[CML 028874] 映画『永遠のゼロ』についての考察(2)

まっぺん mappen at red-mole.net
2014年 1月 11日 (土) 21:20:06 JST


■映画『ビルマの竪琴』について
 この映画も又、現場・末端の兵士たちの視点で戦争の姿をとらえた作品です。もと
もと小中学生のために書かれた児童文学で二度映画化されています。ビルマ戦線に派
遣された軍のある小隊の話です。この小隊長は学徒出陣組でしょう。戦争末期に学生
の兵役免除が取り消されたため、多くの学生が「幹部候補生」として志願しました。
私の父もそうでしたが、学生は知識と学習能力が優れていると見なされ、幹部候補生
として曹長、少尉くらいの地位にまで短期促成で出世させ、「見習士官」とか「予備
士官」と呼ばれ、現場の指揮官として戦場に投入した。
 この小隊長は音楽学校を出ていて、兵たちに歌を教えます。その中の「羽生の宿」
などがイギリス人にもなじみ深い歌であることから歌を通じて敵味方同士が心を通じ
合わせ、平和的に降伏することができます。やがて捕虜の中の水島上等兵が、異国の
地で死んでいった多数の戦友たちをそのままにして帰れない、遺骨を弔っていかなく
てはならないと思い詰める。そういう物語でした。

■戦友たちの死と生き残った自分
ここに登場するのは「普通の」兵士たちです。命令があれば敵兵(イギリス兵)と戦
う、何の「反戦思想」も持たない普通の兵士です。しかしそんな兵士たちの中で水島
が固めた決意は、実は当時の多くの日本軍兵士の胸に刻まれていた想いだったのでは
ないでしょうか。
多くの戦友たちが死に、そのまま白骨化して山野に散らばっている。しかし自分は生
き残ってしまった。その後ろめたさというか、罪悪感のようなものを当時の人々が背
負っていたのではないでしょうか。私の父がそうでした。古い集合写真を見ながら
「こいつも死んだ、こいつも、こいつも…」とつぶやいている姿は悲しげでした。し
かし、そのように死んでいった仲間を悼む気持ちは、それだけでは何の思想性もあり
ません。仲間の死を悼むあまり、それを「神」としてヤスクニに祀りあげることでそ
れらの「死」に「意味」をもたせるのか、それともその哀悼の気持ちから「不戦の誓
い」を立てるのか。それによって道はわかれます。

■観客によって反戦映画となった
 児童文学『ビルマの竪琴』が発表されたのが1947〜48年。映画化が56年で
す。まだ戦争の記憶が日本中に生々しく残っていた時代です。この映画は作者の側も
「反戦映画」と意識していたし、多くの観客がそのように受け取っていった。だか
ら、戦争についての明確な善悪のメッセージもなく、「戦友の死を悼む」気持ちの先
にあるものを掘りさげていないにもかかわらず、水島上等兵への共感と共に明確に
「反戦映画」として受け入れられ、空前のヒットをしたわけです。「あの映画の中の
水島上等兵は自分だ」。そう思う多くの観客がこの映画を「反戦映画」へと育てて
いったと言えます。
 現代の私たちの目から見れば、不完全なところはいっぱいある映画です。いま述べ
たように「死者を悼む」気持ちの「両義性」をはらむ曖昧さもそうですが、そもそも
他国を侵略し軍靴で踏みにじったのに、自分の国の兵士だけを弔うのはどういうわけ
か。迷惑を被ったビルマ側の事情を何も考慮していないではないか。そういう批判も
今ならできる。日本の侵略戦争に対してアジア諸国の人々が告発を始めている現在か
らみれば、そういう視点の欠落は指摘できます。しかし、50年代当時ではできな
かったのでしょう。それでもこの時代、日本人が反戦の決意を固めてゆく上でこの映
画が大きく貢献した事は否定できません。

■零戦へのオマージュとして
 さて、『永遠のゼロ』です。作者は零戦が大好きなのでしょう。同じ零戦でも21
型、32型、52型などいろいろな型の零戦を地域や年代ごとに塗装を変えて登場さ
せるほどのマニアックぶりです。あるいはレシプロ機へのあこがれでしょうか。それ
なら百田氏だけでなく、宮崎駿にも見られる傾向です。『紅の豚』、『ナウシカ』、
『ラピュタ』、『風立ちぬ』などの作品にもそれが見られます。
零戦は当時の日本の工業技術水準からは考えられないほどの高性能な戦闘機でした。
米国や欧州のどこの航空機よりも速度、運動性能、上昇速度に優れ、航続距離などは
当時の常識の数倍という驚異的な距離を誇るものでした。だからこれに多くの人が魅
かれるのは当然です。しかし、それは戦闘機として作られた。だから戦争と切り離し
て語ることはできません。中国戦線で最初に登場した時から敗戦時の特攻に至るま
で、作者はこの零戦に「宮部久蔵」という、ある意味では「理想のパイロット」を搭
乗させ、それによって零戦への挽歌を捧げたのだ、と思う。

■おじいさんのものがたり
 この物語は、若い姉と弟が特攻で死んだ自分の「本当の祖父」のことを調べ始める
ところから始まります。26歳の青年・佐伯健太郎は祖母が亡くなった日、祖父から
実は血の繋がった本当の祖父がいた、と聞かされる。姉弟は生き残りの祖父の戦友た
ちを探し回って祖父・宮部久蔵のことを尋ねます。ところがどの人もみな久蔵を「腰
ぬけ」「臆病者」「命を惜しむ奴」とさんざんののしる。しかしそれでも何人もの人
に聞いてゆくうちにやがて全く違った意見を持った戦友に出会う。
 宮部は結婚したばかりで出征することになりました。その時妻と固く約束を交わし
た。「私は絶対に生きて帰ってきます。けがをしても、例え死んでも絶対に帰ってく
る」。この約束が彼を無謀な戦闘から避けさせ、そして「臆病者」といわれる事に
なった。しかし久蔵は自分の命だけを惜しんだのではありません。同僚や部下たちに
も「少しでも生き残る可能性があるなら希望を捨てるな」と言い続ける。その久蔵の
言葉に従って困難の中を生き残った祖父の戦友に、健太郎は会うことになります。

■この作品の性格をどう見るか
 私は戦争を扱った映画・小説をいくつかのタイプにわけて論じました。まず物語全
体を俯瞰する位置から戦争についてのメッセージを織り込んでいる作品として、「平
和主義」の立場から『風の谷のナウシカ』、「国家主義」の立場から『坂の上の雲』
を論評しました。次に、こうした高所からの俯瞰もメッセージもなく、現場の兵士の
視点でつづった作品として『野火』と『ビルマの竪琴』を論評しました。この両作品
とも、反戦思想など出てこないし、登場人物もみな命令で敵を殺す「帝国軍隊の兵士
たち」ばかりです。それにもかかわらず、結果としてこれらの作品は戦争に対する嫌
悪感、強い拒否意識を生み出す文学として人々に受け入れられ、またそのような批評
によって、反戦文学となる事になりました。
 では『永遠のゼロ』は上記と比較してどう分類できるでしょうか? 現代と60年
前とを往き来しながら進行してゆくドラマのどこにも全体を俯瞰する位置からの「戦
争美化」のメッセージは出てきません。むしろ宮部久蔵とその周囲のパイロットたち
の現場の視点で綴られた物語と言えるでしょう。その人々がどんなドラマを展開して
ゆくのか。それはどうぞ自分の目で見て、それから考えて欲しいと思います。



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