[CML 031898] 今日の言葉~抜録~(2014/05/29~2014/06/10)

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2014年 6月 11日 (水) 16:07:00 JST


弊ブログの「今日の言葉」の2014年5月29日から同年6月10日にかけての記録です。
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-900.html

・弁護士ドットコムのこの見出しが刺激的でした。「憲法がハイジャックされている」 
 (略)その表現のとおりです、まさに憲法が理不尽
にも政府国家権力によって踏みにじられ、ハイジャックされようとしているのです。憲法改正という手続きを経ることなく、解釈の変更
ということで憲法の原理を変えることができるのであれば憲法がないのと全く同じだということであり、常識レベルでもわかりそうなも
のです。しかし、安倍自民党政権には常識はありません。安倍氏は自分こそが憲法なのですから。憲法学者によって結成された「国
民安保法制懇」は、現行憲法に関しても色々な考え方の方が集まっています。それを象徴しているのが元内閣法制局長官の阪田氏
の説明です。「我々は反戦運動をしてきたわけでない。護憲の運動をしてきたわけでもない。集団的自衛権の行使の是非について、
必ずしも意見が一致しているわけでもない。現在の政府の憲法9条の解釈についても、メンバー全員が『これが是である』と言ってい
るわけではなくて、批判をしている方もいる。しかし、一政権の手で、現在の解釈を変更すること、それを許すということは文字通り、
立憲主義の否定だ。法治国家の根幹を揺るがすものであるという危機感と怒りのようなものを覚えている点で共通している」(弁護
士 猪野 亨のブログ 2014/05/29)

・一般の生活で通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対
象であったものは、どれもただ心がそれによって動かされる限りでよいとか悪いとか言えるのだと知ったとき、私はついに決心した、
われわれのあずかりうる真の善で、他のすべてを捨ててもただそれだけあれば心が刺激されるような何かが存在しないかどうか、い
やむしろ、それが見つかって手に入れば絶え間のない最高の喜びを永遠に享受できるような、何かそういうものは存在しないかどう
か探求してみようと。<スピノザ『知性改造論』>引用者注:思想はそこに表現されている見かけの言葉だけで判断するのは危うい。
むろん、その言葉が紡ぎだされるまでには深い思索の跡があるからである。スピノザは神学者でありながら他のキリスト教神学者か
らは無神論者として攻撃された。スピノザはデカルトに大きな影響を受けた。そして、そのスピノザの思想はやがてヘーゲルに影響を
与え、現代ではドゥルーズがスピノザの思想に存在論的な新しさを見出した。(Don't 
 LetMe Down 2014-05-29」)

・出来事の連鎖に必然の様相を帯びさせる最後の審判の視点そのものが、究極的には、偶然の選択の所産である。(略)ある社会
に内属する者として、歴史を振り返るとき、われわれは、その社会の基本構造を規定する規範や枠組みを受け入れてしまっている。
言い換えれば、最後の審判の視点は、この場合、支配的な体制の視点と合致するほかない。それゆえ、過去の中の「存在していた
かもしれない可能性」を救済するということは、現在の体制そのものを変換することを、つまり革命を意味しているのだ。革命は、未
来を開くだけではなく、過去を救済するのである。逆に、こうも言える。「もし敵が勝てば、死者でさえも安全ではない」(ベンヤミン“歴
史哲学テーゼ此鼻法今、歴史の中で、輝かしい勝者や英雄として登録されていた死者も、革命の結果によっては、無視される敗者
の方へ、遺棄されるクズの方へと配置換えになるかもしれないからだ。死者が、もう一度死ぬこともあるのだ。<大澤真幸『量子の
社会哲学』(講談社2010)>(Don't Let Me Down 2014-05-30)

・いまぼくは、無料塾で中学2年の数学を教えている。(略)ぼくは大卒だけど、家庭教師の経験がない。だから、教え方に関しては
ド素人である。(略)ぼくは中学までの数学というのは、積み重ねだと思っている。わからなくなっているとすれば、そのわからなくな
っている部分を見つけて、わからなくなっている部分まで戻って、積み直せばよい。そうすることで、大半の生徒は平均的な理解に
達することができる──これがぼくの信念である。しかし現状は悲惨だ。大方の生徒は、自分がどこでつまずいているかもわからずに、
次々と新しい課題や理解要求が積み増しされていく。途方に暮れる。自分がどこにつまずいているのか言えなければ教師のアドバ
イスは的確なものにはならない。失跡と屈辱だけが積み重なる。授業時間は苦行でしかなく、面白いわけがない。ていねいにこの混
迷をほどく作業を誰もしないのである。そのわからない苦痛地獄を過ごす時間の想像。何という恐ろしい時間が積み重ねられている
ことだろうか。(紙屋研究所「偶数と偶数の和は偶数であることの説明」2014-05-31) 


