[CML 038314] 丸谷才一の「子供に詩を作らせるな」ということの意味。あるいは上っ面のところだけしか見ない「世間」というものの虚について。

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2015年 7月 5日 (日) 23:03:04 JST


作家の丸谷才一に「日本語のために」という論があります。

     「一体、作文教育の原理といふのは至つて簡単である。一流の名文をたくさん当てがへばそれでいい。優れた文章に数
     多く接すれば、おのづから文章の骨法が呑みこめるのだ。ところが今の日本の国語教育では、名文を読ませるのは二
     の次、三の次にして、子供の書いた大したことのない文章、およびそれに誰かが手を入れていつそう悪くした文章を読ま
     せる。これでは文体の感覚が鈍磨するのは火を見るよりも明らかだらう。子供の文章などというものは、すこしくらゐ出来
     がよくたつて、何も教科書に入れて規範とする必要はない。そんなものはガリ版刷りの学級文集に収めればいいのであ
     る。」

もう少し丸谷の文章(「子供に詩を作らせるな」)の引用を続けます。

     一体どうして、子供に詩を作らせることにこんなに熱心なのだろう。これではまるで詩学教科書ではないか。

     小学校の教科書に目を通して、まづさう思つた。これはおそらくわたし一人の感想ではあるまい。誰だつて怪訝に思ふくら
     ゐ、異様な熱中ぶりを示しているのである。もつとも、詩学教科書と言つたのはほんのお世辞にすぎないので、あからさま
     に言へば、詩でも何でもないまことに詰まらぬものを子供に書かせようとして必死になってゐるのが、国語教科書の現状
     なのだ。

     たとへば東京書籍の「新しい国語」五上に「四 詩を書く」といふ単元があつて、小学生が、

          牛が水を飲んでいる。
          大きな顔をバケツの中につっこんで、ごくごくごく、がぶがぶ、でっかいはらを波打たせて、ひと息に飲んでしまった。

     と書いたのを、つぎのやうに直すといふ実例をあげてゐる。「書こうとすることがらを、いっそうきわだたせるためには、この
     ように、改行のしかたや句とう点の打ち方など、書き表わし方のくふうをすることがたいせつである」

          牛が水を飲んでいる。
          大きな顔を
          バケツの中につっこんで、
          ごくごくごく、
          がぶがぶ、
          でっかいはらを波打たせて、
          ひと息に飲んでしまった。

     『牛』といふ「詩」がこれでよくなつたつもりらしいが、果たしてさうなのか。わたしの見たところでは、改作前も改作後もどちら
     も詩ではないし、単なる文章としては(別にどうといふことはない代物(しろもの)だけれど)、手を入れないうちのほうが数等
     すぐれてゐる。詩でなんかちつともないスケッチをいい加減に改行して、詩らしく見せかけようといふ卑(いや)しい魂胆のな
     いところが、まだしも清潔なのだ。

     かういふ「詩」の作り方の実演(ほんとうは虚(﹅)演なのだらうけれど)はほかの教科書にもあつて、(略)どちらも詩ではない
     点でも、改作後のほうが悪くなつてゐるといふ点でも、前の場合とまつたく同様なことは言ふまでもない。かういふ馬鹿(ば
     か)げた教材を扱はなければならない教師たち、かういふ下らない勉強に頭を悩ましてゐる児童たちに、わたしは同情を禁
     じ得なかつた。

     第一、不思議でならないのだが、なぜ子供に無理やり詩を作らせるのか。そんな特殊な勉強がどうして必要なのか。いくら
     考へても合点がゆかないのである。

     もちろん、作文の練習といふのは大事だらう。これにはじゆうぶん時間をかけて、丁寧な指導を受けることが望ましい。字も
     覚えるし、言葉や言ひまはしの意味もはつきりするし、筋道を立てた表現のし方も身について、いいことづくめだからである。
     しかしこれとても、上手になるに越したことはないが、何もみんなをいはゆる名(﹅)文(﹅)家に仕立てようと骨を折ることはな
     い。誤字脱字がなくて、語法の正しい、達意の文章が書ければ、それでいちおう上出来なのだ。しかし、散文の場合ならば、
     達意の文章といふことはある。詩の場合には達意の詩なんていふものはない。 


     詩は言葉の魔法である。「力をも入れずして天(あめ)つちを動かす」技術である。さういふ玄妙なものが書ける子供が滅多
     にゐるはずがないのは、明らかではないか。それなのに詩を書けとあらゆる子供に強制するとは、幼児虐待(ぎやくたい)も
     いいところではないか。そして彼らがやむを得ず書いた、本当は詩でも何でもないものを詩として扱ふのは、詩についての
     間違つた概念を教へこみ叩(たた)きこむ、まさに犯罪的行為ではないか。わたしはこのことを日本の教育のために悲しみ、
     日本の詩のために憂へる者である。

     子供たちに詩の作り方など教へる必要はない。もちろん、文章がきちんと書ける子供なら、優れた詩をたくさん読ませれば、
     ごく自然に、詩の真似(まね)ごとのやうなものを書くことはあり得る。それはそれで結構である。そのなかには本ものの詩を
     書く子供もごくまれに出るかもしれない。まことに結構な話だ。しかし百万人に一人の天才を得るために、日本中のあらゆる
     子供に対し、インチキきはまる詩の作り方を教へねばならぬ道理があらうか。(以下、略)

上記で丸谷は教師が子供に詩を書かせるという行為を例にして「虚」ということについて書いています。ここでは丸谷は文字どおり子
供に詩を書かせるという行為の愚かしさについて書いているのですが、丸谷の文章をヒントにして「虚」一般について少しく論を展開
してみます。

この場合、子供は「幼い者」の比喩にすぎませんから、「幼い者」は、「若者」であっても、「世間」であっても構いません。いつの時代
も若者は清新であるとともに無頼で、理知的であろうとして幼く、失敗を積み重ねる存在です。世間は世間でいつの時代も社会変動
の起爆剤(『自由からの逃走』)であると同時に世間虚仮(『天寿国曼荼羅』)という無知の存在でもあります。

それが若者の魅力であり、世間というものの魅力でもあるのですが、一面においておのれが負の存在でもあることの自覚があるが
ゆえに魅力は魅力たりえるのです。純真無垢といっても有垢の存在を前提にして無垢があるのと同じことです。

しかし、その幼く、つたなく、負としてあるものを負として自覚することなく、光の当たった側面のみを見ることを「虚」と言うのです。同
様のことは学生たちの運動としての「SEALDs(シールズ)」を見る「世間」の目についても同じことが言えるでしょう。

「虚演」を演じず、「実演」を演じる目で若者たちとも接したい。それが若者たちとともにあり、ともに生きようとすることではないか。そ
れが若者をほんとうに評価するということではないか。そうして「安保法制」反対運動も一段と大きな輪になっていくのではないか。私
はそう思います。

     関連記事:「立ちあがった若者」を若者ゆえに特別視してはならないだろう 
 ――鄭玹汀さん(東大研究員)の「SEALDs(シール
     ズ)」批判と鄭さんへのバッシングについて(Blog「みずき」 2015.07.03) 

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東本高志@大分
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