[CML 037665] 内田樹さんたち(学問の自由を考える会)が提起している「国旗国歌についての大学人声明」の評価について

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2015年 5月 31日 (日) 19:59:49 JST


先日、私は、文科省の「大学に対する国旗国歌に関する要請」の撤回を求める「学問の自由を考える会」の「国旗国歌についての
大学人声明」を本MLにもご紹介させていただいたのですが、同声明の趣旨を読み違えたうえで同声明に署名した人たち(私も署
名しました)を批判をしている人がいます。批判者の主張の要点は「国旗国歌の強制の問題は大学だけの問題ではない。国旗国
歌の強制は当然小・中・高も駄目。それを大学への強制だけに照準を当てて撤回を求めている。その姿勢は誤っている」というも
のです。しかし、批判者が指摘しているようなことは署名者全員常識としてわかりすぎるほど知悉していることです。

日の丸の掲揚と君が代の斉唱について、当時首相であった小渕恵三は、1999年6月29日の衆議院本会議において「学校におき
まして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌
の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるもの」であると答弁しています。以
後、日の丸の掲揚と君が代の斉唱は、文科省が告示する学習指導要領(準法的拘束力を持つ)の改定によってすでに小・中・高に
おいては事実上義務化=強制されて今日に到っています。それが「研究の自由」「研究発表の自由」「大学の自治」が憲法上保障
されている(ただし、明文規定はない。通説)大学においてもさらに強制の手が伸びようとしているというところに今回の文科省要請
の重大な問題性があるのです。「国旗国歌についての大学人声明」はそうした歴史的経緯を踏まえたうえでの抗議の声明です。当
然、同声明に小・中・高に比して大学を特別視しようとする意図などあるはずもありません。

以上は、いつに常識の問題です。そうした歴史的経緯すら知らずにただ批判だけはする。愚論以下の論、暴論のきわみというほか
ないでしょう。

ちなみにこの批判者は、内田樹さんの言葉尻をとらえて批判もしていますが、この内田樹批判もやはり的外れです。どういう点が的
外れか。この批判者に批判される内田樹さんの言葉は以下のようなものです。

     「正直に言って、日本が中国や太平洋で戦争をしたことについて、私はそれなりの歴史的必然があったと思う。その当時の
     国際関係のなかで、他に効果的な外交的なオプションがあったかどうか、私には分からない。たぶん生まれたばかりの近代
     国民国家が生き延びるためには戦争という手だてしかなかったのだろう。」 

                                                (内田樹の研究室「国旗国歌について」2015.05.28)
     http://blog.tatsuru.com/2015/05/28_1617.php

上記の内田樹さんの認識はおそらく以下のような認識から来ています。

     「関川さんの回想のきわだった特徴は、主観的印象は(自分の記憶でさえ)軽々には信じないという点にある。私たちは記憶
     を捏造する。経験したことを忘れ、経験していないことを思い出す。事後的に大きな意味をもつことになった出来事にはリア
     ルタイムでもつよい関心を持っていた(場合によってはコミットしていた)ことになっているし、当時は大事件だったがその後忘
     れられた事件は、リアルタイムでもまるで興味がなかったという話に作り変えられる。私たちはつねに無意識のうちに記憶の
     事後操作を行っている。/関川さんはそのように操作される前の、無垢の過去、過去のリアリティに触れようとする。別にそ
     れがすばらしいものだったからではない(変造される記憶の多くは、嫌悪感や苦痛や生理的不快を伴っているがゆえに変造
     される)。そうではなくて、過去を現時点での価値観や評価に基づいて回想しないこと、過去の出来事をリアルタイムの切実さ
     と息づかいのまま再生することが重要なのだ。現在によって過去を見ることを自制する禁欲に関川さんは作家としての賭け
     金を置いているのである。私はそのことに敬意を抱く。」
                                  (内田樹の研究室「関川夏央『昭和三十年代演習』書評」2013年07月12日)
     http://blog.tatsuru.com/2013/07/12_1242.php

上記で内田さんが指摘する「過去を現時点での価値観や評価に基づいて回想しない」という視点から見れば、「日本が中国や太平洋
で戦争をしたことについて他に効果的な外交的なオプションがあったかどうか、私には分からない」という上記の内田さんの感想は決
して歴史修正主義者の感想というべきではなく、「過去の出来事をリアルタイムの切実さと息づかいのまま過去の出来事をリアルタイ
ムの切実さと息づかいのまま」見ようとする者の正直な感想というべきものでしょう。 



私たち現代の平和主義者が好むと好まざるとにかかわらず、第一次世界大戦までは「戦争を行う権利」は国家の当然の権利として国
際法上認められていた権利ですし、第一次世界大戦後も戦時国際法によって武力紛争の存在そのものは許容されていました。当時
は、そうした国際認識の下で列強間の植民地争奪戦も国歌の「戦争を行う権利」として許容されていたのです。内田さんはそうした国
際認識が「常識」として跋扈していた当時の情勢の下で「日本が中国や太平洋で戦争をしたことについて、他に効果的な外交的なオプ
ションがあったかどうか、私には分からない」と言っているのです。

内田さんは別に「戦争」というものを肯定的に見ているわけではありません。逆に現在の視点からは明確に日本のアジア諸国への戦
争は明確に侵略戦争であるという認識を持っているはずです(彼の著作を見ればわかります)。「アジアの2000万人以上の犠牲者は
歴史的必然で殺戮アジアの2000万人以上の犠牲者は歴史的必然で殺戮された」などとは到底思ってもいないでしょう。人を安易に
非難することの愚かさを私は思います。

なお、上記で内田さんがいう「過去を現時点での価値観や評価に基づいて回想しない」という視点は現代の世界の歴史家の共通の
視点といってよいものです。この点について、過去に私の書いた文章の一節を挙げておきます。

     「レヴィ=ストロースの『野生の思考』(1962)は、未開社会の親族構造を分析することで「野蛮」から「進歩」へという、すなわち
     「野蛮(混沌)」から洗練された秩序が形作られたとするこれまでの通時的(単純直線的)な近代西欧の理性中心主義の物の
     見方、認識方法に根底的な批判を加え、「野蛮(混沌)」の象徴と結びつけられたいわゆる『未開社会』においても一定の秩序
     ・構造、すなわち文化が見出されることを論理的に実証した著作としてあまりにも有名です。ごく大雑把に言ってレヴィ=ストロ
     ースのこの『野生の思考』(1962)が上梓されて以来、通時的に歴史を観る(「現代」を基準にして「過去」を評価すること)歴史
     認識の誤りについて私たち現代人は根底的な反省を促されることになりました。歴史観は歴史家、また人によってさまざまで
     あるものの、過去を安易に今日の基準でみること、自分の時代の価値観や倫理感を機械的に過去へ適用し、批判することは、
     歴史の実相を見誤ることになりかねないという認識では洋の東西を問わず今日の歴史家はほぼ一致しているはずです」

内田さんの指摘はそういうものだろうと私は思っています。ただし、私は内田さんの思想については批判的です。上記の内田さんの
「正直に言って、日本が中国や太平洋で戦争をしたことについて」云々の感想についても私は私なりの批判を持っています。ここで私
の言っていることはおのれの限られた知識で安易に人を批判することの愚かしさについてです。

*私は議論するためにこの文章を書いているわけではありません。したがって、なにがしかの反応があってもこの点についてこれ以
上のことを書くつもりはないことをお断りしておきます。


東本高志@大分
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