[CML 030449] 「格差犯罪」ということについて ――「黒子のバスケ」初公判被告人冒頭意見陳述に見る「時代の病(「落ちこぼれた」痛み)」としての犯罪

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2014年 3月 25日 (火) 17:12:33 JST


            民族の興隆期にあっては個人が民族精神から分離するということはない。民族の反省期において初めて
            両者は分離するのである。従ってどの個人も民族の子であり、その国家が発展途上にある限り、時代の
            子である、と言われるのである。(ヘーゲル『歴史における理性』)

雑誌『創』編集長の篠田博之さんが「黒子のバスケ」脅迫事件初公判における被告人の冒頭意見陳述の全文を公開していま
す。篠田さんは被告人から、逮捕前、コンビニエンスストアや報道機関に脅迫状と声明文を送ったが、マスコミがこの事件を
取り上げなかった場合公表してほしい、と文書(手紙)で求められていたといいます。篠田さんが他のジャーナリストに先駆け
てこの事件について積極的に発言しているのは被告人との間にそういう因縁のようなものがあったということもあるのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B1%E8%84%85%E8%BF%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

篠田さんが被告人の冒頭意見陳述の全文を公開するに到った経緯はそのくらいにして、「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人
の冒頭意見陳述とはどういうものか? 陳述書を読んでみました。その冒頭の数行の文章を読んでみただけでも被告人の自
己分析力の確かさがわかりました。並大抵の確かさではありません。ものごとの本質を正確に射抜く確かさと言ってよいと思
います。

しかし、次のようにも思いました。被告人の自己分析力はたしかに優れている。しかし、本来、そうした自己分析力の「確かさ」
は現代ニッポン人の多くがもともと所有していたのではないか? 現代ニッポンの多くの大人たちは、「おれが、おれが」という
戦後的(高度成長期的)な自己本位の思想(マイホーム主義)にいつのまにか心身とも浸食されてしまい、防衛機制としての
「反動形成」の強迫に抑圧されておのれの本質を見つめる目を見失ってしまった。現代のニッポン人の総体(多く)がそうした
「時代の病」に犯されている。だから、私たちは、「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人の自己分析力の確かさに識閾のあわい
の虚を衝かれて一瞬たじろぐ。そいういうことではないのか。

被告人は陳述の冒頭で事件の動機について次のように述べています。

      「動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていまし
      た。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思
      っていました。(略)人生の駄目さに苦しみ挽回する見込みのない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺し
      ようとしていたというのが、適切な説明かと思います。」

      「自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと『10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて
      来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる
      成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた』ということになります。これで
      間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです」。

上記はおのれをよく認識している者のみができる陳述というべきものです。ここまでおのれを客観的かつ冷静に認識できる
者がなにゆえに脅迫事件などという短絡的で陳腐なおぞましいだけの事件を惹起してしまったのか。それゆえの無惨さが
胸に満ちる思いがします。

被告人はまた、次のようにも述べています。

      「自分が『手に入れたくて手に入れられなかったもの』を全て持っている『黒子のバスケ』の作者の藤巻忠俊氏の
      ことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと
      思ってしまったのです。自分はこの事件の犯罪類型を『人生格差犯罪』と命名していました。」

      「いわゆる『負け組』に属する人間が、成功者に対する妬みを動機に犯罪に走るという類型の事件は、ひょっとし
      たら今後の日本で頻発するかもしれません。グローバル経済体制の拡大により、一億総中流の意識が崩壊し、
      国民の間の格差が明確化して久しい昨今です。」

自己を合理化する手段として「人生格差」という言葉が用いられている側面はむろんあるでしょう。しかし、格差社会は、本
来、「理知」であったはずの者をここまで追いつめてしまうのか。ここまで狂わせてしまうのか。先ほどは「時代の病」という
ことを言いました。が、抽象的にすぎました。「政治の病」というべきでしょう。それも、私たちの選んだ「政治」の(自民党政
治だけでなく、民主党政治も含みます。民主党政治もまた、自民党政治のカーボン政治でしかありませんでした)。この事
件も藤原新也さんのいう「組織化されない”ばらけた”小さな2.26事件」の一態様と見てよいでしょう。いま、なにが起こっ
ているのか。「なにかが起こっ」ている(ジョセフ・ヘラー)。私たちは「超特急列車のもの言わぬ乗客になってはならない」の
だということを改めて思います。
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-814.html

以下、続き及び渡辺被告の冒頭意見陳述(すでに坂井貴司さんがご紹介されています)の全文は下記をご参照ください。

■「格差犯罪」ということについて ――「黒子のバスケ」初公判被告人冒頭意見陳述に見る「時代の病(「落ちこぼれた」痛
み)」としての犯罪(弊ブログ2014.03.25)
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-821.html



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