[CML 033257] 都民参加への模索連絡会夏季討論合宿
林田力
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2014年 8月 19日 (火) 21:12:36 JST
都民参加への模索連絡会は夏季討論合宿を2014年7月12日及び13日に神奈川県足柄下郡湯河原町で開催した。以下は合宿の所感である。合宿の内容を紹介するものではなく、合宿の議論を元に考えたことを述べている。合宿後の世話人間の議論も踏まえた内容になっている。
この合宿の意義を一言で述べるとすれば、2014年東京都知事選挙における宇都宮健児候補の支持者と細川護煕候補の支持者が集まって敵意をぶつけ合わずに議論できたことである。今後も平場で議論を続けていきたいという結論になった。
今後の集会テーマとして都市計画が出た。私が細川支持の動きの中で批判したものは細川氏本人が云々ということよりも、脱原発至上主義であった。それ故に脱原発至上主義でないテーマが挙がったことは歓迎できる。
一方で細川支持者の人々は宇都宮健児候補の出馬経緯に対して、わだかまりを抱いていることを再確認した。これが単なる宇都宮批判ならば「細川護煕候補の出馬経緯は市民派各派と調整したのか」と返せば済む。しかし、問題意識の中には今後同じようなことを繰り返してはならないというものもあり、「過去を蒸し返すな」と封じ込めて済む話ではない。但し、「出馬経緯が信義に反する」との主張に関して目新しい事実が提示された訳ではなかった。
私は宇都宮氏の出馬を期待し、歓迎した立場であり、所謂フライング論を批判している。その立場に変わりはないが、合宿のテーマである市民派統一候補ということを考えるならば批判者の問題意識は受け止める意義があると考える。合宿では東京都世田谷区と千葉県松戸市の市民派統一候補擁立の試みが報告されたが、共に政治家側の勝手な出馬という擁立側から見ると「裏切り」行為が問題になっている。
原則は立候補の自由がある。選挙前に談合のような形で候補者を絞ることよりも、立候補したい人が立候補して各々の主張を展開し、有権者に判断してもらうことが選挙制度の趣旨である。市民派統一候補擁立は不自然なことである。統一候補でまとまらずに独自に立候補することは有権者に選択肢を提供することになる。私としても「脱原発至上主義が市民派の総意」と押し付けられたならば、それを否定することに熱を入れたい。もし市民派統一候補擁立の動きに少しでも不満があれば、そこから抜け出して独自の候補擁立を目指すことは自由であり、それを正当化する論理は構築可能である。
一方で誰もが少しでも気に食わないことがあれば脱退するということでは、市民派統一候補は絶対に実現しない。統一候補擁立を目指す側としては容認し難く、「裏切り」や「信義に反する」と言いたくなる。何しろ立候補は自由であり、「裏切り」を掣肘する手段は皆無に近い。できることは「裏切り」がなされた場合に不当な行為として記憶し、記録することくらいである。この意味では東プロ総括や細川勝手連総括のような文書が出てくることは理解できる。
しかし、立候補する側にも言い分はあり、有権者への選択肢の提供という大義がある。「裏切り」批判が一方的なものならば統一候補擁立側の信頼性が問われる。
合宿の報告でも全ての事例が約束違反になるか疑問があった。そのために私は質疑応答で擁立側が候補者に約束を求めたことの理由を質問した。その回答は擁立側の論理としては理解できるものであったが、そのような約束を擁立側が候補者に押し付ける権限があるのか疑問なしとしないものがあった。その意味でも「過去を蒸し返すな」ではなく、徹底的に議論することが有益である。
まず政治家が「勝手に」出馬した事例には傍から見ても自分が統一候補に選ばれそうにないから出馬したと評価できる事例がある。これを擁立側から非難することは容易である。それでも擁立側と政治家に政策面の相違があれば、その相違点が重要なものであり、有権者に選択肢を提示するという大義をもって正当化できてしまう。
一方で政策の大枠は合致するとしても、政治と政党についての考え方の相違が対立の背景にあるケースもある。これは一般に流布されがちな「日本共産党が統一をぶち壊した」的な話ではない。報告事例では民主党が壊したと評価できる事例もあったし、無所属議員が壊したと評価できる事例もあった。要するに誰でも壊し得るものである。
