[CML 032225] 本日の68歳の男性の絞首刑死について ――アムネスティの「死刑執行に対する抗議声明」と辺見庸の「日録23」(2014/06/26)

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2014年 6月 26日 (木) 22:05:51 JST


今朝方のyahoo!ニュースで安倍政権で9人目という1人の人の死刑が執行されたことを知りました。

今日の昼版の毎日新聞ニュースメールでその死刑を執行された人の名前が大阪拘置所に収容されていた川崎政則さんである
ことを知りました。享年68歳だったといいいます。

夕方、アムネスティのメール(アップデート)で川崎政則さんの死刑執行を改めて確認しました。アムネスティ・インターナショナル
日本は以下のような「死刑執行に対する抗議声明」を発表しています。

      ………………………………………………………………………………
      アムネスティ・インターナショナル日本は、本日、大阪拘置所の川崎政則さんに死刑が執行されたことに対して強く抗議
      する。安倍政権は昨年、4回の死刑執行で8人を処刑し、これまでに9人の命を奪ったことになる。谷垣法相の就任から
      1年半が経過し、死刑をめぐる情報の公開や全社会的な議論にまったく改善がみられないまま、執行が続けられてきた。
      現政権のもとで恒常的に行われる死刑執行は、再三にわたり死刑廃止への真摯な努力を求める国際社会の要請に、
      真っ向から反するものである。
      ………………………………………………………………………………

「声明」の全文は下記サイトでご覧ください
http://www.amnesty.or.jp/news/2014/0626_4693.html

夜、辺見庸のブログの頁を見てみました。辺見は川崎政則さんの死刑執行について次のように書いていました。

      ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
      国家とはなんだろうか、国家とは。国家とはひとつの、神をでっちあげるような幻想(妄想)の産物であり、幻想の結果と      
      しての、まぎれもない災いである。それ以外ではない。国家幻想は、戦争をやむをえないものと正当化し、戦争へとひと
      びとを駆りたてる。ニッポンの国家幻想はまた、死刑を正当化し、生身の人間の首に縄をかけ、絞首刑にして殺すこと
      の罪をためらいもなく無化する。殺す者も殺される者も生身の人間なのだが、死刑の執行は、まるで役所の道路清掃
      作業のようにかえりみられない。今朝、68歳の男性を、谷垣法相の命を受けて、絞首刑にして殺した大阪拘置所の担
      当刑務官数人は、おそらくそれぞれ現金で殺人にはとうていみあわない特別手当をもらい、今夜は、家族には内緒で、
      ジャンジャン横丁か鶴橋、京橋、新世界、飛田新地あたりで、浴びるほど酒を飲むことだろう。つらかろう。死刑囚の最
      期の絶叫、滑車のまわる音、ロープのしなる音、頸骨が破砕される音、つけ根まで飛びでる舌、眼球、絶命しかけたひ            
      との空中回転、血しぶき、失禁のにおい……を忘れるために。忘れようとしていっかな忘れえない記憶と消そうとしても
      胸に浮沈する罪の意識を散らしつくすために。

            「この男は、べつに死にかけているわけでもなんでもない。われわれと全く同じように生きてピンピンしている
            のだ。彼のからだのすべての器官は、ちゃんと働いている――腸は食物を消化し、皮膚は新陳代謝を繰り返
            し、爪はのび、組織は形成され続ける、というふうに、――すべてが、滑稽なほど厳粛に、そのいとなみを続け
            ているのだ。彼の爪は、彼が絞首台の踏み板の上に立ったときも、十分の一秒間だけ生命を保ちながら空
            中を落下していく、その瞬間にも、相変わらずのび続けるであろう。・・・彼の脳は、依然として、記憶し、予想し、
            思考し――推理しているのだ。彼とわれわれとは、いっしょに歩きながら、同じ世界を見、聞き、感じ、理解し
            ている仲間なのだ。ところが、二分後には、突然、ガタンという音とともに、この仲間のひとりが消え去ってしま
            う――心がひとつ減り、世界がひとつ消滅するのだ」(ジョージ・オーウェル「絞首刑」高畠文夫訳)。

      そのまさに「生命の絶頂を、突然、断ち切ってしまわなければならない不可解さと、そのいうにいわれぬ邪悪さとに、はっ
      と気がついたのだ」と、一九二〇年代にビルマに暮らしたオーウェルは、死刑囚を観察しつつ自他を厳密に描写した。
      オーウェルは絞首刑にいたる男の罪には一顧だにしていない。絞首台に立たされた男の身体各器官とじぶんのそれら
      を同等のものとして感じ、極刑そのものの不条理と邪悪さに全感覚を集中してゆく。死刑囚を「仲間」と言い、

            「仲間のひとりが消え去ってしまう――心がひとつ減り、世界がひとつ消滅する」

      と書く。こう言えることと、こう言うことがあざ笑われ、歯牙にもかけられない世界のあいだには深い虚無の峡谷がある。
      ということは『いま語りえぬことのために――死刑と新しいファシズム』のなかでもう書いた。しかたがない。なんどもくりか
      えし、死刑に反対するしかない。災いを結果する幻想でしかない国家にとって、せいぜいできる善きこととは、死刑の永
      久停止、死刑制度の廃絶くらいしかない。けふの死刑執行の報せは、電話で病院の検査予約をとりつつあるときに、ふ
      と聞いた。ひどいものだ。数年来、おりおり胸をかすめていたイメージを、またおもう。カマイタチのような、瞬時の、みえ
      ない傷。衝迫。〈おい、国家よ、どうだ、こんどはおれを刑場にひきたてて、身代わり絞首刑ってのをやってくれないか。
      おれにはそうされる用意がすでにある〉……。おれの内面は死刑囚たちのそれより万倍も(死に値するほど)邪悪なの
      だから。いまの政権を蛇蝎のように嫌悪し、おまえらがしきるクソのようなこの世に生きることに、もうほとほとうんざりし
      ているのだから。どうだ、安倍よ、谷垣よ、次の「昭和の日」あたりに、おれを公開処刑にしてくれないか?ただし、刑務
      官たちを煩わせるのではなく、安倍よ、谷垣よ、おまえたちファシストが、手ずからおれの絞首刑執行にあたれ。おれは
      おまえたちの顔におれさまの血反吐をぶっかけてやる。これは冗談ではない。(「日録23」2014/06/26)
      http://yo-hemmi.net/article/400336515.html
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東本高志@大分
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