[CML 028873] 映画『永遠のゼロ』についての考察(1)

まっぺん mappen at red-mole.net
2014年 1月 11日 (土) 21:19:23 JST


■はじめに―批評の自由
 リヒャルト・ワーグナーという音楽家がいます。彼は反ユダヤ主義者でした。彼の
反ユダヤ主義と北欧神話に基づくゲルマン民族主義に彩られた音楽は、ナチスドイツ
に利用された。その結果、戦後成立したイスラエルではワーグナー音楽はタブーとな
りました。そのタブーを1981年にインド人指揮者ズビン・メータが、2001年
にはダニエル・バレンボイムが打ち破った。もちろんその時は賛成派、反対派双方の
激しい応酬がありました。このワーグナーの音楽をどう思いますか?
 音楽、文学、そして芸術一般をどう解釈するか。これは難しい問題です。いろいろ
な批評が有りうる。しかし「批評の自由」が前提となって初めて、豊かな理解や批判
が生み出される。そうでなければスターリン主義によって「社会主義リアリズム」に
画一されたソ連芸術や「頽廃芸術展」によってナチスに規制を受けたドイツ芸術のよ
うな事になってしまうでしょう。この事をまず確認しておきたいと思います。

■作家と作品の関係について
 文学作品を読むとき、映画を観るとき、そこに何を読み取るべきなのでしょうか?
 作家をまず見て、その人の思想調査をし、しかる後に作品を「その作家の思想の発
現」として理解するべきなのでしょうか? 私はまったくそうは思いません。作家が
自分の作品にどの程度「自分の思想を盛り込むか」は未知数です。
 作品は「作家の私有物」でもありません。例えばそれが「論文」なら「作者の思想
の反映」であり「作者の私有物」といっていい。しかし「文学」という虚構の芸術な
のであってみれば、そこにはいくつもの解釈がなりたつのであり、ひとたび出版され
たならば、それは読者諸氏によってさまざまな批評を加えられ、そうした批評の力に
よって新しいひとつの「作品」として完成してゆくのだ、と考えています。だから私
は作家が何者であるかにかかわらず、まず作品そのものを偏見なく読むことから出発
するべきだと考えています。

■故児玉清氏推薦がきっかけ
 この作品に最初に出会ったのは3年前でした。NHKで「週刊読書レビュー」という
番組があり、毎週そこでいろいろな本が紹介されます。故児玉清さんがここで本を紹
介してゆくのですが、たまたま私が見た時に児玉さんが『永遠のゼロ』を読んで泣い
た、というので興味をそそられたわけです。はたして書店に行ってみると平積みで、
帯に児玉清氏推薦の言葉が書いてありました。そこで買って読んだので、百田氏につ
いてはまったく予備知識もなく、「ゼロとは零戦のことらしい」というのは読んで初
めて知ったくらいでした。つまり、まったく作者について何の偏見もなく読むことが
できたわけです。
 「作者は右翼だから作品も胡散臭い」、あるいは逆に「作者は左翼だから良い作品
に違いない」という偏見は捨てるべきです。それをいくつかの他の作品との比較で論
じてみたいと思います。

■戦争と『風の谷のナウシカ』
 『風の谷のナウシカ』はご存じのとおり、宮崎駿の初期の代表作で、私も何度も観
に行きました。いい作品ですね。ではどこがいいのでしょう? 何が私たちを感動さ
せるのでしょう? これは架空の物語ですが、我々の多くが、核戦争による世界滅亡
後の人類の物語というように翻訳して観たのではないでしょうか。つまりまったく架
空ではなく、「どこか我々の世界に通じている」事を実感していた。毒気をまき散ら
す「腐海」はまるで放射能汚染地帯のようです。その架空の「未来世界」で軍事大国
「ドルメキア王国」が風の谷に侵略してくる。軍事力による戦争世界で、ナウシカ
は、「腐海」の秘密を知り、死を賭して戦争を止め、王蟲の怒りを鎮める。…
 ここには大きな「戦争史観」=「戦争についての作者のメッセージ」が横たわって
います。軍事力による世界分割戦争は結局自らをも亡ぼすのだという主張が、作品全
体を俯瞰して存在しています。その中でナウシカが見せるのは敵味方を超越した「人
類愛」どころか、王蟲をも含んだ生物世界全体への愛情です。これが私たちを感動さ
せる。

