[CML 037646] 8年前の「教組問題」に関する私の問題提起と根津さんの一通のメールに見る問題意識 ――根津さん、河原井さんの高裁逆転勝訴判決の朗報にふれて

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2015年 5月 29日 (金) 21:55:42 JST


昨日の5月28日に東京高裁(須藤典明裁判長)で根津公子さんに対する「君が代不起立」停職6か月の地裁判決を取り消す
判決が出ました。また、同高裁は、根津さん、河原井純子さんに対する損害賠償についても地裁判決を覆し10万円の賠償を
都教委に課す判決を出しました。画期的なことです。根津公子さん、河原井純子さんに心から「おめでとう」の言葉を申し述べ
させていただきたいと思います。

さて、報道によれば、同裁判の契機となったのは、根津公子さんに対して2007年3月30日に出された東京都教委による卒
業式における「君が代不起立」停職6か月処分でした。ということは、根津さんからいただいた初見のメールはちょうど同じ頃
のことだったかと思い当たります。2008年4月に私は根津さんから一通のメールをいただくことがありました。そのメールに
は「東本さんが、4月2日にAML(注:オルタナティブ運動メーリングリスト)に投稿されていた文章を拝見しました。東本さん、
おっしゃるとおりです。教組の役員及び組合員に、自己を問うてもらわなければと、私もいつもいつも思い、問いかけるのです
が、まったく進展がありません・・・」と書かれていました。根津さんからそのメールをいただいたことが下記に再掲させていた
だこうと思う「体中に満ちる悔しさのようなもの、虚しさのようなもの」(原題:「日教組、全教への問い2つ、3つ、4つ・・・」)とい
う拙記事が河原井さん 根津さんらの「君が代」解雇をさせない会の会報の最新号(2008年4月号、No.15)に掲載される契
機にもなりました。

今回の東京高裁判決の画期的な意義についてはすでに多くの方の分析と処方箋があり、傍観者然の位置にいる私ごときが
つけ加えることはなにもありません。だから、私は、東京高裁判決には直接関係のない少し別の角度からこの問題を見てみ
たいと思います。そこで思い出したのが2008年の記事だったというわけです。

上記の「解雇させない会」会報15号には同年4月5日にあった作家辺見庸の講演会の模様を話題にしているビデオプレスの
佐々木有美さんの記事もありました。佐々木さんによれば、辺見は同講演会で「ほとんどの教員が起立している今の状況に、
『教員たちはもっと自己の矛盾を表現すべきではないか、もっと苦しむべきではないか』と投げかけた。教職員組合へは『組合
には個人がない。あるのは諧調(ハーモニー)。ないものは主体性』であると痛烈な批判を展開した」そうです。辺見の問題提
起とその問題提起を聞いた佐々木さんの感想はその後に続く私の拙文の問題提起とも重なるところ大だと私は思いますので、
まず、佐々木さんの記事から再掲させていただこうと思います。

     根津さんと「世間」―辺見庸氏の講演をめぐって(佐々木有美 ビデオプレス)

     4月5日に作家辺見庸氏の講演会があった。死刑制度の廃止を訴える3時間半にわたる講演だった。この講演のキ          
     ーワードは「世間」。日本での死刑制度廃止の難しさの根本を「世間」ということばで辺見氏は語った。「世間体」「世間
     の目」、日本人はいつも自分ではなく「世間」に価値基準をおき、そのハーモニーを崩さず生きることを常としてきた。

     辺見氏は、「正しいと思うことだったら一人でも行動すべきだと生徒たちに言ってきた。自分の教育に反するから『君が
     代』に不起立する」という根津さんの意見に百パーセント賛意を表明した。そしてほとんどの教員が起立している今の
     状況に、「教員たちはもっと自己の矛盾を表現すべきではないか、もっと苦しむべきではないか」と投げかけた。教職
     員組合へは「組合には個人がない。あるのは諧調(ハーモニー)。ないものは主体性」であると痛烈な批判を展開した。

     さらに氏は、根津さんは、必ずしも公権力や都政だけではなく日本的な日常、つまり「世間」と闘わざるをえないからこ
     そ「絶望的に孤立した闘い」になってしまうとも語った。「戦後民主主義は『世間』を超克しえなかった。だからこそその
     『世間』がいま死刑問題をふくめ大爆走を始めている」というのが氏の結論である。

     根津さんの闘いの困難さを辺見氏は「世間」という言葉で表現した。その重さを肌身で感じているのは他ならない彼女
     自身だと思う。だからこそ戦後民主主義の課題を根津さんは一身に担っているとも言えるのではないか。この講演の
     時点で辺見氏は多分、今回の「君が代」解雇阻止については知らなかった。もし、それを知っていたら「絶望的に孤立
     した闘い」が「世間」を動かし風穴を開けたということに希望を見たにちがいない。「世間」を嘆くことではなく、「世間」を
     変える努力こそが希望につながる。

以下、「体中に満ちる悔しさのようなもの、虚しさのようなもの」(原題:「日教組、全教への問い2つ、3つ、4つ・・・」)と題された
私の記事の再掲。

     「『都教委は私を首にできなかった。大勢が動けば、状況は変えられる』と、都立南大沢学園養護学校教諭の根津公子
     さん(57)は、処分が停職六カ月にとどまったことに、満面の笑みで 
“勝利宣言”した」