火種は市民派統一候補を擁立する超党派の枠組みの捉え方の相違である。一つの捉え方は政党色をなくし、無党派を志向するものである。別の捉え方は野党ブロックを構想するものである。この捉え方が擁立側と政治家で分かれていた場合に両者の対立が生じやすい。これは考えが異なることが問題で、どちらがどちらの場合でも起こるものである。
擁立側が無党派志向である場合、政治家に政党人ではなく、無党派として行動することを求めたくなる。それは選挙後も変わらない。ところが、政治家が野党ブロック志向であると「政党を無視して政治ができるか」と考える。それが具体的な行動に現れると、擁立側は政治家の行動を約束違反と非難する。
逆に擁立側が野党ブロック志向で、政治家が無党派志向である場合もギャップが生じる。擁立側は現首長の予算に反対する各会派と足並みを揃えることが対立軸を作ることになると考える。ところが政治家の方は各議員に対して会派所属議員ではなく、区民党の立場から是々非々で判断してもらうことを理想と思っている。この考え方の溝を埋められずに統一候補がまとまらなかった事例もある。
管見は野党ブロック志向に近い。議会制民主主義において議会内に会派が生じることは必然であり、政党政治は必然と考える。大統領制型の地方政治も首長だけに担うものではなく、首長と議会が両輪であり、やはり政党は重要である。市民側に「無党派であることがカッコいい」「無所属になって初めて独立して政治活動ができる」的な政党否定の風潮があるが、それも政治離れの帰結の一種であると感じている。
無所属議員が会派所属議員よりも様々な苦労をしており、勉強していることは承知している。私は希望のまち東京in東部で東部各区の区議会の質疑を調査したことがあったが、特定会派の区議は各々の区議会で同じ要求をしていた。上位レベルで政策の共有をして、それを各区に下ろしていることを推測させる。それに比べると無所属議員は質問一つでも全て自分で考えなければならない(山本太郎参議院議員の質問主意書パクリ事件はあったが)。
会派所属議員は楽をしていることになるが、その楽も人類の有意義な発明の一つである。その発明によって楽をするだけの議員も多いが、有意な活動に振り向けることもできる。故に「会派の特権をなくして全ての議員が一個人として行動すべき」とは考えない。
但し、「議会制民主主義では会派は必然」は近代という一つのパラダイムに規定された考えに過ぎないとの自覚はある。そして無党派志向の中には、そのパラダイムに挑戦するという問題意識があることは認識しており、無下に否定するつもりはない。
やはり異なる考えが議論を深めることが重要である。考え方が異なるということを認識すれば、同意はできなくても、相手の言動を理解することはできる。それによって結果的に別々の道を歩むことになったとしても、市民派同士で「裏切り」や「信義に反する」などの、おどろおどろしい言葉が飛び交うことは抑制できるのではないか。
今後、市民派統一候補擁立の試みを続けていく上で「気に入らないことがあるから脱退」を可能な限り避けることが課題になる。あくまで原則は気に入らないことがあれば脱退することは自由である。私自身も気に入らないことがあるために東急不動産とのマンション売買契約を取り消し、マンション管理組合理事長として東急コミュニティーの管理会社解約を推進した経験があり、見切りは早い方である。
「気に入らないことがあるから脱退」の意思が尊重されることは大前提である。しかし、皆が「少しでも気に入らないことがあれば脱退するぞ」とちらつかせては、市民派統一候補擁立は成り立たない。即効薬はないが、徹底的に議論を深め、仲間意識を抱き、簡単に脱退できないような関係にしていくしかないだろう。その意味では湯河原合宿は有益な一歩と評価できる。
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林田力(『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』著者)
http://www.hayariki.net/poli/tomoren.html
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