[CML 034405] ものを見る「まなざし」の問題について ――辺見庸「日録」の言葉と澤藤統一郎さんの「憲法日記」の言葉と内藤正典さんの「Twitter発言」の言葉に関して

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2014年 10月 10日 (金) 18:58:56 JST


はじめに韓国の検察の産経記者起訴問題に関しての辺見庸(作家)と澤藤統一郎さん(弁護士)の「クリティーク(批評)」に関し
ての私の若干の感想。

私のここでの感想の対象の言葉は辺見庸(作家)と澤藤統一郎さん(弁護士)の以下の言葉。辺見庸も澤藤統一郎さんも内容
的にはほぼ同じことを言っています。にもかかわらず、私は、辺見庸の言葉の側を支持します。それはひとことで言えば澤藤弁
護士には失礼ながら、言葉の「深さ」の違い、あるいは「まなざし」の違いということになるでしょうか。辺見庸(作家。元共同通信
記者)の言葉にはこの国のジャーナリズムに対する激しい憤りの思いを私として感受することができるのですが、澤藤弁護士の
言葉はスマートすぎてそうした激しい思いを感受することができないのです。その違いはどこから来るか。おそらく私は「苦労」の
違いだろうと思っています。「苦労」とは幼稚で雑な言葉ですが、ここでは私は「思想上の苦労」という程度の意味で遣っています。
澤藤さんの言葉はスマートですが、辺見の言葉は彼のヘソ曲がりということも含めておおいにねじれています。一筋縄ではいき
ません。そこに私は辺見の「苦労」のようなものを感じるのです。辺見は共同通信の記者をやめた後、いっとき山谷で働いてい
ました。そのときお連れ合いとも別れています。そんなこんな・・・・。

余話として次のことも書いておこうと思います。辺見の「日録」2014年9月10日付けに「昨日悲しいことがあった」という記載が
あります。それから辺見は「日録」上では26日間にわたって沈黙を続けていました。この「悲しいこと」とはわかれたお連れ合い
の死ではなかったか、と私はひそかに思ってきました。しかし、まったく当たっていないかもしれません。そうであれば、私は、人
の生死を想像で述べたことについて深く陳謝しなければなりません。それでも記しておきたかったことです。私の直観として。お
詫びはいくらでもするつもりです。

以下、省略。全文は下記をご参照ください。
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東本高志@大分
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