[CML 040565] 【拡散重要情報】■報告・久米島事件三十二年目の夏に

山崎康彦 yampr7 at mx3.alpha-web.ne.jp
2015年 11月 10日 (火) 12:56:14 JST


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『お国のためであり良心の呵責はない』40人-70人の久米島島民を虐殺した主犯
鹿山正元兵曹長は戦後免責・免罪され徳島県農協の幹部に出世していた。


いつもお世話様です。                         

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するネットジャーナリスト&社会政治運動家の山崎康彦です。

昨日月曜日(2015.11.09)に放送しました【YYNewsLive】で取り上げました
【鹿山守備隊による久米島島民虐殺事件】を【拡散重要情報】にまとめましたので
広く情報拡散してください!  
                                
【拡散重要情報】■報告・久米島事件三十二年目の夏に

2015年11月08日  ガンジーの小屋

http://yujinnote.seesaa.net/article/429262943.html

「報告・久米島三二年目の夏」

以下に載せるのは、一九四五年夏に沖縄・久米島で起きた旧日本海軍久米島守備 
隊による現地住民虐殺事件のあらましをつづった記録である。ベト ナム 戦争時 
の一九六八年、ベトナム・ソンミ村で発生したアメリカ軍史上最大の汚点と言わ 
れるソンミ村虐殺事件から、「日本のソンミ事件」などとも呼ば れた。当時、 
ブログ主が雑誌等に発表したものを、事件の概要中心に抜き書きした短縮版である。

報告・久米島事件三十二年目の夏に
 一

「……それおもんみるに二〇名の犠牲者は大戦終了後日本皇軍の言語に絶する無謀 
なる虐殺行為により悲惨なる最期を遂げたるが、その惨憺たる行 為は いまなお 
追憶して戦慄を覚える次第なり。かかる非人道的不祥事は過去の謝誤れる日本皇 
軍の軍国主義教育のなさしめたるものにして永久に看過なされ ざる史実なり……」
 陽が西に傾きかけてもうずいぶん経つというのに、暑さはいっこうに衰える気 
配をみせない。その酷暑の中で、久米島西本願寺住職・世世盛知郎 氏の 反戦の 
読経がつづく――。
「……しかるにかかる一大不祥事に対して国家として犠牲者の遺族になんらの謝罪 
も補償もなく今日に至るはまことに遺憾の至りなり。……このた び久 米島訴訟を 
支える会を組織しもって国家に訴え、犠牲者の霊をなぐさめ、遺族への謝罪と補 
償を求むることとなれる……」

―― 一九七六年八月十八日夕刻。久米島太田辻のサトウキビ畑に囲まれた一角 
に、久米島訴訟を支える会の一員としてふたたび私は立っていた。 目の 前には 
『痛恨之碑』が二年前のあの除幕式のときとすこしも変わらぬ姿で建っている。
 碑だけでない。そこから望める海も、あの時と同じにきらきらと輝き、その海 
の眩しさを懸命に打ち消すかのように、碑の後方にかつて鹿山部隊 がた てこ 
もった大岳の山頂がくっきりと、夏空を黒くえぐって立つ。そして草いきれ、サ 
トウキビと風の語らい……。
 すべてが二年前そのままだった。

三二年前の夏、狂った皇軍が二〇名の住民を虐殺した時も、おそらくは久米島の 
自然はこのようにまぶしく、豊かに熟れきっていたに違いない。 ――こ うべをた 
れ、碑に黙とうをささげながら、あらためて私は、こうした自然の中でくりひろ 
げられた虐殺の凄惨をおもった。

       二

久米島住民虐殺事件の起こったのは、激戦がくりひろげられた沖縄戦がようやく 
に終結をみた一九四五年六月二十三日の直後から、日本の敗戦が決 定し た八月 
十五日の五日後までの、およそ二カ月のあいだにおいてだった。
 このわずか二カ月のあいだに、しかも沖縄においてはすでに事実上、戦闘はと 
うにおわっていた時期に、島の住民九家族二〇名の人たちが、米軍 では なく日 
本軍によって、つぎつぎと殺害されていったのである。

