[CML 033364] シルバー労働を「資本論」第1巻から解説するとどうなるか?資本主義批判、マルクス主義経済学を労働者階級が労働し、生き抜くためのバックボーンとしよう。 塩見孝也 (2014・8・24)
石垣敏夫
motoei at jcom.home.ne.jp
2014年 8月 24日 (日) 06:52:40 JST
塩見孝也さん
お世話様
衆知の通り、
「賃金は労働力(労働力商品)を売って得る」
働いたからもらえるのではないのです。
高く売るためには労働組合をつくり、
団結して経営者・資本家と団体交渉をする。
不当な差別、低賃金、長時間労働をやめなければ、
ストライキで闘う、
これが基本です。今の既存の労働組合は
政党の下請けになって分裂し、自分の組織のことしか考えていません。
非正規雇用が約200万人になったといわれ、その責任を自覚していません。
ダラカン労組幹部が、口だけ非正規雇用反対と言っているのです。
労組は労働者の人権(差別を含む労働条件の改善)を守る為に闘う、
この基本を忘れています。
石垣敏夫
] シルバー労働を「資本論」第1巻から解説するとどうなるか?資本主義批判、マルクス主義経済学を労働者階級が労働し、生き抜くためのバックボーンとしよう。 塩見孝也 (2014・8・24)
シルバー労働を「資本論」第1巻から解説するとどうなるか?資本主義批判、マルクス主義経済学を労働者階級が労働し、生き抜くためのバックボーンとしよう。 塩見孝也 (2014・8・24)
皆さんへ。 これは、今回、「9条改憲阻止の会」夏季総会に提案する文章の補足文です。
これまで、僕の駐車場労働・闘争」につきましては、逐一報告してきました。
以下は、7月18日の日記、「(清瀬市営駐車場)「クレア」従業員総会報告」で述べた「駐車場管理労働の有償性」について述べた部分の抜粋ですが、この部分だけを、抜粋し、若干の説明を加え、これを、今回の総会での提案の補足文として、「市民のMl」の方へも発信しておきます。
なぜならば、駐車場「クレア」シルバー労働者の労働が、「有償」に値することは、この労働に従事した労働者なら、或いは普通の現役労働者で、この労働を知り、理解するものであれば、体験的・実感的に感得する当たり前のことですが、それを、理論的、科学的に説明するとなると、大変な課題となるからです。或いは、この有償性を否定する御用労働論やブルジョア経済学を理論的に打ち破ることは、これまた大変なことであるからです。この課題を果たすには、真の経済学、労働者階級にとっての経済学で理論武装されていないと果たせません。
このような経済学は、「資本論」で、展開されている、資本主義批判、ブルジョア経済学批判、「資本主義社会の経済的運動法則」の解明を見事に成し遂げている「マルクス主義経済学」を於いてしか、他にはありません。
それで、ここでは、「資本論」第1巻、「生産過程」の第1編「商品と貨幣」、その第1章の「商品]、第1節、「商品の二要素」、第二節、「商品に表される労働の二重性」、第2章「貨幣の資本への転化、第3~5編からなる、「剰余価値の生産」を解説しておきました。
僕は、「総会報告」では、このことを表立ってことわらず、すっと展開しました。それで、読者には、難解で、とっつきにくい部分として、敬遠気味であり、「体験的、感覚的に、わかっているからまー良いではないか」、とすっ飛ばしてゆく対応をされた方々もいらっしゃると思うし、僕としても、相当不親切であった、思いました。
親切であったとしても、「資本論」、とりわけ第1巻、第1章は、とっつきにくい限りで、ある面で難解で、相当、知的営為を必要とするものですから、面倒極まりない、と思われる、と拝察いたします。
しかし、このことを自覚し、「資本論」学習、研究に励めば、実践的課題が目の前にあるのですから、「有償性」の意義も相当、突っ込んで理論的にも捉えられ、同時に「資本論」理解も相当深まって行きます。
「資本論」は、マルクスの「論理学」(レーニン)といわれ、堅固な唯物弁証法をベースとする理論的構築物です。ですから、第1章「商品」が理解されれば、その中の第1編の「商品と貨幣」全体の構築物、、更に、第2編や第3編、或いは、「資本の蓄積論」、或いは、第二部の「流通過程」、第三部の、「資本制生産の総過程」の組み立てがどうなってゆくかは、すっきりと理解されてゆくものです。言い換えれば、何故、第1篇が「商品と貨幣」として、書かれてかれて行ったか、書かれざるを得なったが、分かれば、第一章「商品」の内容もすらすらと分かり、その後の展開もすらすらとわかってゆくのです。