・天使ダミエルは、人間になろうとする。それは、天使たることの放棄であり、有限で一回的な世界に生きることである。人間になると
は、彼にとって、他者(女)を愛することである。そのとたんに、彼は前方が見えない世界のなかで生きはじめる。それは「暗闇のなか
での跳躍」である。天使たることとは、何たる隔たりであろう。にもかかわらず、天使たちは、人間になることを欲する。それは、「外
部」を欲するということである。「形式的 」であることは、べつに特権的な事柄ではない。それはハイテク時代において、われわれの
ほとんど日常的といってよいような生の条件である。われわれは、そこでありとあらゆるものを「知覚」したり「経験」した気になってい
るだけで、実は天使と同じくモノクロームの世界、すなわち自己同一性の世界に閉じこめられているのである。私たちは、ブラウン管
を通して血まみれの死体を見慣れているが、実際に血の色を見たことがないのだ。<柄谷行人『内省と遡行』―“学術文庫版へのあ
とがき”>(Don't Let Me Down 2014-06-01)

・ロート(1935年)「19世紀になって人びとは個人が市民として認められたいのなら特定の国あるいは民族に属さなければならないこと
を発見した。オーストリアの劇作家グリルパルツァーは『ヒューマニズムは民族主義を経るうちに野蛮化』するしだいを説いたが、おり
しも当時、民族主義がわが世の春を謳歌していた。今日、猛威をふるっている野蛮化の先ぶれを演じていた。それは一般に愛国心
といわれるもので、新時代の卑しい階層が、みずからに応じて生みだした卑しい感情のたまものである」「敗戦の憂き目をみたヨーロ
ッパの首都にあって、死体を食らって大きくなり、それでもいっこうに食い足りず過去をしゃぶり、現在の汁を吸って、高らかに未来を
謳歌している。この手の連中が戦後このかた、肩で風切ってのしあるいている」(「皇帝の胸像」)。ファシズムの妖気。装いをかえて
反復する歴史。這いよってくる戦争の熱風。(辺見庸「日録19」2014/06/02)

・堀田善衛の本が好きでよく読む。次は、『UP』東大出版会の宣伝紙に書いた「東大教師が新入生にすすめる本」の記事。相当前で
ある。(略)『美しきものみし人は』この本の原版がでたのは一九六九年一月。私が読んだのは、文庫本になった一九八三年である。
何故でたときに読まなかったのか。金がなかったのか、知らなかったのかはわからないが、一九六九年一月といえば東大では七学
部団交と確認書締結のまさにその時で、私も大学一年の冬、ちょうど母校の国際キリスト教大学で学生運動への参加を周囲から説
得されていた時にあたる。とても、このおもにヨーロッパ絵画を扱った本を読むという雰囲気ではなかったに違いない。もし、これをそ
の時に読んでいたら、もう少し「文化的な」人間になっていたかも知れないと思う。私は、堀田氏がヨーロッパにすみついてしまい、堀
田氏はそんなことをいわれたら大変に不愉快であろうが、美術評論家か、文明評論家のようになってしまったことがたいへんに不満
であった(引用者注:同感!)。しかし、その事情が、これを読んでいると理解できる気もする。堀田氏は、この八月亡くなり、実は、
私は出発前後のあわただしさに取り紛れて、そのことを知らずにベルギーにきてしまったが、偶然、唯一「文化的な」本としてもって
きていて、氏の小説のあちこちを思い出しながら、愉しんで読んでいる。(保立道久の研究雑記 2014年6月2日)

・読売が5月30~6月1日に実施した世論調査(略)記事では「集団的自衛権の行使容認派が7割を超えた」と報じたほか、「邦人輸送
中の米輸送艦の防護」「国際的な機雷掃海活動への参加」の回答は、賛成がそれぞれ75%と74%。行使容認に前向きな読売だけ
に「圧倒的な支持が示された」と強調した。読売と同様、行使容認を支持する社説などが目立つ産経新聞も、FNNとの共同調査の
結果として「7割容認」と伝えた。(略)ただし、どこも読売のような結果が出たわけではない朝日新聞の調査は行使容認に賛成が29
%、反対が55%と慎重論が過半数。東京新聞などが5月19付朝刊で掲載した共同通信 
も賛成39%、 反対48.1%だった。(略)各社
の世論調査結果に違いが出ると、それこそ世論 が 迷走する ことにならないか。(略)数字が独り歩きするような状況をつくってはい
けない。なぜこの数字が出たのか、他の調査と何が違うのか、冷静かつ丁寧に伝えてほしい。(東京新聞「ニュースの追跡」2014年
6月4日より)

