[CML 038117] 今日の言葉 ――神戸連続児童殺傷事件のような事件を繰り返したくないのなら、わたしたちこそが学習すべきであり、わたしたちの側こそ変化すべきなのだ。だから、わたしは『絶歌』を読みたい。
higashimoto takashi
higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2015年 6月 25日 (木) 17:07:06 JST
【わたしたちの側こそ変化すべきなのだ】
6月10日、神戸連続児童殺傷事件(1997年)の実行行為者、「酒鬼薔薇聖斗」(少年A)の手記『絶歌』(太田出版)が出版
されたことを、インターネット上で知り、読みたいと思い、書店を探したが、大きな書店にも見当たらなかった。買い占めか、
とも思ったが、どうも、販売自粛だ。マスコミも書店も、所詮は、多数派を形成する「世論」に批判されるのが嫌い。大昔、中
国では秦の始皇帝が自分に都合の悪い文書を燃やしてしまうという焚書をしたが、いまの日本ではマスコミや書店が秦の始
皇帝になっている?『週刊文春』『週刊新潮』の記事から垣間見える本のできはどうもよくない。出版社もいい出来だとは思っ
ていないらしい。・・・となると、買う価値があるか。・・・が、それでも私は読んでみたい。わたしは、そもそも、少年Aがだれに
でもわかりやすい言語で、心から反省しているように読める文章を書くとは思っていない。そうなるとも思えない。あの事件は、
犯人が反省するかしないか、というレベルで評価すべき事件ではない。どんなに贔屓目に考えても、ふつうの人たちが求める
のと同じ内容の反省は、少年Aにはあり得ない。反省を求めること自体が、偽善であり、ニセの正義であり、どうかしている。
なにごとにつけ、だれもが全く同じ過ちについて同じ内容の反省をすることなどあり得ない。実際は人それぞれなのだ。同じ
内容の反省をしていると思っているとすれば、それはおめでたい。そんな錯覚に陥っているのは、反省の中身の掘り下げが
足りないからだ。少年Aの側に変化を求めるのが誤りなのだ。わたしたちがあのような事件を繰り返したくないのなら、わたし
たちこそが学習すべきであり、わたしたちの側こそ変化すべきなのだ。それは、少年Aは何を考えていたのか、なぜあのよう
な行動をとったのか、そのような少年Aが年月を経てどのような考えになっているのか、それをわたしたちはどう受け止めるか。
少年Aには、自分と同じような人間が生まれることを止めることはできない。それができる可能性があるのは、少年Aの過去と
いまを深く考え抜こうとするわたしたちの側なのだ。少年Aが折角、少年Aを理解する教材を与えてくれようとしているのに、そ
れを見ないという選択をしてしまうことは、社会にとって重大な損失だ。だから、わたしは『絶歌』を読みたい。(弁護士清水勉の
ブログ)
http://d.hatena.ne.jp/shimizulaw/20150624
【補遺】
『「知覧」の誕生 特攻の記憶はいかに創られてきたのか』(柏書房)を読んでいる。(略)かつて特攻隊の基地であった知覧
には「知覧特攻平和会館」があり、90年代以降来館者が増加し、いまでは毎年50万人も訪れるそうだ。面白いのは「自己
啓発」目的で訪れるスポーツマンや会社経営者やその従業員などが多いこと。彼らは知覧を訪れて「戦争の時代を思えば
平和な時代に生きている私たちは幸せ」だと実感したり、「愛する人たちのために命を捧げる利他の精神」に涙したりして、
自分の人生に「活入れ」をするのだという。僕は読みながら「特攻隊員は喜んで犠牲になったわけではなく、無能で横暴な
戦争指導者たちによって殺されたも同然なのに、よくも無邪気に感動できるな」などと強烈な違和感を感じたのだが、そうい
う現象を井上氏は教育社会学者らしく冷静に「歴史認識の脱文脈化」という言葉でうまく捉えていた。そう、彼らは特攻隊員
がどのような歴史的経緯と権力構造の中で殺されるに至ったのか(=文脈)については問題にせず、特攻隊員たちの心情
だけを取り出して、そこに感情移入して自己の啓発に使うのである。僕が以前書いたコラム「素朴な「感謝」がファシズムを
支えるとき」で表明した向井理氏への違和感は、煎じ詰めれば向井氏の「歴史認識の脱文脈化」に対するそれだったのだ
と思う。というより、安倍晋三をはじめとした最近のネトウヨ的歴史改ざん主義者たちの言説の正体は、「歴史認識の脱文
脈化」そのものなのではないか?井上氏は本書で非常に重要なことを言語化したように思う。 「歴史認識の脱文脈化」に
ついて連投したが、よく考えると安倍政権が安保法制を通すために行っている作業も「憲法の条文や判例の脱文脈化」で
ある。本来の意味や有機性をバラバラに解体してパーツ化し、自分の都合のよいように使っちゃう。道具化する。これって
現代社会に蔓延する病なのかも。ただし、元の文脈を解体する「脱文脈化」には、解体したパーツに「新たな文脈を与える」
側面もあるので、クリエイティブな行為にも通じる。全否定するわけにはいかない。とはいえ、歴史や憲法の脱文脈化には、
やはり倫理的問題がつきまとうと思う。(想田和弘Twitter 2015-06-24)
https://twitter.com/KazuhiroSoda
【山中人間話】
以下、省略。下記をご参照ください。
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1350.html
東本高志@大分
higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
http://mizukith.blog91.fc2.com/
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