[CML 039556] 狭山事件の現地調査&石川一雄さんのお話し&丸木美術館

masuda miyako masuda_miyako1 at hotmail.com
2015年 9月 7日 (月) 15:40:31 JST


 皆様
 こんにちは。増田です。これはBCCでお知らせしています。重複・超々長文、ご容赦を!

 東京全労協の合宿が、とても充実していましたので、以下ご報告いたします。お時間のある時、目を通していただけましたら嬉しいです。


 本当に「現場に立つ」ということ=フィールドワークって、大切ですね!


 一日も早く、石川さんの冤罪が晴れ、ご両親のお墓参りができ、ビール風呂に飛び込むことができますように!!!…これが石川さんの夢だそうです…「それまでは、お墓参りもお酒も断つ」と聞きました。


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  5日(土)~6日(日)、「東京全労協 結成25周年記念事業」として行われた「狭山・丸木美術館交流合宿」に参加しました。 
 

 狭山事件は1963年5月1日に発生した女子高生誘拐殺人事件です。私は、当時、島根の片田舎の中学生でしたが、新聞に大きく載っていたな、という記憶が、おぼろげながらあります。でも、被差別部落の問題などは全く知りませんでした。私の田舎では「部落」=「集落」という意味で、小学校などでは「今日は部落児童会があります。」などと普通に使っていました。

 

 いわゆる被差別部落問題を知ったのは、小学校の教員をしていた伯父から、確か、高校に入ったころだったか、『橋のない川』4巻を贈ってもらって読んでからです。「こんな差別が日本にあったのか」と、とてもショックでした。

 

 それで、大学に入った時、「部落問題研究会」というのがあったので入部し、そこで、狭山事件の内容を知ったのでした。「被害者の万年筆が3回目の捜査で、それまで2回も捜査していたのに見つからなかった鴨居の上から見つかった。」ということは、犯人とされた石川一雄さんの自白が強いられたものであることを証明するものと強く印象に残りました。

 

 ただ、何しろ、東京の公立中学校の教員に就職してからは、仕事をこなすことに目いっぱい、「狭山事件」はひどい冤罪事件として心の片隅にあり続け、関心は持ち続けていましたが、かなり遠い距離がありました。

 

 そこに、この交流合宿の「事件の現地に行きフィールドワーク」という計画を聞いたので、飛びつきました! 実は、丸木美術館も、私の自宅からはかなり遠く不便なため一度も行ったことがなかったので「これは、絶対に、行かなくっちゃ!!」だったのです。

 

1、 1日目、狭山フィールドワーク



 期待どおりでした! 石川さんが当時住んでおられた家が再現されており、鴨居の上に問題の万年筆が置かれていました! だれでも、難なく、見つけられる場所でした。警察は脚立も使って捜索したんですから、これが1回目で見つからない、2回目でも見つからなかった、3回目でやっと見つかった、なんて有り得ない…

 

 さて、部落解放同盟東京都連の方の案内で、石川さんの自白を検証するために、1963年5月1日の彼の行動場所から出発です。彼は当日の午後2時、駅前のお店で「牛乳2本とアイスクリーム1個を買って、牛乳を飲みながら、ぶらぶら歩いて行った。」というのですが、ここからして不自然です。当時の牛乳はガラス瓶ですよね…一本の牛乳を片手で飲みながら、片手にもう一本の牛乳瓶とアイスクリームを持って歩いた、ってことになりますけど…当時の田舎のお店ではビニール袋なんかくれなかったはずですし…

 

 それから彼は、当日、祭りをやっていた荒神様のところを通ったことになってます。祭りですから、にぎやかにレコードを流していたんですが、石川さんは「聞きませんでした。」と答えている所です。でも、そのレコードの音を500メートル離れて農作業をしていた方は「聞こえた」と証言してます。実は、この方がいた、そのすぐそば…20メートルくらいの所で、石川さんは女子高生を殺したことに自白ではなっています…

 

 そこから、荒神様を行き過ぎた所で、女子高生が自転車で通り、石川さんが、とっさに誘拐しようと考えて荷台をつかんで「用がある」と、彼女を降ろさせたという地点に行きました。その子の家がお金持ちかどうかもわからないのに、とっさに「誘拐してカネにしよう」と考えるでしょうか? その場所は荒神様のところから、そう離れていません。

 

 で、自白では、出会った時間は3:50となっていますから、駅前の店から1時間50分経っています。私たちは説明を聞きながら、ゆっくり歩いたり、止まったりしたのに20分しかかかっていませんでした。全く不自然…

 

