[CML 038055] toriiyoshikiさんの佐々木俊尚さん批判は少しナイーブにすぎるのではないか ――先日の私自身の課した宿題に応える。
higashimoto takashi
higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2015年 6月 22日 (月) 20:27:53 JST
私は先のエントリでtoriiyoshikiさんの言葉を引用したとき、あわせて「toriiyoshikiさんの今回の論については引用者として若干の異議があります。二、三日内に本編でその私の異議を少し述べようと思います」とも小書きを入れておきました。その2、3日の期限はそろそろ過ぎる頃ですので約束のアジェンダは果たさなければいけないでしょう。
さて、私がtoriiyoshikiさんのツイッター記事を読んだときに瞬間的に異議を感じたのは「政治哲学的に全く相反する内田樹氏と古賀茂明氏」云々の部分でした。ですから、私はなぜその部分に異議を感じたのかということから説き起こすことにします。
そのとき私の頭の中には 内田樹さんと古賀茂明さんが共同行動をしたときのある風景がよぎりました。それほど古い話ではありませんのでtoriiyoshikiさんにもご記憶があると思いますが、今年の2月のはじめに「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」の賛同者を募集するという運動が起こりました。下準備のための期間は除いてこの運動の直接の契機となったのは想田和弘さんの下記のツイートでした。
・ISIS「イスラム国」による人質事件をめぐる状況について、翼賛体制構築に抗するという「声明」を準備し、言論や報道、表現に携わる方々の賛同を募っています。今のところ宮台真司、岩上安身、田中龍作、古賀茂明、今井一さんらが賛同者。
(想田和弘 2015年 2月1日)
同日すぐに内田樹さんが想田さんの呼びかけに応えて次のようなツイートを応信しています。
・山の中に四日いるあいだに世間ではいろいろなことが起きているようです。テレビも見ない、新聞も読まない生活でしたが、世論の「政権支持」同調圧力は高まっているようです。人質問題については想田和弘さんが言論の自由のためのアピールを提言しましたので、僕も賛同人として参加します(内田樹 2015年 2月1日)
このとき想田和弘さんつながりで古賀茂明さんと内田樹さんのつながりも実現します(それ以前にもなにがしかのつながりはあったのかもしれませんが私は知りません)。私が内田樹さんと古賀茂明さんの共同行動というのはこのときのことを指しています。しかし、この共同行動は私にとって多少という以上に胡散臭いものでした。なにを私は胡散臭いというのか? たとえば次のようなこと
です。以前の私の記事から引用します。
「想田和弘さんが叩き台を書いた今回の言論の自由のための声明そのものには賛成です。が、このとりくみの背後にいる今井一という人を私は信用しません。彼は単なる「運動屋」にすぎないというのが私の評価です。たとえば想田さんが「みなさん『賛同者』という位置付け」ですと言っているものを事務局的な役割をになっているとしても賛同者のひとりにすぎない今井氏が越権的に「みなさん賛同者」を「賛同人」と「支持者」に差別化してしまうのは文字どおり差別を生み出しかねない禍根を遺してしまいそうです。「翼賛体制構築に抗する表現者」たちの思想とはそういうものか、が問われています。」(Blog「みずき」 2015.02.11)
私のより詳しい胡散臭さの説明はこちらの記事(1)(2)をご参照ください。ここではこれ以上の詳説は省きます。
上記の2本の記事を読めばおわかりになると思いますが、私が胡散臭いと思ったのは、「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」の運動の中に伏在する非民主主義的な要素を不問に附したままの「野合」のようなものについてです。この「野合」はどう見ても「政治哲学」的なものとはいえないでしょう。佐々木俊尚さんの指摘にあるように「ただ『反権力』という立ち位置のみ」の野合と見た方が正鵠を射ているように思います。
さて、toriiyoshikiさんが「佐々木俊尚氏の『リベラル批判』は全くピントを外している」と違和を述べる同氏の「リベラル批判」とははおそらく以下の文章のことでしょう。
「本書はまず「リベラル」という政治勢力がいま完全に崩壊しようとしているところから、話をはじめたい。この勢力は長い間にわたって、新聞やテレビ、雑誌で強い発言力を持ち、自民党政権に対するアンチテーゼとして、日本社会に強い影響を与えてきた。この勢力はたとえば、原発に反対し、自衛隊の海外派遣に反対し、日本国憲法九条を護持し、「国民を戦場に送ろうとしている」と自民党政権の集団的自衛権行使や特定秘密保護法案に反対している。文化人で言えば、作家の大江健三郎氏や瀬戸内寂聴氏、音楽家の坂本龍一氏、学者では「九条の会」事務局長で東大教授の小森陽一氏、神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏、経済学者の浜矩子氏。政治勢力としては福島瑞穂氏と社民党、生活の党と山本太郎となかまたち。元経産省官僚の古賀茂明氏。一緒にくくられることに抵抗のある人もいるだろうが、メディアの上で「リベラル勢力」という呼び方で視界に入ってくるのはそういう人たちだ。しかしこの「リベラル勢力」は、いま完全にほころびている。最大の問題は、彼らが知的な人たちに見えて、実は根本の部分に政治哲学を持っていないことだ。端的にいえば、日本の「リベラル」と呼ばれる政治勢力はリベラリズムとはほとんど何の関係もない、彼らの拠って立つのは、ただ「反権力」という立ち位置のみである。思想ではなく、立ち位置。」(佐々木俊尚「21世紀の自由論―「優しいリアリズム」の時代へ」(NHK出版)まえがき)
「まえがき」を読んだ限りの評価にすぎませんが、佐々木俊尚さんは上記では「政治哲学」以前の問題としての「リベラル」の「立ち位置」の問題性を語っているというのが私の見方です。そして、その「立ち位置」の問題性とは私が上記であげている具体例のようなものを指しているのだろう、と私は思います。だとすれば、それは、「夫々の思想的バックボーンの検証を等閑」にすることでもなく、「『国民』というレッテル貼りと五十歩百歩」のものでもありえないでしょう。「リベラル」の実態に即した内在的なものの見方だろうと私は思います。そして、toriiyoshikiさんの佐々木俊尚さんの「リベラル批判」評価は少しナイーブにすぎるのではないか、とは私の見方です。
東本高志@大分
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