以下、時間の経過を追い、個々のケースをできるだけ具体的に列挙してゆこう。

虐殺は久米島に米軍が上陸した同年六月二十六日の翌日からはじまる。第一の被 
害者は本島首里の平良町出身で当時、派遣されて久米島郵便局に駐 在し ていた 
有線電話保守係の安里正二郎さんである。

前日の米軍上陸の報で山間の避難小屋に避難していた安里さんは、夜半、御座な 
どを取りにひそかに自宅に戻って、翌二十七日未明、避難小屋に帰 ろう とする 
ところを武装米兵に発見され、駐屯地に連行された。米軍陣地内で安里さんは山 
にこもる鹿山正隊長宛ての降伏勧告状を託され、それを持ってた だちに山にあ 
がるように命令された。そむけば銃殺するというので、仕方なく大岳にゆき鹿山 
隊長にそれを届けたところ、鹿山は安里さんが勧告状 を 持ってきたことから、 
即座にスパイと決めつけ、その場で銃殺した。
「処刑は、私自身が短銃で一発撃ち、一発では苦しむので、両側から部下に銃剣 
で突かせた」(毎日新聞「鹿山正の証言」)

鹿山は事件が公けになった去る七二年に、安里さん殺しをこのように証言している。
安里さんの妻、カネ子さんも間接的な犠牲者である。久米島在住の彼女の姉さん 
である糸数和子さんが証言する。

「正二郎さんが二、三日帰らないので、カネ子は不安にかられ眠ることもできま 
せんでした。正二郎さんが山で軍人に殺されたと聞き、ショックの あま り家を 
飛び出し、部落近くの山田川に身投げして死にました。彼女が自殺したので母も 
ショックで寝込んで、間もなくあとを追うように亡くなった。母 もカネ子も鹿 
山に殺されたのと同じです」
 カネ子さんは安里さんの子を宿していた。これから生まれ出てくる小さな生命 
をそのまま永劫の闇のかなたにつきおとしたのもまた鹿山であり、 日本 軍なの 
である。

       三

安里さんを殺したわずか二日後の二十九日の夜、鹿山=日本軍は具志川村字北原 
(きたばる)において区民九名を集団虐殺する。

九名の被害者の氏名は、)霧兇破匸豬弍弔鬚靴討い慎楙覬斌世気鵑函↓△修虜覆 
よび5祖錙F韻犬北原地区で農業を営んでいたと羃典気気鵑 イ の妻ツルさ 
ん、δ甲砲糧羃点技海気鵑鉢Ш淵張襪気鵝そして北原区長だった┥橋川共晃さ 
ん、北原地区の警棒班長・糸類盛保さん、である。容疑 は、米軍上陸前の六月 
十四日に鹿山守備隊が出した布告(情況が不利になり切迫するにつれて、鹿山は 
身勝手な道理に基づく布告を乱発した)―― 「米 軍に拉致されたものが帰ってき 
たら、自宅に入れず、ただちに軍駐屯地に引致し、引き渡すべし。この命令に違 
反したらその家族はもちろん、部落の区 長、警防班長は銃殺すべし」――にそむ 
いたためというもの。

虐殺のもようは、当時日本軍の一人として現場にいた沖縄出身兵K氏のつぎの証 
言で明らかにされた。

「宮城さんの家に集められた九人は、手足を針金で縛られ、目隠しされて立たさ 
れ『ひとりひとり殺せよ』と命令され、銃剣で次々刺したのです。 一突 きで死 
ななかったので、のたうちまわっている九人を何度も刺して殺し、八坪そこそこ 
の住宅は血の海となり、全員が息絶えた処、火をつけて引き上げ ていったのです」

家ごと焼き払われた死体は、いずれも黒こげでだれがだれだかまるで判別不能の 
有り様だったという。
 一昨年、石碑の除幕式で久米島を訪れた際に、九名の犠牲者のひとり小橋川共 
晃さんの奥さんに私は会った。彼女は、無残な黒こげの死体の中か ら入 れ歯を 
目印に共晃さんの骨をかろうじてひろうことができた、と涙ながらに語ったあ 
と、私と、同行の赤嶺氏にその後の苦しい生活ぶりをこう語ってい る。

「わたしはその頃三〇歳になったばかりで…小さな男の子三人を抱いて逃げ歩き 
ました。二番目の子がいまのこの子(三歳になるお孫さん)と同じ 年 で…つら 
くて、辛くて、いつも猫いらずを持っていて、何度、あの子たちの口に(猫いら 
ずを)押し込んで、母子心中しようとしたことか…」

