[CML 033060] 今日の言葉~抜録~毒にも薬にもならぬ1000人委員会で「善」のアリバイ証明をじぶんの小指一本傷めずにやろうという、虫のいいお歴々と「顔」の話 ――辺見庸「日録29」(2014/08/07,08)から

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2014年 8月 8日 (金) 19:23:20 JST


今日の言葉~抜録~毒にも薬にもならぬ1000人委員会で「善」のアリバイ証明をじぶんの小指一本傷めずにやろうという、虫のい
いお歴々と「顔」の話 ――辺見庸「日録29」(2014/08/07,08)から
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辺見庸「日録29」(2014/08/07)から。

学生時代以来、3度『ユダヤ人』(懐かしい安堂信也さんの訳)を読みなおしている。同著はユダヤ人と反ユダヤ主義を表のテーマ
としながら、それをこえ、たとえば「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」と恥ずかしげもなくおめくバカ首相Aのような男(やAを野放し
にするわたしたち)のかかえる貧しい内面とそれがもたらす災厄の性質にまでわけいっていく。これは思考の実験であり、(略)J.P.
サルトルの思念の方法がいまでも有効であることをあかしている。(略)「以上で、われわれは、完全に、反ユダヤ主義者を理解出
来たように思う。それは、恐怖にとらわれた男である。それも、ユダヤ人に対してではなく、自分自身に対して、自覚に対して、自分
の自由に対して、自分の本能に対して、自分の責任に対して、孤独に対して、変化に対して、社会に対して、世界に対して、恐怖を
抱いているのである。それは卑劣漢であり、しかも、自分の卑劣さを認めようとしないのである。それは殺人狂であり、その悪傾向
を、押さえつけ、つなぎとめているけれど、完全には制御出来ぬ男である。しかも彼は、殺す時には群衆に紛れて、集団的処刑に
加わるにすぎない。それはまた、自分の起す反抗の結果がこわくて、あえて反抗を試みられぬあわれな不満家でもある」。このよう
な傾向は首相Aに明らかにあり、口先だけの反A的諸個人にもあり、毒にも薬にもならぬ1000人委員会で「善」のアリバイ証明を、
じぶんの小指一本傷めずにやろうという、虫のいいお歴々にもある。(2014/08/07)
http://yo-hemmi.net/article/403286982.html

引用者注:
辺見は「1000人委員会」の面々を「『善』のアリバイ証明を、じぶんの小指一本傷めずにやろうという、虫のいいお歴々」と批判して
います。辺見に抽象的に名指しされた人(http://www.anti-war.info/campaign-initiators/)について、私は、著書だけでなく、メーリ
ングリストなどを通じてその彼ら、彼女らの最近(といっても、10年ほどは経つ)の貧相な所業について知るところがあり、そうした
彼ら、彼女らの「自分の卑劣さを認めようとしない」不遜な精神のありように触れて憮然とするところがたびたびありました。だから、
辺見のいうところは私には具体性を帯びています。抽象的な形であれ、辺見に名指しされた人は省みて恥じるところはないか?
かつては(そして、少なくない人たちはいまも)、けっして「貧しい内面」ではなかったであろうおのれの心に問うてみてほしい。

アゲハの幼虫の「顔」と首相Aの「顔」について ――辺見庸「日録29」(2014/08/08)から。

けふ、葉の上のアゲハの幼虫と目があった。上目づかいに見られた。いたしかたのない瞬間だった。逃れようのない、いたしかた
のない瞬間というのは、ある。(略)「生きている存在はすべて、開いているものの中にあり、現れの中に自らを表明し輝いている」
(アガンベン「顔」)ことは、なるほど、たしかである。幼虫は薄緑のコーデュロイのようにやわらかく上品に輝いていて、結果的に、
自己存在をわたしに難なく表現していた。(略)

先日の対談でも、「顔」のことをおもい、対談相手に顔のことを言いもした。「顔とは、人間が取り返しのつかない仕方で露出してい
るということであり、同時に、まさにこの開けの中に人間が隠れたままにとどまってあるということでもある」ということを、べつの表
現で言った。わたしは、たぶん、たかだか顔ごときでものごとを断じすぎる傾向がある。おそらく、わたしもそうされているだろう。
シュショウとよばれるAの存在の、そもそもあの顔を受けいれることができないとは、いかにも狭量で根拠薄弱であるようだ。けれ
ど、「取り返しのつかない仕方で露出している」顔でもって判じてしまっていることがらに、わたしはたえず命をさらさなければならな
い。OK。命を賭けよう。どのみち無傷ではいられないのだ。わたしはやつのツラがきらいなのだ。「言葉によって露出されあばかれ
ているということ、秘密をもつことの不可能性のなかに自らを覆うということが、顔の中に、貞節としてあるいは動揺として、無礼さ
としてあるいは慎みとして、ちらりと姿を現す」のも、いたしかたのないことである。 


Aの顔のばあい、とりわけ「取り返しのつかない仕方で露出している」のは、無知と暴力と嘘と劣等感である。アゲハの幼虫の顔は
どれも、わたしの知るかぎり、無知も暴力も嘘も劣等感も感じさせたことはない。こうした言い方でわかるように、わたしは市民的、
民主主義的見地からAに「批判的」なのではない。顔がいやなのだ。あの顔(と声)とともにあらねばならないことが堪えがたいので
ある。わたしはあの顔(と言葉)を、臆面もなく差別する。そこが1000人委員会という傲慢な〈無の形式〉とわたしのちがいだ。あの
顔(と威圧)をわたしは拒む。そして、「顔は、顔面とは一致しない」ものだ、とじぶんにしつこく言いきかせる。(2014/08/08)
http://yo-hemmi.net/article/403286982.html


東本高志@大分
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