[CML 038429] 今日の言葉 ――国会正門前の熱気はただごとではない。背後にあるのは「勝手に決めるな。それは、決めるのは私たち、主権者は私たちだ」という叫びである。

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2015年 7月 12日 (日) 19:31:48 JST


【人がデモをする社会】
日が落ちれば少しは涼しくなるだろうという目算は外れた。国会正門前の熱気はただごとではなく、汗が噴き出す。一昨日の午後
7時半。安保関連法案に反対する大規模な抗議行動が始まった。催したのは都内の大学生らによる「SEALDs(シールズ)」だ。
日本語では「自由と民主主義のための学生緊急行動」。会場の歩道を埋め尽くす顔には高齢者も子連れの家族も。「若者がんば
れじゃなくて、全世代で集まれよ!」。彼らの呼びかけ通りの壮観である。「勝手に決めるな。憲法守れ」。激しいコールが国権の
最高機関の堅牢な建築にこだまする。法案は憲法違反と多くの専門家が指摘しても、政権与党は耳を貸さず、近く採決の構えを
見せる。抗議行動への参加者は増え続ける。勝手に決めるな。それは、決めるのは私たち、主権者は私たちだという叫びである。
投票だけが国民の仕事ではない。時の政権に常に目を光らせ、必要なら声を上げる。その声を軽んじる現政権に対し、「国民な
めんな」のコールが起こるのは当然だろう。哲学者の柄谷行人さんは以前、3・11後の反原発デモに触れ、「人がデモをする社会」
という文章を書いた。人々が主権者である社会は、選挙によってではなく、デモによってもたらされる、と。その流れは枯れることな
く今に続く。国会前に立ちながら、目配せという言葉をふと思い浮かべた。「危ないね」という思いを伝え合う、それぞれの目配せ。
このさりげない連帯は強まりこそすれ、と感じる。(朝日新聞「天声人語」2015年7月12日)

附:「立ちあがった若者」を若者ゆえに特別視してはならないだろう ――鄭玹汀さん(東大研究員)の「SEALDs(シールズ)」批判と鄭
さんへのバッシングについて(Blog「みずき」 2015.07.03)

【補遺:最大最強の「メディアリテラシー」】
ジャーナリストは可能な限り事実をありのまま淡々と伝えるべきものだとぼくは考えている。それでも、もちろん作り手の主観は入る。
主観なくして1分1秒たりとも構成し得ないのは、ちょっとものが解っている人には自明の理だろう。しかし、決して演説はしない。報道
がアジビラになったらオシマイだ。淡々と「ぼくが見た事実」を重ねることで、最終的な判断は個々の視聴者に委ねる。決して演説は
しない、言い換えれば煽動や誘導は極力避ける。少なくとも、「ことの正邪」をテレビが偉そうにいうのは嫌いだ。できるだけ主観の押
しつけを排し、「判断を視聴者に委ねる」のは民主主義を信じたいからだ。ぼくはテレビの制作者として、結論を視聴者に提示するつ
もりはない。一人一人が自分なりの「結論」を導き出す材料のひとつにぼくが作った番組がなれば、それで身に余る幸いだと思ってい
る。しかし、twitterでは、ぼくは臆面もなく自分の見解を公にする。歯に衣着せず、自分の思いを世に問う。それは活字と映像の違い
でもあるが、それ以上にマスメディアとパーソナルメディアの違いである。マスメディアの情報はどうあっても基本的に一方的・垂直的
にならざるを得ない。それに対してパーソナルメディアは水平的である。だから、本業ほど禁欲的にならず、むしろ自分をさらけ出す
ようにしている。もうひとつあるのは、パーソナルメディアで正直な自分をさらけ出すことで、本業の番組を「こういうことを考えている
人間が作った番組」として一定の留保をつけたうえで見てほしいという思いである。それこそが最大最強の「メディアリテラシー」になり
得ると思うから。いまやテレビは匿名的なメディアであってはならないとぼくは固く信じている。匿名であるメディアの権威を盲目的に
信じていい世の中ではないと思うから。だから作り手は可能な限り視聴者に手持ちのカードをさらけ出すべきだと思う。
                                                         (toriiyoshiki Twitter 2015年7月11日)

【山中人間話】
以下、省略。下記をご参照ください。
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1382.html


東本高志@大分
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http://mizukith.blog91.fc2.com/



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