何故、すらすらとわかって行くか、といえば、第1章「商品」の第1節「商品の二要素、使用価値と価値」の冒頭に展開されてる「資本主義生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの巨大な「商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それ故に我々の研究は商品の分析から始まる。」に尽きます。このことの意義を、どんどんと深く深く認識してゆけば、「資本主義の経済的運動法則」は掴められてゆき、その認識はどんどん深まってゆきます。
それで、18日日記の「資本論」第1章の関係部分の記述を、今回、再び抜粋し、「資本論」に照らし説明したわけです。
サー、「資本論」を引っ張り出して、学習、研究してゆきましょう。
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以下抜粋。
1、もう一つは、この集まりで公に論議し、経済学を学習し、それを持って意識変革をすべき基本的問題が、今回は論議されることがなかった、このことである。それは、クレア・シルバー会員の管理労働が<有償労働>として認定されている労働の性格、理由をどう捉えるか、の問題である。
僕のこのことについての、見解は以下である。シルバー労働者は、現役労働者のごとく月一杯、8時間一杯働く力、エネルギーを持ってはいない。しかし、労働日とその時間帯を特定しつつ、限れば、そこでは集中力を発揮し、現役労働者と同質の集中、緊張した労働が出来る、ということである。人々の欲望を充たす有用的労働を果たし、同時に価値形成的労働を果たすことが出来るということである。この謂いで、駐車場管理労働は、生産的にして、価値形成的な賃労働と言ってよいのである。シルバーの駐車場管理労働は、<具体的有用労働>としては、欲望を充たし、駐車を安全に管理し、他方、<交換価値>、<抽象的人間労働>の面では、駐車場代の価値、剰余価値、貨幣を生み出してゆくのである。
※ここの所は、「商品に表される労働の二重性」(DK、第1編、第1章:商品、第2節)に立脚し、このエキスを語ったものです。「労働の二重性」、「抽象的人間労働」と「具体的有用労働」をこのように捉えるべきなこと。
この確認が、しっかりとされるべきなこと。
この確定された労働日、労働時間においては、まったく僕らシルバー労働者は、現役、健常労働とまったく変らない労働をやっているのである。この労働のためにシルバー労働者はいろんな準備をし、学習し、必死で社会的に要請される協働労働の責任を果たそうとする。責任は、現役労働者並みに問われ続けられるのである。そのために、筋肉、腱、神経、脳らを使い、スキルも磨く。こうして社会的生産過程に参画する。或いは、協働労働において文句が出ないよう、文句が出た場合、精神的に苦しみながら、このミスを克服すべく労働して行くのである。この過程に参加しえなければ、厳しく資本の側から責任を問われるのである。
2、以上の事柄を資本主義社会の一般的労働についての考察から先ず整理的に説明してゆこう。次に3で、このような労働論が、我が国において、いかにこれまで、反労働者的なイディオロギーでもって捻じ曲げられてきたかを歴史的に見て行くことにします。
★資本主義社会の富の原基形態は、いうまでもなく商品>である。その、交換価値が、貨幣形態をとり、物神性を帯びてゆくのだが、この商品が価値(交換価値)と使用価値のニ要因から構成されていることは、現実の事実であり、これまた言うまでもないことで、経済学のイ、ロ、ハの命題である。 ※ここは、第1編、第1章の<「商品」のニ要素、使用
価値と価値(価値実体、価値の大いさ)>のエキスを語ったもの。「富の原基形態」は、この1章の有名な冒頭部分である。このことは、この小論の<皆さんへ>で、「資本論」の読み方ともいえる事柄として、解説しておきましたので繰り返しません。尚、ここでは、「価値形態」論については、詳細な解説は省きましたが、価値、交換価値が、貨幣形態に、普段に形態転換し、ここに落ち着いてゆくことの構造を、第一章、第三節においてマルクスは、精緻に、この運動論理を、いわゆる<価値形態>論として、分析し、綜合していること。そして、第4節で、<商品の物神的性格とその秘密」として、第1章を総括していること。又、その具体的展開形態、構造を第二章「交換過程」「貨幣又は商品流通」を説明しています。�!