鹿山に殺された二〇名の遺家族すべてに多かれ少なかれ同じような苦しみが残っ 
た。一家離散、後追い自殺などが。鹿山=日本皇軍の所業は二重三 重の 悲劇を 
生んで、今日まで連綿と続いているのである。

       四

北原の集団虐殺は島民を震え上がらせるに十分だった。この前後から、住民は山 
に立てこもる日本軍を極度に怖れるようになる。

「わたしたちは、敵の米軍よりも、味方であるべき日本軍がこわく、焼死体を埋 
葬することもできず、一か月近くもそのまま放置していました(北 原の 集団虐 
殺の直後)。海岸の米軍と、山の日本軍にはさまれ、鍾乳洞の奥深くに隠れてい 
ましたが、洞窟の中で餓死する者もあり、病死する者もいた。 まったく悪夢の 
ような洞穴生活でした。思い出すだけで身の毛が立つようなおもいです」(北原 
在住のNさん)

ここで語られているように、日本軍を恐れて逃げまわった挙句に飢えて死んだ 
り、体が弱って病死した人も間接的に日本軍に殺されたといえる。そ して その 
数だけでも四〇名をくだらなかったといわれている。

八月十五日、日本の敗戦が「正式に」決定したが、久米島の情況はすこしも好転 
しない。むしろこれまでみてきた経過であきらかなように鹿山=日 本軍 はいよ 
いよ凶暴化して、山賊以外の何物でもない殺人集団と化していた。こうした状況 
下で八月十五日、のちに「島を救った英雄」と讃えられて沖縄芝 居にまで登場 
する仲村渠(なかんだかり)明勇さん一家三名の虐殺が遂行される。

虐殺の現場は、美しい久米島のなかでもとりわけすばらしいところといわれる 
イーフの浜辺だった。一粒ひと粒が白いサンゴの砂からできた浜辺 は、潮 が退 
くとさながら白地の見事なじゅうたんを敷きつめたような景観を呈し、およそ一 
キロ海上にある奥武島(おうむじま)まで歩いて渡れるようにな る。沖合の巨 
大なサンゴ礁が防波堤の役をつとめるため、淡いエメラルドグリーンの透明な渚 
は、流れる風ほどのゆるい速度の波以外を知らない。

豊潤な久米島をもっとも佳く代表するこのイーフの浜で、久米島の自然と一万余 
の島民の生命を米軍の艦砲から救った一家は、軍刀で斬り殺された うえ 家を焼 
かれて土くれと化したのだった。

明勇さん一家が鹿山ら日本軍に虐殺されるに至った経過はつぎのとおりである。
 当時、本島の嘉手納収容所に敗残兵として収容されていた久米島出身兵の明勇 
さんら三人に、米軍通訳兵が来て久米島を艦砲で攻略するという。 そう なれば 
久米島住民の大半が死ぬ。そこで三人とも久米島は艦砲射撃の必要がないことを 
訴えて強調したが、米軍は半信半疑で信じない。「君らの誰かが 水先案内人に 
なってくれるなら艦砲せずに上陸する」と言ってきた。そこで明勇さんがその役 
をひきうけた。こうして六月二十六日、米軍は一発の 艦砲 も撃つことなく久米 
島に無血上陸した。

だが、水先案内をした明勇さんを日本軍守備隊の鹿山隊長はスパイと決めつけ狙 
い始める。狙いは明勇さんひとりだけでなく実家に残る妻子にまで 及ん だ。危 
険を感じた明勇さんは妻子を実家からひそかに連れ出すとイーフの浜沿いにある 
一軒家の空き家に避難させた。

幾週間かが無事に過ぎて一家が安心し始めた直後、居所を探り当てた日本軍鹿山 
部隊は、敗戦三日後の八月十八日、村民に変装して浜の一軒家を取 り囲 み、妻 
子もろとも虐殺してm、家に火を放ち焼き払ったのである。