 そして、彼女が自転車を押して歩き、その自転車を挟んで石川さんが歩いたという狭い農道…今でも狭いまま…を歩きました。あの時代の田舎の女子高生が、見ず知らずの若い男の言うままにおとなしく自転車を引っ張って歩くでしょうか? 5月の午後4時頃のことですから、まだ明るいし、近くには農作業をしている人もいるし、祭りに参加している大勢の人もいるし、スキを見て大声を上げるか、なんとか自転車に飛び乗って逃げようとするだろうと思うんですが…相手は若い男といったって徒歩なんですから…

 

 それから、強姦し殺害したとされる場所に行きました…当時は雑木林ですが、前記した農作業をしている人から、直ぐ近くです。今は駐車場になっており、住宅もけっこう建っていますが…彼女は後頭部に傷を負っていたので、その殺人現場ではルミノール反応が出たはずです。しかし、東京高裁に申し立てている第三次再審請求でも、検察は「その報告書は見当たらない」と主張しているそうです…でも、「死体を一時、隠しておいた」という芋穴の血痕検査報告書は開示され、血痕反応はなかったことがはっきりしている、ということです。

 

 さらに、木に縛り付けられた彼女は問われるままに、父親の名前と家の場所を素直に答えたということになっていますが、強姦されようとした時に大声で悲鳴を上げたと自白ではなっています。ところが、前記のすぐそばにいた人は何も聞いていない、と証言しているのです。不自然…

 

 その殺害場所とされているところから芋穴までの200メートルを農道を通って…周りは畑なので人がいれば丸見え…「54キロ強ある死体を両腕に抱えて運んで逆さづりにした」と自白ではなっていますが、これも不自然極まりない…そのまま雑木林に隠しておいたほうが楽でしょうし、芋穴なら死体をつるしたりせずに突き落としておいて蓋を元通りにしておけば気づかれるまでに時間は稼げますよね? 私が犯人なら、そうしますけど…芋の収穫は秋で、未だ5月に入ったばかりなんですから…

 

 そして、自白では「被害者の自転車で脅迫状を届けに行く途中で、被害者の家の場所を近所の人に聞いてから行き、脅迫状を戸の隙間に差し込んで、その自転車は納屋に戻し、歩いていって近くの養豚場からスコップを盗み、そのスコップを持って、かなりの距離のある芋穴まで歩いていって死体を引っ張り出し、死体を運んできた農道を少し戻って、その農道に埋めた」となってます。

 

 これも不自然極まりない…これから脅迫状を届けに行こう、って時に、その家の場所を犯人が人に聞きますか? また、なんで、そんなに律義に自転車を納屋に返したんでしょう? 私が犯人なら、その自転車に乗って大急ぎで被害者宅を離れますけど…

 

 というわけで、他にも脅迫状の筆跡、用紙、ペンの問題やら、死亡推定時刻やら、どの証拠にも指紋が全くない、という、どう考えても、これで死刑だの無期懲役だの有罪って、無理でしょ? と2万%(笑)冤罪ということを確信しました。

 

 裁判官は、どうして、現場調査をしないのでしょうか? 第3次再審請求を裁判所は絶対に受け入れるべきです。

 

 

  ◆∪仞邂賤困気鵑里話を聞いて



 印象に残ったのは、なぜ、ウソの自白をしてしまったのか? ということが一つです。警察は「被差別部落の人間」に目をつけて、最初から予断と偏見を持って捜査していたのです。石川さんに「兄が犯人かもしれない」と思わせるように仕向け「そういえば、兄貴はあの晩遅く帰って来たな」と思ってしまったこと、「自分から犯人だといえば、10年で刑務所を出られる」と警察官に言われて、疑いもせず、信用してしまったこと…

 

 貧しさの中で学校にもろくろく行けず、漢字もろくに書けなかった石川さんは「『お巡りさんがウソをつく』なんて、夢にも考えなかった」のでした。そして、1審で死刑判決が出ても、収監されていた拘置所の区長さん(たぶん、看守長みたいな人かな?)に「警察官に『10年で出られる』といわれているから、大丈夫ですよね?」と相談したら、なんと、彼から「『大丈夫ですよ』と言われたことからも疑うことがなかった」と…

 

 何も知らず、疑うことを知らない人に付け込み、罪に陥れる…なんという醜い人たち…

 

 でも、もっと印象に残った二つ目は、本当に素晴らしい刑務官=看守さんがいらっしゃったことです。「石川、悔しければ、字を覚えろ」と、当時の刑務官の月給9千円の時代に奥さんと相談して2千円も石川さんの学習のための文房具等の差し入れを、全く匿名で8年間(転勤してからも)やってくれたのです。その人も偉いですけど、奥さんも偉いですね…