�の「商品と貨幣」論の第一編があってこそ、初めて、「生産過程」は、論じられえるからです。
★1、<使用価値>は、具体的な有用性、欲望の実現を果たす点での価値である。価値、交換価値は、商品が交換される割合関係を示すもので、使用価値が、「人間と自然の物質代謝」を担う<各種の目的、形態>を持った<具体的な有用労働>によって形成される、のに比し、価値、交換価値は、当該社会において商品が交換される割合関係を示し、それは、商品生産に要した、何を作るかの労働目的に左右されない、<抽象的>な<労働時間>を基準にして、測られる。
<抽象的人間労働>とは、具体的な有用性から規定される各種の形態を持つ労働ではなく、この具体的有用性を捨象した、筋肉、腱、神経、脳などが幾時間作動したか、を基準とする労働の謂いである。これを、経済学や「資本論」では、、<抽象化された労働>、と概念規定しているのである。 そして、当該資本主義社会では、生産するに当たって、社会
で必要とされ、歴史的に確定されてゆく、平均的時間で測られる労働のことを指す。
資本主義社会の労働は、このように<具体的有用労働>と<抽象的人間労働>を二重化しつつ作動する。それゆえ、商品の生産過程は、商品を生産する「労働過程」と価値を生産する「価値増殖過程」の一個二重の構造として存在していること。
※ここで、僕は「資本論」に従って「商品に表される労働の二重性」における「具体的有用労働」と「抽象的人間労働」の本質、核心的規定を語りました。又「生産過程」が、「労働過程と「価値増殖過程」のニ側面から成立していることを述べました。
★2、「賃金」とは、資本と労働の階級関係によって決まって行くものの、一般には、労働力の再生産、これに必要とされる時間で測られる価値のことであり、賃労働が生み出した剰余価値は、この必要労働時間を越えた時間の労働、剰余労働(時間)を指し、これが資本家側に搾取されてしまうのである。 生産物が、全面的に商品として、交換される資本制生
産社会では、労働力もまた、労働力市場において、売買される。そして、ここでは、労働力の価値は、価値法則、つまり、市場の原理、等価交換の法則に規定される。交換は、その商品の生産に必要とされた労働時間に規定されるわけである。しかし、市場ではそうではあっても、生産過程では、そうではないのである。普通、交換された商品は、それを購入した購�!
�者にとって、その人の欲望を実現することにおいて、その有用性を実現すること、つまり使用価値を実現することにおいて、終わる。
ところが、市場交換から離れた<生産過程>での労働力の使用価値の消費は、普通の商品とは違う、特質を有す。この消費は、資本制生産様式のような生産力の高さを持つ経済社会ではこの使用価値の消費は、資本家にとっての、有用化、欲望の実現であるから、既に契約し終わった交換価値は別とし、そこから手に入れた使用価値を、自らの欲望実現に沿って、生産過程に於いて、いかに労働時間を延長するか、となる訳である。かくして、必要労働時間を越えて、この剰余労働時間の延長に比例して、剰余価値が生産されてゆくこととなるのである。
こうして、このような労働力の使用を通じて剰余価値が、「市場原理の等価交換と矛盾することなく(マルクス)」、「剰余価値が生産されて行く」こととなる。
※ここでは、何故剰余価値が生産されるか?を述べました。「賃金」の本質は、資本主義社会では、労働力の再生産に必要な「必要労働時間」に、切り縮められて行くこと。労働力も商品であり、市場で交換されざるを得ず、交換原理、市場原理に沿って、必要労働時間の交換価値の量に沿って交換されること。ところが、いったん交換された労働力は、生産過程では、労働力の購入者、つまり資本家の有用性、欲望の実現、つまり労働力の使用価値の消費に供せられ、この使用価値の消費は、労働力以外の商品と違って、資本家の専制、指揮・監督の下にあるから、この消費時間は、必要労働時間を越えて、労働者の生存の限度まで、延長されてゆくこと。労働力の使用価値の消費は、他の商品と異なって、剰余価値を産み出す�!
�は、このような所有、階級関係の存在と一体な問題として捉えられなければならないこと。「市場における等価交換と矛盾することなく労働力の使用価値は、生産過程において、剰余価値を産み出す(DK、第1章、第二編「貨幣の資本への転化」)」は、このように、「労働力の使用価値の消費は剰余価値を産み出す」、は、このように所有・生産関係と一体な・u椁竭閧ニして理解さて行かなければならない。
★3、以上の事柄を少々補完して語ろう。
生産手段が私的に所有され、その所有者、資本家の指揮・監督の下で、労働力(の使用価値)が消費される生産過程では、資本の利潤追求のために、資本家は「必要労働時間」を越えて、労働時間を絶対的、相対的に延長せんと血眼となる。労働時間の相対的延長は、技術革新、生産力上昇で、必要労働時間を短縮することで、労働時間を相対的に延長することである。この二つの「延長」が、剰余価値産出の源泉である。機械や建物、原料が剰余価値を産み出すわけではない。それは、摩損分が新たに作られた商品に「価値移転」されるだけで、原料ら<不変資本>は形態が変形・変容するにしてもーーー資本家経営者の経営者特有の労働時間は時間として計上された上で、ーーー剰余価値を増殖するものではない。労働者の具�!