■司馬遼太郎の『坂の上の雲』
 司馬遼太郎の時代小説はとても面白く、わたしもずいぶん読みました。その彼の
『坂の上の雲』も、それぞれの登場人物の描写は見事で、非常に引きつけられます。
また秋山兄弟、正岡子規、夏目漱石など、有名人が数多登場します。魅力的な人物描
写によって、司馬作品は大きな説得力を持って読者に迫ってきます。そのような豊か
な描写力によって魅力ある作品を書く実力を持った作家が敵に回ったら本当に怖い。
『坂の上の雲』はまさにそれを証明する作品と言えます。作品はふんだんな資料をも
とにこの戦争を細部にわたって描写しています。海戦などは、それぞれの軍艦の位置
や行動を何枚もの図を使って正確に、詳細に再現しています。そして清国軍やロシア
軍と比較して日本軍の装備や作戦行動の長所・短所を指摘しながら戦争が進んでい
く。しかしこうした詳細な資料による物語の進行の裏には実に巧妙に戦争賛美のメッ
セージが仕込まれている。

■「戦争賛美」とは?その意味
 戦争を賛美するにはどうしても必要な条件が2つあります。
(1)愛する祖国を防衛するための正義の戦争だ=「聖戦思想」
(2)人権やいのちよりも国家防衛の方が大切だ=「国家主義」

(1)と(2)は連携しています。戦争を賛美するためには、その戦争は「侵略では
なく防衛」でなければならない。また「祖国愛」はひとりひとりの人権やいのちより
も気高い概念であり、国家のために国民は犠牲となってあたりまえ。そしてそのよう
な犠牲は英雄的行為として賛美される。司馬遼太郎は、まさに戦争の「目的」という
根幹的な部分において日清・日露戦争を「国家防衛の正義の戦争」と位置付けている
のです。
当時の日本は産業発展と経済拡大によって世界の帝国主義諸国の一員となることを目
指していました。だから周辺諸国への侵略は予定行動であり「国家の意志」であっ
た。江華島事件から、日清・日露戦争、韓国併合に至る一連の軍事行動は帝国主義へ
の成長過程の一部でありました。また日清・日露開戦の契機そのものも、日本側の積
極的な挑発があった事は歴史的に明らかです。それを「防衛戦争」と言いくるめ、そ
のために戦った青年たちを英雄に仕立て上げる。まさしくこの「歴史全体を高所から
俯瞰する」位置において、この小説は「戦争賛美」作品であると言えます。

■現場の視点でつづる戦争
 考察したふたつの映画・小説は、その物語全体を俯瞰する位置において対立するも
のでした。1つは博愛主義的観点から、もうひとつは国家主義的観点から、それぞれ
戦争を俯瞰し、一方はそれを否定し、一方は肯定しています。そしてそれぞれ全く相
反する目的のための「自己犠牲」が描かれている。私は前者には涙するが、後者には
怒りを覚えます。
ではそのような「全体を見通した俯瞰的メッセージ」が、小説や映画にはかならず必
要なのでしょうか? そんな事はありません。末端の現場で兵士や庶民が体験した事
をつづるだけでも戦争についての強いメッセージとすることができます。例えば大岡
昇平の『野火』。私は若い時にこれを読んで非常にショックを覚えました。人間を生
き地獄に突き落とす戦争の姿にぞっとしました。そのことだけで十分に説得力のある
反戦のメッセージとする事ができることをこの小説は物語っています。だから『野
火』は優れた反戦小説と言えると思います。



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