[CML 039307] 「vanacoralの日記」主宰者の反知性主義的な「社会運動上の人権侵害を許さない」グループ(旧名「鄭玹汀さんの問題提起を受け止め、不当なバッシング・人権侵害を許さない会」)批判を反批判する
higashimoto takashi
higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2015年 8月 23日 (日) 14:47:16 JST
「vanacoralの日記」の主宰者が昨日の8月22日付けで自身のブログに「鄭玹汀陣営によるSEALDsへの誹謗中傷」という記事を
掲載しています。このブログの主宰者は「鄭玹汀陣営」なるものを批判したくてたまらなかったのでしょう。標題のつけ方自体が
そのことをよく示しています。標題は15字(word)程度の短いものですが、その短い標題だけでも二重の認識の誤りがあります。
第1。そもそも「鄭玹汀陣営」なるものは存在しません。同主宰者が「鄭玹汀陣営」という「社会運動上の人権侵害を許さない」
(旧名「鄭玹汀さんの問題提起を受け止め、不当なバッシング・人権侵害を許さない会」)グループは同グループの旧名がその
とおりのことを示しているように「鄭玹汀さんの問題提起を受け止め、鄭さんバッシングをはじめとする不当なバッシング・人権
侵害を許さない」という呼びかけに呼応、共感して集まった同グループの趣旨を尊重するという以外なんらの拘束もない個人、
個人の緩やかな集合体にすぎないもので「陣営=勢力」と呼ばれるにはほど遠い組織です。すなわち、「鄭玹汀陣営」なるもの
は存在しません。
第2。そうであれば、「鄭玹汀陣営によるSEALDsへの誹謗中傷」という標題の認定そのものが逆に誹謗中傷ものということになる
でしょう。
さて、「vanacoralの日記」主宰者は標題で「鄭玹汀陣営によるSEALDsへの誹謗中傷」と言うのですが、この人は自身が鄭さんに
対して重ねて二次被害、三次被害をもたらす加害者の位置にいま立っていることに気づいているのでしょうか? もちろん気づ
いていないから軽薄にもこのような文章を書いているということでしょうが、二次被害、三次被害がある意味で一次被害以上に
被害者の精神をズタズタにし、回復不可能なまでにその人の精神に決定的なダメージを与えることが多いことは精神医学の分
野ではもちろん、いまや「世間」でもほとんど常識です。その加害者の位置にvanacoralさんはいま無自覚で軽薄なままに立って
いるということです。その自身のおそらく意図しない責任の大きさと重さについて思いを巡らせていただきたいものです。
SEALDsの声明文中に垣間見られる若い世代のナショナリスティックな認識について警鐘を鳴らした鄭さんのはじめの批評文の
指摘がどうして「SEALDsへの誹謗中傷」などというものになるでしょう? 「鄭さんへの人権侵害的バッシングに加担する人たち
は、安倍政権の戦争法案を批判するSEALDsの運動に何らかの形で参加あるいは共感しており、自分は正義の側にいると思い
込んでいるふしがあります。安倍政権の戦争法案を阻止することが、日本社会の将来の平和にとって喫緊の課題であることは
言うまでもありません。しかし、SEALDsに対し貴重な問題提起をした鄭さんを、自分たちが参加あるいは共感する運動にとって
目障りな「敵」とみなして、彼女に打撃を与えることを正義だと信じ込んでいるらしき彼らの発想には、どこか恐ろしいものがある
と私は感じます」という大田英昭さんの重要な指摘はここでも繰り返しておく必要があるでしょう。
しかし、以上の私の指摘について、「vanacoralの日記」の主宰者はただちに反論するでしょう。「この記事で『SEALDsへの誹謗中
傷』と言っているのは鄭さんの批評文のことではない。鄭玹汀陣営の、具体的に言えば浅井秀和という人の主張を指している」、
と。しかし、その浅井秀和さんの「主張」については次のことを言っておかなければなりません。浅井さんは「SEALDsという団体自
体を批判することは、本グループの趣旨とは無関係」「本グループの趣旨に反する言動を行う方についても、グループから退会
していただくことがあります」(「『社会運動上の人権侵害を許さない』管理者一同からのお知らせ」2015年8月22日)と言う理由で
すでに同会を退会しています(メンバー一覧にはすでに名前がありません)。その「社会運動上の人権侵害を許さない」グループ
からすでに批判され、退会している投稿者の記事をことさらにとりあげて同グループを批判するのはフェアな態度とは言えませ
んし、見当外れということにしかなりません。浅井さんの「主張」をもって同グループの主張ということはできないからです。これは
一般的に言えることですが、さまざまな人が合流すれば個人、個人の考え方はそれぞれですから、ものごとの本質をわきまえな
いで自分勝手なことを言いだす人が出てくるのはどういう団体の場合にもよく見られる現象です(それは例えばSEALDsという団体
についても同じことが言えるでしょう)。すでに当該団体から批判され退会を余儀なくされている人をダシにして当該団体を批判し
ても、もちろん、そういう批判は批判の名に値するものとはいえません。
一昨日、この件に関連する記事として「再び野間易通氏(社会運動家)らの執拗な鄭玹汀さん(社会運動上の人権侵害を許さな
