[CML 038411] 今日の言葉 ――私たちの「民度」が【「倫理的に無敵」(反倫理的)な首相の存在を許している。いま起きていることは「とても恥ずかしいこと」だという自覚を国民の一人一人が持たなければならない。

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2015年 7月 11日 (土) 18:13:23 JST


【「言葉の軽視」と「倫理的に無敵」ということの相関関係】
以前に安倍さんのことを「無敵の権力者」と書いたことがある。「国民の支持とりつけに汲々としているのになぜ無敵といえる
のか」と反論してきた人がいるが、そういう意味ではない。論理が破綻していようと、発言の前後が矛盾していようと一向に気
にかけない「言葉の軽視」は「倫理的に無敵」なのです。要するに「自省の念を持ちあわせていない奴は強い」という話で。「日
本人の民度の問題」と書いたので、予想通り反発する向きもあるようだが、これは疑いなく「民度の問題」である。別に「安倍
政権を支持するから民度が低い」と言っているのではない。個別政策についてはいずれも反対多数なのに選挙になると自民
党が勝つ、という矛盾についての話である。野党が不甲斐ないというのは理由にならない(確かに不甲斐ないが)。政策に反
対なら反対党に投票するのが議会制民主主義の基本。そうした「投票による主権者の意思の表示」がきちんとなされなけれ
ば、そもそも民主主義は成立しない。その基本があまりにも蔑ろにされているから「民度が低い」のである。そういう多数の有
権者がいるから、安倍政権は憲法学者の99%に違憲を指摘されても、論理が破綻し、説明にならない「説明」を繰り返し、答
弁に矛盾が露呈しても地位を失うことはない(普通に言論の責任が問われる民主主義国なら即刻辞任となるはず)。議席の
絶対多数を背景に無理筋を切ってくる。民主主義には「言葉の責任」が伴う。例えそれが「民主主義を成立させるためのフィ
クション=約束事」だったとしても。その前提がこうも蔑ろにされている現状を果たして「民主主義」と呼べるのか。いま起きて
いることは「とても恥ずかしいこと」だという自覚を国民の一人一人が持たなければならない。こういうことを書くとまた「上から
目線だ」とか言う奴が出てきそうだな。でもぼくは極めて常識的かつ基本的な認識(民主主義の原理原則)を述べているに過
ぎません。「民主主義とは単なる多数決のことではない」とみんな小学校で習ったはず。もう一度「当たり前の出発点」に立ち
戻ろうという話です。(toriiyoshiki Twitter 2015年7月11日)

【補遺:市川隆太東京新聞記者のこと】
今日(7月10日)、1年前に54歳で亡くなった、東京新聞記者・市川隆太を偲ぶ会に顔を出した。すごい人の数。しかも多彩。
社外からもたくさんの人が集まっていた。わたしは彼に誘われて、東京新聞の「こちら特報部」の紙面づくりに幾度も関わらせ
てもらった。まともな新聞では取り上げないようなネタ、切り口、コメンテーター。他紙の追随を許さない。他紙にしてみれば、
許してもらうつもりもないか。「まるで週刊誌だよなあ」とふたりで高笑いした。子どもの頃、砂場で夢中になって遊んでいたと
きの感覚と同じ痛快さがあった。市川記者が東京を離れてからは、わたしも「こちら特報部」に関わることはほとんどなくなった。
寂しい気もするが、ほかの人たちが楽しんでくれればそれでいい、か。偲ぶ会の会場を出たところで、市川記者が生前書いた
記事をまとめた書籍をいただいた。そのタイトルが「番犬の流儀」。・・・市川記者が番犬! 飼い主はだれだ? 書籍の帯には、
「政官財の不正を見張る『番犬』こそが新聞記者の使命である。」とある。ということは、飼い主は国民。国民はとても優秀な番
犬を失った。(弁護士清水勉のブログ 2015-07-10)

【山中人間話】
・たとえ強行採決でも戦争法案を通さねば安倍の政治生命は終わる。これは、だから、日本を守るとかの話ではなく安倍個人
の勝手な生存競争なのだ。私たちはつまり、彼の政治的生存のために犠牲になれと強いられているのだ。

以下、省略。下記をご参照ください。
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1380.html


東本高志@大分
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