[CML 037856] 浅井基文さんの解釈にしたがって丸山眞男の戦後発言を読む ――憲法第9条は戦争を放棄していることを常に確認するという基本的立場を誤るといつしか足をさらわれていく。
higashimoto takashi
higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2015年 6月 12日 (金) 09:21:34 JST
丸山眞男が1946年から1952年にかけて戦後の日本政治のあり方に関して発言したものの抜粋を浅井基文さんの「読みかえ」の
指示にしたがって読んでみます。次のようになります。
国民の実質的参与なしに作られ、「与えられた」憲法は、他日不当な圧力による蹂躙の危機に曝された場合、国民はこ
れを擁護することにいくばくの責任を感じ、またいくばくの熱意を持つであろうか。戦後の民主化がまったく外面的であっ
たということから、湾岸戦争後のアメリカの対日軍事要求の強まりが出てくると、安倍政治に代表される軍事大国化を目
指す動きがすぐ頭をもたげてくる。「日本がかつての植民地帝国時代にもっていたような実力と威信を国際社会において
復活しうるということはほとんど考えられない。(新たに)動員されるナショナリズムは、それ自体独立の政治力にはなり
得ず、より上位の政治力―アメリカ―と結びつき、後者の一定の政治目的の手段として利用性を持つ限りにおいて存立
を許されるのではないか。この方向を歩めば、日本は決定的に他のアジア・ナショナリズムの動向に背を向ける運命に
ある。日本におけるファシズムの実質的な復活が考えられるとすれば、現在の支配機構が「合法的」にそのままファシズ
ム支配に転ずるコースの方がはるかに蓋然性が多い。現代民主政治が原子的に解体された大衆の行使する投票権に
依存しているところに、形式的な民主主義の地盤の上に実質的な独裁政が容易に成立する所以がある。通信報道手段
を左右しうる力を持った政治指導者は大衆の衝動性に点火することによって、たちまち圧倒的な「世論」を喚起して、中
国脅威論をかき立て、憲法改正を達成する。
集団的自衛権行使の「限界」に対する政府答弁を引き出すことに気を奪われて、憲法第9条は戦争を放棄していることを
常に確認するという基本的立場をどんどん移動させてしまうことは危険なことだ。それは結局、問題提出のイニシアティヴ
をいつも支配権力の側に握られて、我々はただ鼻面を引き回されるだけという結果に陥ってしまう。我々にとって大事な
ことは、憲法第9条のもとで武力行使は禁じられているという争点を忘れたり、捨て去ったりすることでなく、憲法第9条は
戦争法の成立を許さないということでなければならない。その基本的態度を誤ると、結局いつしか足をさらわれて、気が
ついた時は自分の本来の立場からずっと離れた地点に立っているということになる。
いわずもがなのことですが、私は、浅井さんは引用文の最後の節を特に強調したいのだと思います。もう一度繰り返しておきます。
「集団的自衛権行使の「限界」に対する政府答弁を引き出すことに気を奪われて、憲法第9条は戦争を放棄していること
を常に確認するという基本的立場をどんどん移動させてしまうことは危険なことだ。それは結局、問題提出のイニシアテ
ィヴをいつも支配権力の側に握られて、我々はただ鼻面を引き回されるだけという結果に陥ってしまう。」
「我々にとって大事なことは、憲法第9条のもとで武力行使は禁じられているという争点を忘れたり、捨て去ったりすること
でなく、憲法第9条は戦争法の成立を許さないということでなければならない。その基本的態度を誤ると、結局いつしか足
をさらわれて、気がついた時は自分の本来の立場からずっと離れた地点に立っているということになる。」
以下、略。全文は下記をご参照ください。
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東本高志@大分
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