い会)バッシングについて」という記事をアップしたところある読者から「単なる非難合戦になっていないか?」という論評がありま
した。その論評に私は以下のように応えておきました。上記で私が述べたこととも関連しますので以下に私のその応答を再掲し
ておきます。
「なにを指して「単なる非難合戦」とおっしゃっておられるのかわかりませんが、鄭玹汀さんが自身のfacebook上にシー
ルズの声明文に見られるナショナリスティックな思想の側面について問題点を指摘する批評文を掲載したことに対する
野間易通氏らの一方的なバッシングについて鄭玹汀さん及び大田英昭さんがその行為を反批判する論評をしたことに
ついて「非難合戦」の端緒と見ておられるのであれば、その認識は正しくないように思います。鄭玹汀さん及び大田英
昭さんの反批判は野間氏らのバッシングの不当性を説得的に明らかにする妥当なもので「非難合戦」と呼ばれる筋の
ものではない、というのが私の評価です。「非難合戦」の「合戦」という言い方は第三者的視点で、「理非を問わず、双方
を均しく見る」という点で一見中立的な視点のように見えなくはありませんが、理非の曲直を明らかにしない論評は論評
に値しないというのが西欧における近代以降の一般的なクリティーク、批評精神というものの考え方です。理非の曲直
を正しく見ていただきたいと思います。さまざまな人が合流すれば個人、個人の考え方かはそれぞれですからものごと
の本質をわきまえないで自分勝手なことを言いだす人が出てくるのはどういう場合にもよく見られる現象です。しかし、
ここでのものごとの本質は、上記にあげた鄭玹汀さん及び大田英昭さんの反批判の内容にあると私は思っています。
ことの「理非の曲直」を考えた場合、「 単なる非難合戦」という論評は正しいことか、というのが私の問題視点です。」
同記事で次に問題なのはその記事の冒頭部分にあります。同記事は冒頭で「そもそもの話の流れとして」として「(1)6月18日:韓
国人研究者の鄭玹汀氏が、SEALDsに対し、歴史認識に関して「無知と無自覚」と批判」と「(2)以降、野間易通氏らが「誤読」と鄭
氏を批判」を同等の「批判」のように並列してあげていますが、その認識自体がそもそも誤りというべきです。vanacoralさんのあげ
る(2)は「鄭玹汀の間抜けなSEALDs批判への反批判一覧」と題されているものですが、その標題自体から明らかなように鄭さんを
頭ごなしに「間抜け」と貶めており、こうしたハナから人を罵倒し、誹謗中傷することが目的であることが明らかな怪文書のたぐい
のものを「批判」などと鄭さんの批評文と同列視することは不適切です。アンフェアな精神がなせる業というほかないものです。繰
り返しになりますが、鄭さんの問題提起は「社会運動上の人権侵害を許さない」グループの共同管理者のひとりである大田英昭
さんの指摘にあるように「その内容は、日本の戦争責任問題や歴史認識問題についてSEALDsの声明文の姿勢を問い、そこに垣
間見られる若い世代のナショナリズムについて警鐘を鳴らしたもの」であり、「日本の社会運動に対し、外国人の視点からその問
題点を客観的に指摘した、きわめて妥当な内容の批評」です。「バカ」だとか「まぬけ」だとか「蒙昧」などと罵られ誹謗中傷される
筋のものではありません。
同記事は基本的に上記の2つの問題に尽きているのですが、非常に長く見えるのは(実際に長いのですが)第1の問題(意図的
な「SEALDsへの誹謗中傷」の主体の取り違え)を大きい写真と活字で4度も5度も繰り返しているからにほかなりません。vanacor
alさんは同記事の最後でこの問題を「全て丸く治めるには、 鄭氏の方でSEALDsの歴史認識に関する誤認を改めるより他にあり
ません」と言うのですが、鄭さんのこの問題の発端となった最初の批評文での指摘は「SEALDsの歴史認識に関する誤認」などで
はありません。何度も繰り返しますが、「日本の社会運動に対し、外国人の視点からその問題点を客観的に指摘した、きわめて
妥当な内容の批評」です。その鄭さんの指摘を読みとれないのはvanacoralさん自身に「近代の日本は、国家の不安感情を「国
民」もまた内面化して同調し、戦争への道を選択した」(小倉利丸ブログ 2015-8-16)ことについての歴史的な知識、「この社会
は頼まれもしないのに、権力的な抑圧とか強制があるわけでもないのに、おのずとファッショ化していくのです。メディアも市民運
動もそこに巻き込まれてゆく。全体として震災ファッショのような状況があるわけで、しかもそれらは主観的な善意によって構成
されてゆく」(辺見庸「週刊金曜日」2012年1月13日号)ことについての歴史的な知識が欠如しているからにほかなりません。自身
の歴史認識に関する知識の狭量と浅薄を自覚せずにただ「仲間意識」だけでそのほかの他者を見当違いに批判する。そうした
姿勢を一般的に反知性主義というのです。「歴史認識に関する誤認を改める」のは鄭さんの側ではなく、「vanacoralの日記」主
宰者の側にあることは明らかというべきでしょう。
東本高志@大分
higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
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