・「……われわれを不安にさせることは、全体主義運動が知的エリットや芸術的エリットに疑う余地のない魅力を揮うことである。わ
れわれの時代に重きをなしている人々の驚くべき多数が、全体主義運動の共感者もしくは正式のメンバーであるか、あるいは生涯
の一時期にそうであった前歴を持つかしているということは、彼らの世間知らずとか純真さとかで説明のつくものではない」(『全体
主義の起源』大久保和郎・大島かおり訳)と、アーレントがしごくもっともなことを書いたのは第二次大戦後だ。わたしはひとびとの顔
を見る。ひとつひとつの表情。飽きない。ヒトラーの顔、ヒムラーの顔、ゲッペルスの顔、ヘスの顔、行進者たちの顔、群衆の顔、顔、
顔……。それらはかならずしも、ほとんど、あるいはまったく、「アブノーマル」ではないのである。「アブノーマル」はあと知恵である。
醒めて見れば、それらはフツウである。(略)どこからどう見ても、いかにも小物っぽい。安っぽい。しかし、フツーで小物っぽい男ほ
ど怖いものはない。(略)ともあれ、「第二次世界大戦後のヨーロッパの状況は第一次世界大戦後と本質的には変わっていない」
(アーレント)。恐るべき反復である。(辺見庸「日録20」2014/06/04)

・「それは一九二六年八月二十七日午後四時のことだった。……彼ほど余計な人間はこの世にいなかった」。と、書いたひとがいた。
そのことは、「それは二〇一四年六月五日午後四時のことだった。……彼ほど余計な人間はこの世にいなかった」ということとはまっ
たくちがうことであるだろうに、目眩がするほどおなじことにおもわれるのは、「彼ほど余計な人間はこの世にいなかった」という時空
をこえた言いきりかたに、ストンとじぶんをかさねることができるからだろう。「彼(じぶん)ほど余計な人間はこの世にいない」とかんじ
る以上に本質的な存在感覚はない。無用者の絶望的矜持。探すともなく求めている言葉と情景は、こんりんざいないのではなく、た
ぶん、神さまのような作用によって、じぶんのなかかじぶんの外の、どこかにうまいこと隠されていて、すぐに見つかることもあれば、
死んでさえ出逢えないこともあるのだろう。どうにもいたしかたのないことだ。どんなに熱したにせよ、すべて渙散しないものはない。
消散しつくしたかにみえても、またぞろ集合し爆発的に熱するものもある。これからは後者の反復にちがいない。(辺見庸「日録20」
2014/06/05)

・韓国KBS理事会が、キル・ファニョン社長の解任を決定した。日本に置き換えれば、NHKの経営委員会が、籾井勝人会長の解任
を決議したことに相当する。(略)隣国の公共放送経営体トップが、政権との癒着を指摘されて解任に至ったニュースを、同様の立ち
場で、同様の問題を抱えるNHKがどう報道するか、関心津々たるところ。(略)「韓国の公共放送KBSは、『社長が政府の立場に配
慮して報道内容に不当に介入した』などとして報道局の幹部や記者らが職務を放棄する異例の事態が続いていることから、理事会
が社長の解任を決め、混乱はようやく収拾に向かう見通しとなりました(略)」呆れた報道姿勢と言わねばならない。NHKは、問題を
「混乱」としかとらえられないのだ。だから、社長辞任を「混乱の収拾」としか表現できない。「視聴者を無視してストライキを続けたな
どとしてKBS全体に厳しい目が向けられており」と根拠を挙げずに労組を誹謗し、「(KBS全体の)信頼回復には時間がかかりそうで
す」と、世論を「混乱への批判者」と決めつけて結んでいる。傍観者を決めこみ、ジャーナリズムの政治権力からの独立を重視する
観点を意識的に否定した姿勢とも言えよう。これでは、「NHKに向けられた厳しい良識の目からの批判は避けられず」「国民からの
信頼回復には時間がかかりそうです。」と言わざるを得ない。(澤藤統一郎の憲法日記 
 2014年6月6日)

・これはあまりにも乱暴ではないか。集団的自衛権の行使を認める閣議決定を今国会中にする。そのための公明党との協議を急
ぐように――。安倍首相が自民党幹部にこう指示した。会期末は22日。首相は、延長は考えていないと言っている。政府の憲法解
釈の変更によって集団的自衛権を認めることはそもそも、法治国家が当然踏むべき憲法上の手続きをないがしろにするものだ。
それを、たった2週間のうちに行うのだという。認めるわけにはいかない。首相の指示を受けて自民党は、行使容認に難色を示す
公明党との協議を強引に押し切ろうとしている。(略)自民党は、10年以上にわたって培われてきた公党間の信義をかなぐり捨て
てでも、強行するというのだろうか。 公明党は、それでも与党であり続けることを優先し、渋面を浮かべながらも受け入れるのだろ
うか。(略)与党間の信義という内輪の問題にとどまらない。国民に対してもまた不誠実な態度だ。(「集団的自衛権―乱暴極まる
首相の指示」朝日新聞社説 2014年6月8日)

