民の前に原発推進や再稼働を主張できない弱さはあるのだ。ここを攻める方法はやさしくはないし、知恵と工夫を要する。これを僕らの行動や行動形態の中で実現していかなくてはならない。でも可能性のあるところだ。一つや二つの再稼働でも事故が起こることに心配はある。この心配が現実にならぬことを祈るだけだが、政治的には再稼働など恐れないでやっていける基盤はある。再稼働は原発存続の力になんかなっていないのである。(三上治)

8/19(金)抗議行動 経産省抗議行動 17:00より18:00
 「最高裁上告棄却決定糾弾!テント撤去は許さない!」
  場所:経済産業省前 主催:「経産省前テントひろば」

8/19(金)抗議行動 再稼働反対!首相官邸前抗議 18:30より20:00主催:首都圏反原発連合 [8月26日も]
8月19日(金)は総がかり行動の日
戦争法廃止、改憲許さない、8・19国会議事堂前集会 18時30分〜
場所:議員会館前・国会図書館前


CML メーリングリストの案内