[CML 040544] <テント日誌11月7日(土) 経産省前テントひろば1519日目>

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2015年 11月 9日 (月) 04:42:20 JST


(転送します)

テント日誌11月7日(土)
経産省前テントひろば1519日

なかなか壁を崩す道はみえては来ないのだけれど
過日、友人からの「殿乱心」と書かれた美しい絵葉書の案内状に誘われて、高校時代の友たちと春画展に出掛けた。永青文庫での春画展である。芭蕉庵の横の胸つき坂を上がると永青文庫はあるが、驚いたのは鑑賞する若い女性たちの多いことだった。そんなことをいうのは野暮の骨頂といわれるかもしれないが、それにしてもこれは感動的だった。また、これくらい美しいAVはないのだろうかと思った。題材に『源氏物語』など採られているのを見ながら、日本的な美とエロスの世界をこの水準で描いたらAVだってヒットするだろうと妄想をしていた。
春画は江戸時代に開花した藝術であるが、それを見ながら、同時にこの時代の政治のことをも脳裏をかすめた。こんなところでも政治のことを考えるのはそれこそ、野暮ったいのだろうが、どうも頭を離れない。やはり、どこかで無意識にテントのことが引っかかっているからだろう、と思う。

テントは裁判の高裁判決も出て、国側の代執行(強制撤去)の動きも予測され日々、緊張の高まる中にある。こうした中で僕が否応なしに意識せざるをえないのは日本の政治とは何なのだ、という問いであり、その厚い壁についてである。僕らは日本の政治を根幹で支配しているのは官僚であり、それとの闘いなしに重要な政治問題が解決する道はないと考えてきた。その意識が経産省前にテントを立てる重要な動機になった。テント設立以来、4年以上の歳月が経ったがこの確信は深まりこそすれ減じることはない。3・11以来、政権の交代はあり(民主党から自民党に)、大臣は次から次へと変わった。(何人の経産大臣が生まれ消えていったことか)。
3・11以降の原発政策について政党(特に与党、というか、政権を担う政党)の政治家は曖昧なことしかいわなかったし、その理念や構想を出してこなかった。3・11大震災と福島原発事故の総括にのっとって、原発の政策をキチンと語った政治家はいなかった。小泉や細川らの元総理大臣経験者らが原発からの撤退を明瞭にしたことを除いてである。しかし、こうした政党や政治家の動きとは別に官僚たちは大震災や福島原発の事故直後から、原発再稼働→原発の存続のシナリオをもって臨んできた。このことは僕らが分析し、予測したことであった。それとどう闘うのかは厚い壁に立たされている、正直なところそれが現状であるにしても。

原発政策を誰がどこで、どのように決定しているのか、それを官僚であると僕らは語ってきたが、それを明瞭にしたかった。そうでなければ、それを変えさせることはできないからである。そこまで踏み込めないからだ。原発政策が国策であり、少なくとも政治的決定が不可欠であることは多くの人が認めることである。そうであれば、政府や国会がそれを決めるべきであり、そうなっているはずだと多くの人は思っているのかもしれない。かつて石破茂は原発行政が官僚の差し出すものに盲目的にハンコを押していただけであったと語っていたが、3・11後も事態は変わってはいないのである。
むしろ、僕らはこれを特殊領域でのことではなく、日本の政治一般に、権力構造一般に普遍化していいのだと思う。そして、この官僚が権力の実態をなしていることは、それが閉じられていて、誰がどこで、どのように政策を決定していて見えなくあることと同義である。これは国民(市民、あるいは地域住民)の意志が政治を決定する、官僚はその代行をするに過ぎないという民主政治と根本的に反していることなのである。国家、その機関としての官僚が国民の上位にあり、それが政治的決定をする。それが、あたり前であった封建時代ならともかく憲法に沿って権力が存在する、立憲時代の政治や権力のあり方はこれに反したことなのだ。

僕らは明治以降の日本は立憲政治の中にあったと語られてきたが、それは名目に過ぎず、実態は律令官僚―武家官僚―近代官僚とつづく官僚専制政治だった。この日本の権力構造や権力構成は自由や民主主義という立憲的な権力形態とは矛盾するものだった。外観や名目が事態を複雑にしてきたとはいえ、国家(国家機関)が上位にあり、その優位で政治的決定がなされるその構造は民主制や立憲制と反するのだが、それが日本の政治の実態をなしてきたのだ。官僚は政治定を自己自身で決定できない。そういう構造にあるといわれるが、実際は官僚自身が権力として自己決定して行くことができるし、そのように振る舞う。官僚独裁とか官僚専制というのは官僚自身が権力として自己決定していく形態のことである。
これを思想的根拠づけたのは「官僚的合理主義」ともよばれるもので江戸時代の儒学思想だった。荻生徂徠などの儒学者たちが武家官僚の官僚支配に根拠を与えるために生み出した考えだ。これが、官僚集団が自分たちの政治的、権力的な決定に根拠を与えてきたものであり、閉じられた集団で誰が、どのように政治決定をしたかが見えなくてもいいようにしている構造を生み出したのである。官僚の無責任制はこれと表裏の関係である。官僚制は近代の政治や社会として不可避に生まれるものであり、それ自身を簡単には消滅させられない。だから、それがどのように振る舞うかが問題である。
その自己決定が普遍的であり、全体の利益になるというのではなく、それは国民の意志を媒介にしなければならないということである。国民の意志決定に従属するものであり、その代行にすぎないのである。国民の上位にあり、自己決定が許されるような存在ではない。
官僚組織や集団が開かれていなければならない、閉鎖的で不透明であってはいけないというのはこうした意味だ。誰がどのように政策を決定して行くということが見えていること、それは官僚の独善を否定する第一歩である。国民の自己決定という民主制や立憲制に反する、官僚の自己決定という構造を変えていく第1歩である。原発問題での経産省の取り続けてきた態度は国民に向かって自己を開こうということより、閉じながら、独善的な自己決定でことを進めるだけだ。何故、彼らは裁判において自分たちの原発についての考えを明らかにしなかったのか、僕らとの対話(論争も含めて)に踏み出さなかったのか。これは彼らの弱さであっても強さではない。

 官僚政治の厚い壁に突きあたっている。そこで苦吟しているというのが偽らざる感想である。その壁を破る道は何処にあるか、まだみえてはいない。ベルリンの壁でも崩れるときは崩れる。僕らは壁を崩す道は見えないけれど、権力の構造と歴史に気が付くことでその端緒に立てるし、その一歩にある。粘り強く闘う意味はある。(三上治)


テント企画の映画会
次回は14日(土)19時からです。
いつも通り、映画は無料、懇親会(ディスカッション)はカンパ制です。
場所は第二テント、万が一の時は事務所の予定です。
タイトルは「文革宣伝画」
 胡傑監督最新作です。
 文化大革命の時代にポスターや壁画、ビラなどプロパガンダ絵を描いていた人々のインタビューからなるドキュメンタリー。 本邦プレ初公開、日本語字幕付き 先週、字幕付を入手した出来立てホヤホヤです。




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