・「戦間期」ということをぼんやりとかんがえていた。(略)死というのも、切れ目としての「瞬間」ではなく、生からとろとろと流れくる消
失までの時間の幅にあるのだろう(引用者注:「日録20」6月6日付参照)。ひとつの紙片に似たそのひとのペラペラした手の甲に触
れながら、わたしはそうおもう。戦間期(interwar period)はどちらかというと欧州史的概念だろう。年表的には、1919年から1939年
までの時代。にしても、戦間期とはなんという言葉だろうか。敷衍すれば、ひとは戦前か戦中か戦後か戦間期にしか生きていない
ことになる。なんということか。いまは新・戦間期か新・戦前か新・戦中か……といぶかる。(略)母は身じろぎもしない。とつぜん、
「『何も約束するな!』とパラノヴィッチは言った。これが別れだった」のくだりをおもいだす。欧州の戦間期にはすべてを胚胎し、す
べてが肉色の闇で育っていたのだった。日本だってそうだ。見ろ、いまのこのザマを。三本脚の犬は、いつの間にか、窓の外から
室内に入りこみ、朦朧とする母の薄桃色の視界をとぼとぼと歩いていた。(辺見庸「日録20」2014/06/08)

・2週間後の6月23日は沖縄戦慰霊の日である。69年前、6月中旬の2週間に沖縄の住民と兵士たちは、島の南端に追いつめ
られ、米軍の攻撃によって生き地獄を味わっていた。住民にとって敵は米軍だけではなかった。日本兵による住民虐殺、壕追い
出し、食糧強奪も相次いだ。渡辺憲央著『逃げる兵 高射砲は見ていた』(文芸社)には、戦友から聴き取った6月の摩文仁の状
況が記されている。(略)ひとりの婦人が壕の中に迷い込んで来た。(略)間もなく壕の奥で、「兵隊さんが私を殺す。助けてください。
ヤマトの兵隊が……」と女の泣き叫ぶ声が訊えた。その瞬間、女の悲鳴とともにバーンという小銃の発射音が壕内にこだました。
(略)大隊本部の壕で本部指揮班が酒宴を開いていたのは、菊水作戦が実施された日とあるので、4月6日頃のことである。すで
に沖縄島に米軍が上陸し、連日空襲や艦砲射撃を受けているさなかで、(略)将校たちの中には、遊郭の女性や駐屯地域の女性
を愛人、現地妻にしている者もいた。(略)壕の中に迷い込んだ〈婦人〉が殺害されたのは、69年前の6月10日頃のことである。
(目取真俊「海鳴りの島から」2014-06-09)

・(承前)渡辺氏の著作が重要なのは、日本兵の側から見た住民虐殺の実例が示されていることだ。同書には、スパイ容疑で射殺
された学生のことも記されている。(略)「こいつは怪しい。スパイだ」「いいえ」学生は一瞬たじろいだ。(略)「よし、助けてやるから
行け」と中尾がいった。「ありがとうございます」学生が駆け出すようにその場を去ろうとしたとき、その背に中尾の小銃が鳴った。
学生は声もたてずにばったりと倒れた〉。(略)米軍の攻撃に追われて沖縄島南部に追いつめられ、避難した住民と敗走する日本
軍兵士は雑居状態となる。心身ともに追いつめられた日本兵の中には、挙動不審と見なした住民をスパイと決めつけ、虐殺する
者もいた。(略)軍隊にとって住民は守る対象であるより先に、警戒すべき対象となっていたのだ。(略)69年前の壕の惨状は凄ま
じいものだ。〈あたり一面、垂れ流しの糞尿と傷口からこぼれ落ちる蛆の群れで泥沼のようになり、猛烈な臭気が鼻をついた〉という
壕の中で、日本兵たちはのたうち、がなり散らし、泣きわめきながら死んでいった。そこには「軍神」の美談はない。戦場で何が起こ
るのか。集団的自衛権を論じる前に私たちは、このような戦争の記録を読まなければならない。(目取真俊「海鳴りの島から」2014-
06-10 )


東本高志@大分
higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
http://mizukith.blog91.fc2.com/ 



CML メーリングリストの案内