[CML 033273] 議論の姿勢

林田力 info at hayariki.net
2014年 8月 20日 (水) 21:15:50 JST


市民派統一候補の擁立という観点から合宿の議論で気になった点として、「私はAという政策が正しいと考える。だからAを主張する」という姿勢が強いことである。これに対して「有権者の多数はBを望んでいる。だからBの政策を打ち出す」という姿勢が乏しいと感じられた。

 合宿では「市民派統一候補を擁立し、当選させるために何でもかんでも100%の要求を通すことはできない。ほとんど変わらないものと覚悟しなければならない」と問題提起された。これは様々な主義主張の人が集まって統一候補を擁立する場合の見識である。ところが、そこで脱原発に関心が高い人が「だから脱原発選挙にしなければならない」と主張し、それに対して護憲平和運動に取り組んでいた人が「いやいや脱原発だけでなく、護憲平和も入れなければならない」と主張する。これでは自分のやりたいことを言っているだけであり、「気に入らなければ即脱退」の世界になる。

 「私はAという政策が正しいと考える。だからAを主張する」だけではダメとの主張は細川支持者からの宇都宮陣営批判として見られがちである。「正しい運動ではなく、勝てる選挙」論である。しかし、むしろ宇都宮陣営は「有権者の多数はBを望んでいる。だからBの政策を打ち出す」ことを考えていた。それは東京オリンピック・パラリンピックに対する政策に反映されている。逆に細川陣営の脱原発至上主義は勝てる選挙ではなく、脱原発運動家が自分にとって正しい運動を追及しているだけのものに映った。有権者の都政への関心を無視したものであり、反感を受ける結果になった。

 「有権者の多数はBを望んでいる。だからBの政策を打ち出す」という姿勢が乏しい理由として、「小早川秀秋のような日和見主義、情勢分析屋ではダメだ」と積極的に否定する立場がある。しかし、小早川秀秋がダメな理由は最後の最後まで旗幟を鮮明にしなかった鈍さにある。藤堂高虎や黒田長政のような動きが必ずしも悪いとは思わない。むしろ藤堂高虎や黒田長政のような冷徹な分析力のない分析屋が幅を利かせたことが悲劇である。都知事選挙の「勝てる可能性のある候補は細川護煕候補」論である。勝てる可能性がある候補を応援することは悪いとは思わない。むしろ、直近の選挙結果・政党の消長を踏まえた上で細川氏が勝てると分析するセンスの古さを批判する。

また、小早川秀秋の不実は裏切ったこと以上に、東軍について当然の人物が西軍として行動したことにある。小早川秀秋は石田三成を恨み、徳川家康に感謝する立場であった。受けた恨みを忘れないという立場では西軍につくこと自体があり得ない。この点でも細川政治改革(小選挙区制)や小泉構造改革で痛めつけられた人々が細川氏を支持することは滑稽である。

 言うまでもなく「有権者の多数はBを望んでいる。だからBの政策を打ち出す」は絶対ではない。極論すれば国民の多数が戦争を望めば開戦するのかという話になるためである。それでも脱原発の思いから始まった都民投票運動から「原発に賛成でも反対でも皆で投票して決める」ことに価値を見出す意見が生まれたように、民主主義社会で政治に取り組むならば、自分のやりたいことだけでなく、有権者の多数が何を望んでいるかという視点が求められる。

 「私はAという政策が正しいと考える。だからAを主張する」という姿勢が強くなる別の要因として市民派統一候補観のギャップがある。私は異なる人々、本来ならば別々の候補者を応援して然るべき人々が妥協して統一候補を擁立するというイメージである。このイメージからすると「正しい主張を貫かなければならない。やるやる詐欺とは手を組まない」という原理主義的なアジテーションは「そのような姿勢で統一候補を擁立できるのか」という違和感がある。

これに対して、本来は一つであった人々が別々の党派に分かれており、そこで統一候補を擁立するという統一候補観もある。この統一候補イメージは正しい主張に純化しようとする姿勢と必ずしも矛盾しない。日本の現状において「本来は一つであった人々が別々の党派に分かれている」ことも一つの真実である。それ故に、このようなイメージの統一候補擁立の動きがあってもいい。しかし、それが市民派統一候補になるかは疑問である。「本来は一つ」に連ならない人々にとって参加する大義も資格もないためである。

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林田力(『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』著者)
http://hayariki.net/poli/tomoren.html


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