�的有用労働力、その使用価値の実現、作動、消費こそが、剰余価値を産み出すのである。
普通に世上で言われる、「時給」とは、剰余(時間)価値を差し引いた月ぎめの総労働時間としてある「賃金」を時間数で分割したものである。どこまでが、<必要労働時間>で、それを超えた<剰余労働時間>が如何程かは、その社会の歴史性に刻印されるもので、算定は難しく、一般に資本と労働の力関係、つまり階級闘争に規定されます。又この剰余価値から、地代と利子を差し引いたものが一般に「利潤」とされるのである。
※第3編、第7章「不変資本と可変資本」の章で、不変資本は商品にその摩損部分の価値を価値移転はするものの、剰余価値は産み出さないこと。剰余価値は、不変資本=労働力の消費からのみ生み出されることを論証している。
★4、これらの事柄は、如何にブルジョア経済学者が、様々な御用理論を展開しようと、資本主義社会では、その普遍的な経済(運動)法則として、日常的に展開されている事柄である。シルバーの駐車場管理労働は、<具体的有用労働>として、欲望を充たし、駐車を安全に管理し、他方、<交換価値>、<抽象的人間労働>の面では、駐車場代の価値、剰余価値、貨幣を生み出してゆくのである。
3、★ところが、このような事実関係や基本性格がぼやかされてきた歴史が我が日本国にはあるのである。
いわく、この労働は「余生を楽しまんとする閑人の、気ままな趣味的、一種の社会奉仕的労働であり」、「半端なものである」、「正規の労働」とは言えず、「欲望を充足する有用性も価値、剰余価値も産み出さない」労働である、と。或いは、「教師聖職」論のように、「いっそのこと、奉仕労働(無償のボランティア労働)とすべきである」など。法曹上というか、政治的には、このシルバー労働を労働基準法の適用対象とするか、対象外とするか、に於いて、こういった論争は我が日本国においては決着がついていないのである。
例えば教師や各種自治体公務員、警察官・刑務官ら公務員、準公務員的な人々(例えば、労働基準監督官など)を労働者とするか、否かで、我が国はILOから未だ勧告を受け続けている問題国であること。公務員労働は、「公務」という労働の目的如何によらず、純然たる生産的労働であり、労働の目的いかんによらず、労働者としての権利は保障されるべきなのだ。いかがわしい限りの「国家主権」「国家目的」よりも、主権在民の見地、基本的人権の見地、プロレタリア国際主義の見地での反戦・平和、反原発の見地で、労働者として、かつパトリ的民族見地で、総じて立憲主義の見地が優先されれるべきなのだ。
こう見てくれば、このような労働の権利は本来、労働基準法法、労働組合法、労働関係調整法ら労働三法に沿って保障されなければならないのである。あるいは、この法律に<準じて>確定されなければならない、ことはまったく疑いをさしはさむべきでない事柄といえる。
この「奉仕労働論」は「志高き」ようで、一皮めくれば、資本の思い通りに労働者が無償で働かされることを容認することを意味する。或いは、「前科者」、元懲役者が、「悔悟」、「反省」という名の下に無権利で安く買い叩かれたり、障害者が「同情心」にまぶされながら、極端な酷使の下におかれて現状に似通う。いろんな事情からの外国人労働者の差別を前提とした酷使労働にも似通う。
4、以上を踏まえたうえで、敷衍すべきことを述べます。労働者階級は資本制生産の下では、資本家に自己の労働力を売らずしては生きて行けない賃金奴隷の階級である。であれば労働三法も、この所有、生産関係の下では賃金奴隷制としてしか存在し得ないことを前提として、労働者の権利を記載しているのである。どこまで行っても、真に生産の主体である労働者階級は、己の権利を保障されることはないのである。ですから、どこまで行っても改良、改良、拝金主義に染まり、自己の労働力を、如何に高く資本家に売りつけるか、のブルジョア意識から脱却できない。
それゆえ、労働者階級は、このような事態を否定、自己批判し、資本主義を総体として否定、批判し、この体制の変革、打倒の上に、「自由な人間の、連合した協働、共同社会(コンミューン)、共産主義社会」を追求して行かなければならない。社会主義は、マルクスが規定するごとく「能力に応じて働き、労働時間において受け取る。」、共産主義の<低い段階の社会>です。<共産主義の高い段階>」では、「能力において働き、必要に応じて受け取る」となる。ともに「世界(人類)共同体」の社会である 。
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