明勇さんは軍刀で左わき腹を約二〇センチ斬り裂かれてその場で絶命、妻のシゲ 
さんは長男明広くんを抱いて台所入り口から裏手の垣のところまで 斬り つけら 
れながらも必死で逃げたがそこで息絶えた。明広くんは当時一歳二カ月だった。
 この事件でも間接的な犠牲者がいる。明勇さんの父の明仁さんである。明仁さ 
んはわが子とその家族の無残な死に強いショックを受けて、生きる 気力 を失 
い、翌年に亡くなったのだった。

       五

最後の犠牲者は、当時久米島に住んでいた朝鮮人の具仲会さん(日本名・谷川 
昇)一家七名であった。具さんは朝鮮釜山の出身で、妻のウタさんは 沖縄 久志 
村の出身。五人のこどもたちは長男一男君一〇歳、長女綾子さん八歳、二男次夫 
君六歳、二女八重子さん三歳、生後一年で未入籍の幼児ひとり。

具さん一家に日本軍がかけた容疑もスパイ罪だったが、本当の理由は彼が朝鮮人 
であったからと思われる。朝鮮人であったがゆえに、彼は同じ島民 の間 でさえ 
いわれなきさげすみを受けていた。当時の「皇民化教育体系」下の、日本人⇒沖 
縄人⇒朝鮮人という差別構造の中で、最底辺に属したゆえに、の ちに述べるよう 
なとりわけ残酷な殺され方をされたのであろう。

痛恨之碑を建て、そして現在ようやくに国家責任を法的に明らかにして、天皇の 
戦争責任を追及する運動にまで成長した私たち久米島訴訟を支える 会 の、そも 
そもの提起者である富村順一氏が、三年前、たったひとりで自費でつくったパン 
フを売り歩きながらひたすら犠牲者の塔を建てたいとおもいつ めたのも、朝鮮 
人一家のいかようにも理不尽な悲劇の深刻さを直感していたからにほかならない。

いま私の手元にあるそのパンフの表紙にはおおきな明朝活字で、「死後も差別さ 
れる朝鮮人」という題名が印刷されており、扉には、「謹んでこの 小冊 子を沖 
縄で虐殺された谷川さん一家をはじめとする朝鮮人の人々の霊に捧げ、その慰霊 
塔を殉難の地・沖縄に建設することを誓います。富村純一」と記 されている。

ここで、「殉難の地」は必ずしも久米島だけを指していないし、「殉難」の内容 
も虐殺だけにとどまらない。さらに彼の告発の含む意味の先鋭さを 私な りに解 
かってきたと思うからあえて断言するのだが、この数行の言葉の背後には、じつ 
に強烈な牴縄人による沖縄および沖縄人批判瓩隠されてい る。「殉難」 
は、つまり単に日本軍による、大和人(やまとんちゅう)によるものばかりでは 
なくて、たとえば富村順一が少年時代に目撃した國場 組と いう沖縄の搾取階級 
であり、さらには皇民化教育の下で、「日本人化」を志向させられる中で、さら 
に下層の存在として朝鮮人を猊要とし瓠∈絞未 てきた沖縄人総体をまでつ 
つみこんだ言葉なのではないのか。話を戻す。

具さん一家虐殺は八月二十日の夜に行われたが、それは文字通り凄惨を極めたも 
のであった。

日本軍がくる前、知人から忠告を受けた具さんはその日一家をあげて避難を開始 
する直前だった。具仲会さんと次夫君は字鳥島の知人宅へ明るいう ちに 避難 
し、ウタさんと残りの子供たちは自宅でまだ避難準備中に、夕暮れになって日本 
兵に囲まれた。ウタさんは一歳の幼児を背負い、一男君の手を引い て逃げ出し 
たが、上江洲地区のガジュマルの大樹の下に来たところで捕まり、殺される。以 
下は目撃者の証言。

「母が『一男は昇の子ではないから、この子だけは助けてくれ、殺さないでくだ 
さい』と泣きすすりながら嘆願していた。日本兵は、ウタさんを斬 り殺 した 
後、ふたりの子供らをウタさんの死骸のほうに突き出して斬り殺した。ウタさん 
の最期の叫び声、子供らのあの姿を思い出すといまも胸が詰まる思 いです…」

「綾子と八重子は、家の中でぶるぶる泣いていたが、母ちゃんのところへ連れて 
ゆくから出ておいでと誘われて出てきたところをふたり別々に日本 軍の 兵士が 
ひきずって自宅から七〇〇メートルほど離れた、字山里の西側農道で斬殺した。 
ふたりの死体は側溝に並べて藁をかぶせてありました」