     私も当然、根津さんの上記発言には深く共感するのですが、同時に、なにか納得できない、悔しさのようなもの、虚しさ
     のようなもの、が体中に満ちて残念でならないのです。もちろん根津さんに対して、ではありません。あえて名指しすれ
     ば、それは、根津さんもそのお仲間のひとりである学校教職員の組合組織、日教組(民主党・連合系、一部社民・新社
     会党系)、全教(共産党系)という組織に対する怒りです。

     毎日新聞3月26日付の「記者の目」(湯谷茂樹記者)によると、「根津さんの加盟する日教組傘下の東京教組」は、「村
     山政権発足を機に、95年に文部省(当時)との関係を協調路線に転換」する以前の「(日の丸・君が代強制の)反対方
     針は変えていないものの、(95年以後は)反対行動の提起はしておらず、処分に伴う経済的損失までは『支援できない』
     という姿勢だ」といいます。

     また、全教傘下の都教組北多摩西支部の「『日の丸』『君が代』おしつけに反対し、父母・地域・教職員の民主的合意に
     もとづく学校教育を」(1999年10月5日)を見ると、次のような指導方針が記されています。「結果として『おしつけが強行』
     されたり…『職務命令』で押し切られることがあっても、そのことで“ガッカリ”することなく子ども中心の感動ある行事にし
     ようではありませんか。また、実力行使や個人的に行動することなくあくまでも教育の条理をにたってよく相談してすすめ
     ましょう。ひきつづき職場の協力態勢を保ち、父母・地域の声を広げるとりくみを粘り強くすすめようではありませんか」
     (「4私たちのとりくみ」「3)職場の合意づくりを」)。

     上記の2つの記事から看て取れることは、日教組、全教とも、「日の丸・君が代」強制に反対の意思表示をするための
     「不起立・退席」などの「実力行使」を「個人的な行動」とみなし、否定していること(少なくとも肯定的には見ていないこと)
     です。「日の丸・君が代」強制にはわれわれも反対だが、「不起立・退席」などの個人的な実力行使は慎もう。また、そう
     した個人的な行動に対する「処分に伴う経済的損失までは『支援できない』」という具合です。

     しかし、上記のような考え方は、労働組合運動の本来のあり方を見失った考え方というべきではないでしょうか。

     無産者としての労働者は、権力者(富を占有する者)としての資本家・雇用者に比して弱い存在である。ゆえに労働者個
     人としては資本家・雇用者に対抗する術はなく、劣悪な条件のもとでも生きるためには“ただがまんして”働かざるをえな
     い。しかし、労働者が“団結”して資本家・雇用者に立ち向かえば、資本家・雇用者は、労働者のストライキの行使などで
     被る損失と若干の賃上げ、労働条件の改善とにかかる費用との損得勘定を計算して、ストライキの行使などで被る損失
     の方がより甚大であると判断した場合妥協を図ろうとする。その成果物が賃上げとなり、労働条件の改善となる。無産者
     としての労働者の唯一の武器は“団結”の力である。「万国の労働者、団結せよ」(マルクス・エンゲルス『共産党宣言』18
     48年)。こうして国際法でも、日本国憲法でも労働者の「団結権」「団体交渉権」が保障されるようになった、というのが、労
     働運動発生史の初歩講座的ガイダンスではなかったでしょうか?

     つまり、このことを「君が代不起立」を貫く根津さんたちの闘いに即していえば、わが国の学校教職員(日教組、全教)が一
     丸となって「君が代不起立」問題に取り組めば、根津さんたち一部の教員(10・23通達に基づく処分者数408名)に懲戒
     処分などの過度なしわ寄せがいくこともなく、権力者側(特に東京都)の権力乱用をあらかじめ阻止する“力”になりうるの
     ではないか、ということです。“団結は力”なのです。

     なぜ、日教組(民主党・連合系、一部社民・新社会党系)、全教(共産党系)は、上記のような労働組合運動の本来のあり
     方を見失ってしまったのでしょうか?

     組合全体として「君が代不起立」の方針を採用してしまうと、今度は逆に「君が代不起立」という実力行使に批判的な者の
     「内心の自由」を損ねてしまう、ということを仮に危惧しているのであれば、彼、彼女らの自発的意思を尊重し、組合として
     組合員全員に「君が代不起立」を強制しなければよいだけの話です。

     第一、「内心の自由」の尊重を主張するものが「内心の自由」を踏みにじるような強硬手段を組合員に課するというのも解
     せぬ話です。組合員ひとりひとりの「内心の自由」を尊重しながら、組合として「君が代不起立」の実力行使を含めて「闘う」
     姿勢を貫こうとすることは決して矛盾しないでしょう。日教組、全教のみなさんには、「大勢動けば変えられる」という上記の
     根津さんの言葉の重みをあらためて強く噛み締めていただきたいものだと切に思います。

     失礼なことばを最後にあえて付け加えます。あなたたちに「世の中を変えたい」という思いがほんとうにあるのならば。


東本高志@大分
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