 

 しかも、その刑務官はスパルタで「漢字一字につき5千字…と聞こえました…書き取れ」と言われ、石川さんもできない時があり「その時にはゲンコツが飛んできました。もちろん、私も腹が立つのでやり返したりしました。」ということでした…私は何となく、ヘレン・ケラーとサリバン先生の格闘を連想しました。石川さんもヘレン・ケラーも、その刑務官やサリバン先生と格闘しながら、「利己的」とは正反対の彼らの献身のおかげで、人間としてのコミュニケーションに欠かせない「文字を書いて表現する」という光を手にしたのです…ヘレンの場合は言葉そのものの獲得からでしたが…そして、人生を豊かに生きる術、闘う術を身に着けていったのです。

 

 でも、石川さんの手には、まだ「見えない手錠」がかかっています。裁判官は、現場に立つべきです! そして東京高裁は一日も早く再審を開始すべきです! 検察は袴田事件でも布川事件でも被告に有利な証拠を隠していました。狭山事件でも、全ての証拠を開示すべきです! 無実の人を罪に陥れたままでは、法治国家ではなく法恥国家です!

 

 フィールドワークから、石川さんの元の自宅(今は事務所)に帰りましたら、奥さんの早智子さんが、出発前に撮った記念写真を全員に配ってくれました。早智子さんは、本当に明るく、よく気がつく女性です。敷地で育ったブドウを摘み取り冷蔵庫で冷やして、みんなにふるまってくださいました。また、私や他の女性たちは同じ敷地で育てているレモンの木から、可愛い緑の実を5個くらいずつもらいました…って、モノをもらったからヨイショしているわけではありませんから(笑)…

 

 写真はもちろんみんな同じですが、余白に石川さんの短歌が1種ずつ載るので3種類ありました。私は以下の短歌の載っている写真をもらいました。

「教育の 機会奪われ 過去の吾 生死を賭して 獄で学ばむ」





2、2日目、丸木美術館

 「現在は、アメリカでの原爆展のために『原爆の図』を出品している」と聞いていましたので、どうかな、と思っていました。でも、15部もあるので、残りのものだけでも見ごたえは十分で、また、さらに、特別展示の『知られざる原爆の図』という、「15部連作以外の“番外編”とも言うべき《原爆の図》を長崎、大阪、高野山など各地からお借りしてきて特別展示する『被爆70年』夏の特別企画。ふだん公開されていない作品を見ることのできる貴重な機会です。」(丸木美術館HP)や「福島菊次郎写真展 原爆と人間の記録」という展示もあり、見ごたえは十分以上(笑)でした。

 

 ただ、本当にとても重く、凄い迫力で迫ってくるのです。見るのはつらいものがありました。まぎれもない国際法違反のアメリカの戦争犯罪、そして「戦争をしろ」と命じ、降伏するしかない情勢になってからも、自己の地位の保持に汲々としてぐずぐずと降伏を延ばし、このアメリカの戦争犯罪を招いてしまった昭和天皇の上には原爆は落ちなかった…

 

 そして彼は「戦争中のことだから仕方ない」と言い放つ…アメリカのトルーマン大統領も「昭和天皇の地位を保証する」と言ってやりさえすれば日本帝国はギブアップすることを承知しながら、原爆を投下するまで、それを言わなかった…

 

 この絵の中の、人間の尊厳を極限まで奪い取られた老若男女は、お母さんのおなかの中にいて生まれてくることができなかった子どもも含め、他人の命などかけらも頭になかった「利己的」な日米の支配権力を持った人々の犠牲者たちです…どうすれば良かったのか…

 

「戦争法案」を「戦争を抑止するための法案だ」などとうそぶく、現在の日本の支配権力を持つ、安倍晋三をはじめとする自民党や公明党の人たちも、他人の命などかけらも考えていないのではないのか…帝国憲法時代とは違って天皇の臣民ではなくなった主権者国民は、日本国憲法を遵守することを前提に、彼らに権力を与えているのに…

 

 最後に『南京大虐殺の図』の前に立つことに…そう、南京大虐殺があって、ヒロシマ・ナガサキが…

 

 どうにも息苦しくなり…一室にある丸木位里さんのお母さん、スマさんの、とても明るく可愛い絵にはホッとするところがありましたが…外に出て、平和な日の光を浴び(曇りでしたが、とっても明るく感じました)、美しい緑の草木が目に入った時、生き返った気がしました! 		 	   		  


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