[CML 028838] 宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその20 澤藤統一郎の憲法日記

Yabuta Tohru ynntx at ybb.ne.jp
2014年 1月 10日 (金) 01:37:53 JST


藪田です。

各地に勝手連が、つぎつぎと立ち上がり、賑わいを見せている。「宇都宮健児」氏の周辺も、お祭り気分で騒々しいので「澤藤統一郎」氏の指摘も一時的には忘れていられるのだろう。かなりの人は、「澤藤統一郎」氏の問題指摘を知らないようだ。しかし、公示日23日以降に、徐々に重みを増してくるであろう。与党側には、逆風、野党側には順風だが、猪瀬5000万円事件があっても、ひっくり返すのは無理であろう。

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澤藤統一郎の憲法日記
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその20

「立候補はおやめなさい」シリーズは、今日が「その20」になった。この間にかなりの数のご意見に接した。もちろん、私への強い共鳴と支持支援の声もあれば、批判非難の意見もある。胸を痛めているという訴えも少なくない。しかし、寄せられたご意見は、総じて落ちついたものばかりである。

古くからの友人は、「君がこれほど怒っているのだから、よほどのことがあったに違いない」「断固支持する」と言ってくれる。持つべきは友だ。付き合いの浅い人は、「大人げない」と眉をしかめる。持たざるべきはうわべの友だ。救われるのは、「この世界では生きていけないぞ」というタイプの言動には、まだ接していないこと。

見知らぬ人の意見の典型パターンは、次のようなもの。
「既に本人が出馬を決め社共が支持を表明した。選挙運動は事実上始動して後戻りのできない事態となっている。ベストの候補を得難いことは分かりきったこと。宇都宮候補は他と比較してベターなのだから、宇都宮候補を推すしか選択肢はない。いまだに批判を継続するのは利敵行為ではないか」

この意見は筋が通っている。良識にもとづく真っ当な見解と言ってもよい。もしかしたら、別の場所では、私もこんなことを言ったかも知れない。しかし、今私はこのような「良識的見解」と闘っているのだ。

この種の意見は正しいからこそ厄介だ。批判しがたい論理の正しさの中に、実は大きな副作用を内在させている。ベターなるが故に推すべしとされる候補者の諸々の欠点や問題点への批判を封殺してしまうという副作用。この副作用の重大さは、「良識的見解」本体の本質的欠陥と指摘せざるを得ない。

「ベターな候補を推すべきだ」という考えは、「小異を捨てて大同に就くべし」と、小異を唱える者に「異」の意見を捨て去るように要求する。ベターな候補の欠点に目をつぶることを強要して批判を許さない。要するに、宇都宮候補への批判を封じることになるのだ。

「利敵行為を許すな」は、実は恐ろしい言葉だ。「利敵」という言葉に怯まぬ者はない。敵は、大きな敵ひとつに絞られ、その余はすべて「味方」とされて批判を許されないものとされる。結局は、「味方」内部の異論を許さず、思想や行動の統制と統一とを強要する。

ベターな候補を推すための味方内部での統制を正当化する論理が、「味方全体の利益」あるいは、選挙に勝つことの利益が候補者批判に優先する、ということになろう。はたしてそれでよいのだろうか。

私の嫌いな言葉が、「小の虫を殺して大の虫を生かす」というものだ。私はいつも、「小の虫」の側にいる。大の虫のために殺されてたまるものか。

私は、四天王像を見るときまず邪鬼に目をやる。格好悪く、踏みつけられもがく邪鬼に、限りない連帯と共感の情をもつ。踏みつけている体制側の増長天や多聞天の立派さには共感し得ない。

ベターな候補者に踏まれた邪鬼は、痛みに声を上げ続ける。「小の虫」を無視しての「大の虫」の利益を優先する考え方には到底馴染めない。

「大局を見よ」「利敵行為をするな」という人は、例外なく、弱者の側にのみ譲歩を求める。「小の虫なんだからしかたがない」「邪鬼が踏みつけられるのは宿命」として、弱者に我慢を強いるのだ。積極的に、被害者に泣き寝入りを強要しているに等しい。

人権侵害は、国家権力ばかりがなしうるものではない。社会を多重多層に構成している部分社会のそれぞれに小さな権力があって、その小さな権力が弱者の権利を侵害する。弱者の立ち場にあるものは、何層もの小さな権力と闘わねばならない。それぞれの局面での大局論、利敵論は体制の論理であって、権利を侵害された弱者の側の論理ではない。

だから、「大局的見地に立て」と言われても、「利敵行為」と言われても、また「ベターな候補者を推すべきだ」と言われても、私はけっして黙らない。宇都宮君と宇都宮選対の薄汚さを私なりのやり方で、告発し続ける。彼/彼らは、人の尊厳を傷つけることが、どんなに高価に付くことになるかを思い知らねばならない。そのような「物わかりの悪い」人間が必要なのだ。「倍返し」「3倍返し」は、宇都宮君が使う言葉ではない。宇都宮君が使われる立ち場の言葉なのだ。

古い友人が言ってくれた。「澤藤は阿修羅になった」「もう、誰も止めようはない」と。そのとおりだ。その彼と友情を深めていたころに、若い自分の姿に重ねた賢治の詩の一節を思い出す。

  いかりのにがさ また青さ
  四月の気層のひかりの底を
  つばきし はぎしりゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ

私はもう若くはないが、今はひとりの修羅となって、宇都宮君が立候補を断念するまで宇都宮君と宇都宮選対の批判を続ける。だから、宇都宮君、立候補はおやめなさい。
(2014年1月9日


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