[CML 032192] IK改憲重要情報(55)

河内 謙策 kenkawauchi at nifty.com
2014年 6月 25日 (水) 13:57:55 JST


IK改憲重要情報(55)[2014年6月25日]



 私たちは、内外の改憲をめぐる動きと9条改憲反対運動についての情報を発信しま
す。(この情報を重複して受け取られた方は失礼をお許しください。転載・転送は自
由です。)

   

弁護士 市川守弘、弁護士 河内謙策



連絡先:〒170-0005東京都豊島区南大塚3-4-4-203 河内謙策法律事務所

(電話03-6914-3844,FAX03-6914-3884)



 弁護士アピールを支持する市民の会

 http://2010ken.la.coocan.jp/kaiken-soshi/

__________________



(私(河内)は、「IK改憲重要情報(52)」において、移民・外国人労働者の大
量受け入れの問題につき見解を明らかにしましたが、その際、自分個人の見解である
のに河内・市川の共通見解のような形で発表してしまいました。市川さまはもちろ
ん、多くの方に迷惑をかけたことを心からお詫びいたします。本日の見解も河内個人
の見解です。御了解くださるようお願いいたします。)





移民・外国人労働者の大量受け入れに     ついての見解の補充(1)



 私は、移民・外国人労働者の大量受け入れ問題につき「IK改憲重要情報(5
2)」で見解を表明しましたが、多くの方から疑問・批判をいただきました。多くの
方の疑問・批判は、私の説明の不十分さに起因するものも多いと思いますので、以下
のとおり、説明を補充させていただきます。



 まず、私の立場を再度要約します。私は、大量移民や大量外国人労働者の受け入れ
は、労働者の労働条件切り下げ、失業の増大につながること、また、大量移民や大量
外国人労働者の受け入れは、日本社会の一体性と伝統の破壊につながるので反対で
す。



 日本社会の一体性と伝統の破壊の問題を考えるうえで、私が民族の問題を持ち出し
たことに懸念を示された方もいました。たしかに民族の定義は難しい問題ですし、民
族という言葉で誤った煽動がなされた歴史があることは承知しているつもりです。し
かし、たとえばチベット問題で、チベットの民衆にとっては、民族問題が死活の問題
であることは明らかです。つまり、「民族」という言葉で表現するしかない現実があ
る以上、民族という言葉を使うしかない局面では、民族という言葉で思考し表現する
しかないと思うのです。



 「中華」民族の国民性を私が問題にしたことに対して、疑問・批判を表明された方
がいました。



 私の手元にある「中華」民族の国民性を論じた人々の言を引用してみます。(「国
民性」と「民族性」、「民族的特質」は同義だと思います。)最近の論は、容易に手
に入ると思いますので、やや古いものを引用します。



 18世紀、ヨーロッパがアジアを問題にしはじめました。そのとき、フランスの大啓
蒙家・モンテスキューは、「スペイン人の正直はあらゆる時代において有名であっ
た。(中略)シナ人の性格はこれとは別の混合物を形成しており、スペイン人の性格
と対照をなしている。彼らの不安定な生活は、かれらに驚くべき活動力と極端な利得
欲をもたしめ、そのためいかなる商業国民もかれらを信用できぬほどだ」と述べてい
ます(「法の精神」河出書房新社版261頁)。



 アメリカ人宣教師アーサー・エチ・スミスは中国で伝道に従事し、1890年に「支那
人気質」を出版しました。この本は、中国で生活した西洋人が中国人の民族性を論じ
たハシリであるといわれ、世界的な規模で影響をあたえました。明治29年の渋江保訳
が、国会図書館でデジタルで保存されています。

 スミスは、中国人の民族性を「面子」「倹約」「勤勉」等26章を立てて分析してい
ますが、「信實の欠乏」の章では、「勿論支那人を執らへて悉く虚言者なりと証する
は出来得べきことにあらず。吾人また及ぶべくんば斯く証せざらんと希望する者な
り。されど概して支那人が虚言者たるとは、いやしくも彼らがその良心の喚起せらる
るときに、自白自証するところなり。」(邦訳379頁)、 

「支那人には、約束を固く守るだけに良心の十分発達したるもの甚だ少なし。この気
質は誤解の才及び時間を頓着せざることの二つと連絡を有す」(邦訳383頁)、

「吾人は決して支那において正直の行為を見ること能はずとは言はず。然れども有り
體に言へば、吾人の注意観察の行き届く限りにおいて、かかる行為を見ること能わ
ず。」(邦訳385頁)

と述べています。



 桑原じつ蔵は、日本の東洋史学の草分け

です。彼は、中国人の国民性について研究し「支那人の文弱と保守」「支那人の妥協
性と猜疑心」の論文を書いています。その彼が梁啓超(清末の政治家、ジャーナリス
ト、歴史学者。日本にも亡命したことのある大物)の言のコメントとして次のように
言っています。

「民国の梁啓超は、好偽を挙げて支那人の

一大特質と公言している。彼は如何なる人たるを問はず、如何なる事たるを問はず、
如何なる所たるを問はず、如何なる時たるを問わず、支那人の言ふ所、行ふ所は皆偽
の一字を出でずとさへ極言して居る。勿論かくのごときは極言にすぐるとしても、支
那人の言行に偽りの多い事実だけは承認せねばならぬ。」(桑原じつ蔵全集第1巻93
頁)



 魯迅といえば有名な中国の左翼文学者です。その彼のすごいところは、国家権力や
体制が悪くて人民は被害者だという図式をのりこえ(とはいっても、その図式を否定
しているのではないのです)、中国人の国民性を徹底的にあばきだしているところで
す。

 彼は、「愚弱な国民は、たとい体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいく
だらぬ見せしめの材料とその見物人になるだけだ。病気したり死んだりする人間がた
とい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果
たすべき任務はかれらの精神を改造することだ」(岩波文庫「阿Q正伝・狂人日記」
9頁)と言い切るのです。

 彼は、また「中国の国民性の堕落は、私の考えでは、家を大事にするからではな
い。

彼らは「家」のためなど考えてはいない。最大の病源は、目先のことしか考えないこ
と、それから「卑怯」と「貪欲」とです。だが、これは、長い間につちかわれたもの
なので、急に除くわけにはいきません。これらの病源をつく仕事は、なすべきことが
あるかぎり、私は今でも手を引く考えはありません」とも述べています(竹内好・松
枝茂夫訳「両地書」筑摩書房、36頁)。



 日本の民衆運動の一部には、民族の国民性を論じることは、そもそもいけないかの
ような風潮がありますが、その論法でいけば、上記のモンテスキューらは、すべて右
翼ということになってしまいます。そんな馬鹿なことはありません。問題は、国民性
の事実の分析の上に立ってどう行動するかと言うことであって、事実と向き合うこと
を忌避することではないと思います。

 もちろん、「中華」民族は漢詩などにみられるようにすぐれた文学を生み出し、孔
子等のすぐれた思想家を生み出した民族です。しかし、「中華民族」の特質は上記の
ように大きな問題をかかえており、それゆえ、移民・外国人労働者の問題を考えるう
えでは、中華民族の国民性の問題を避けて通るわけにはいかないのです。

 なお、私の見解を「特定の民族とは共存できない」という考え方だと要約されてい
る方もいますが、私が反対しているのは、「中華」民族を大量に日本列島に移住させ
ることに反対しているのです。日本列島にいる「中華民族」とどうつきあっていくか
という問題とは別です。念のため。



(「IK改憲重要情報(56)」に続きます。)

__________________

               以上







CML メーリングリストの案内