具仲会さんと次夫君もまもなく日本軍に発見される。

「昇(具仲会さんのこと)は壕から引き出され、首にロープをかけて生きたま 
ま、海岸までおよそ三〇〇メートルほど引きずっていかれたようで す。八 月二 
十日、煌々と明るい月夜の晩でした。村民に変装した日本兵一〇人くらいで護岸 
の上から谷川昇の死体を投げ捨て、そのあとひとりの兵隊がちいさ な子供をか 
かえてきて父の死体のそばに投げ落としました。子供は父の死体にしがみついて 
わーわーと泣き崩れていましたが、その子を軍刀で何回 も何 回も切り刻んでい 
ました。私はこわくて足もぶるぶる震えました。日本軍から『見せしめだ、ほ 
おっておけ』ともいうし、『あとで死体を片付けよ』と も命じられたので、私 
たち警防団員は涙をすすりながら、海岸に穴を掘って埋めました。あのときの子 
供の、断末魔の鳴き声はいまも耳にのこって いる ようです…」

       六

虐殺の地・久米島に私たちは四日間滞在した。支える会としてあらかじめ予定し 
たのは十八日の現地集会と翌十九日の虐殺現場の巡回の二日間だっ た。 それに 
倍する期間とどまったのは特別、新しい企てを持ったからでも何でもない。二十 
日沖縄全域を襲った小型台風のため、飛行便も船便もストップし てしまったか 
らである。

だが、そのおかげで私たちは久米島の本土にいては視えなかった部分や視えにく 
かった部分を多少ともみることができた。たとえば島の人たちの事 件に 対する 
想いである。はじめて久米島に来た人が大部分であったが、二度目の私もふくめ 
て大半は久米島事件に対する島の人々の感情は複雑ではあるが、 たぶん、あま 
り触れられたくないもの、といった要素がつよいのではないかと考えてきた。不 
幸な忌まわしい想い出は一刻も早く忘れてしまいたい のが 人情だし、当時、鹿 
山部隊には「日本兵」として幾人かの沖縄出身者(うちなんちゅう)が加わって 
いたり、犠牲者の居所をなかば強制されたとはいえ 通報した島の人たちもい 
て、事件のことを口にすることで身内に累が及ぶという複雑な情況があったから 
である。

実際、ことさら事件に無関心を装う傾向は否めなかった。現地集会の呼びかけビ 
ラを全戸に配ったにもかかわらず、当日参列した島民は数人であっ た。

けれども一方で、次のような事実もあった。具志川村役場近くにある小さな地元 
紙・久米島新聞社の人が教えてくれたものである。「事件が本土の マス コミで 
騒がれる六年くらい前のことですが、青年団有志で一時、碑を建てる話があった 
んです。結局、マスコミに取り上げられて事件が有名になるとひ とりでに立ち 
消えになってしまいましたが。いまあの事件のことを黙して語らないのは事実で 
すが、事件のことは親から子へと語り継がれて、事件 後に 生まれた青年たちの 
大半は口づてに事件のことは知っているのです」と。

久米島は沖縄の離島のなかでも地味に富む豊かな島である。周囲を美しいサンゴ 
礁に囲まれ陽光を浴びてのびやかに躍動するてんけいてきな南の島 だ。 琉球王 
朝の昔から、人々の暮らしは自給自足しながら豊かであった。長寿の地に多い小 
さな蜜柑シーカーサがそこここにたわわに実っていて、事実、長 生きの人が多い。

三十二年目の夏が過ぎた。あの時、イーフの白い浜に流れた仲村渠明勇さんら犠 
牲者二〇名余の鮮血は、砂に吸われてあとかたもない。だが、それ は消 えたの 
ではなかった。事件を知ったすべての人々の心にあまねく拡がり止むことなく告 
発をつづけているのではないのか。誰に対して? 戦争責任を曖 昧なまま、天 
皇制なるものをいまもおしいただく日本国家と日本人全体に対してである。

◆参考文献 大島幸夫著『沖縄の日本軍』新泉社刊、沖教組戦争犯罪追及委編 
『これが日本軍だ』

(終わり)

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