[CML 028901] 映画『永遠のゼロ』について

まっぺん mappen at red-mole.net
2014年 1月 12日 (日) 16:45:53 JST


偽造による批判は批判として無効です。

>まっぺんさんは主人公宮部久蔵が「若者を死なせたくないから自分が特攻する」
>行動が素晴しいと書いたが、この意見は明らかに特攻賞賛です。

「素晴らしいと書いた」→「それは特攻賞賛だ」

私はどこで「素晴らしい」と書いたでしょうか?
相手の意見を自分の意図に沿うようにねじ曲げて別の結論へ誘導する。
大した批評家です。私は以下のように書いたのです。

>この苦悩から逃れるために死んで行こうと決意したからです。
>またそれは自分が志願すれば少なくともひとりは一日だけでも生き延びる
>という選択でもあった。

それとあなたは「マナー違反」を犯しています。
すでに説明済みですが。

>まっぺんさんは主人公宮部久蔵が特攻志願した理由は「若者を死なせたくない
>為」と勝手に思い込んでいますが、それは論理的にありえません。主人公は自分
>は死にたくないから戦闘に参加しない(A)人であり、それが特攻機の護衛
>(B)だと見殺しできず心変わりして死にたくなる、そんな事はあり得ません。

あなたの「論理的にあり得ない」論から言えば、そんな小説は山ほどあります。『ビルマの竪琴』では兵士に合唱を指導する。そんな話もありえません。庶民の誰もがあなたのように(A)の場合、(B)の場合などと「論理的に」生活しているわけではないのです。そもそも「論理的に」言うなら戦闘機乗りの物語は一切否定されるでしょう。それどころか、積極的であれ消極的であれ「戦争に荷担した1億国民」の全てにそれは当てはまるでしょう。ただ空の上か、ジャングルの中か、銃後の日本かその違いだけです。あなたが許容できるのはきっと獄中に囚われた共産党や反戦運動家だけでしょうね。

ついでに。私の論にはあと少し補足がありました。直接関係がないのでやめていましたが、やっぱり書いておきます。

■余談ですが―ナウシカは人殺し
 「作者は右だから排撃する」「左だから受け入れる」という傾向への疑問を宮崎駿作品を使って提示してみたいと思います。まず『風の谷のナウシカ』について。作品全体の博愛主義は疑う余地がありませんが、ドルメキア軍が風の谷に着陸し、制圧していった時です。ナウシカは王城に行き、父王が殺された事を知って逆上し、周囲のドルメキア兵数人を殺します。ドルメキア軍副官のクロトワが「あ〜あ、こんなに殺しちまいやがって」とつぶやく。これはすでに制圧されていた状況ですから防衛のためのやむなき戦闘ではない。怒りに我を忘れて行なった明らかな「復讐」です。だから明らかな「殺意」に基づいている。物語全体からは重要な部分ではないので見逃してもいいような場所ですが、少なくとも「考える材料」にはなりますね。
 もうひとつ、絶対に許し難い表現が『ハウルの動く城』の中にあります。もっとも原作はイギリス人らしいですが、それを映画化したのは宮崎です。この物語もまた戦争が出て来ますが、ハウルの師匠が実は国王を誘導して起こした戦争でした。そしてその戦争は「それじゃそろそろやめましょう」と言ってあっさりとやめることになる。つまりここでの戦争は上流階級の「遊び」でしかないわけです。そのために多くの市民が殺され、家を焼かれる。こんな理不尽なことが平然と描かれる映画のどこがいいのでしょうか。



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