[CML 033025] 【注の追加】今日の言葉~抜録~辺見庸の「戦争をさせない1000人委員会」への違和 ――辺見庸「日録28」(2014/08/05)から

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2014年 8月 6日 (水) 20:16:15 JST


東京で佐高信さんと対談。4度目。「戦争をさせない1000人委員会」(この名前のそこはかとないいやらしさよ)の哀れなほどの人畜
無害性について、他方、安倍政権のいちじるしい有害性、致死性、その怒濤の勢い、文字どおり危殆に瀕している状況について、
わたしは話した。すなわち、壮大な害悪の質量とダイナミズムにたいし、「戦争をさせない1000人委員会」の貧弱な発想とあいもか
わらぬ偽善のそぶりは、まったくみあっていないし、釣りあっていないばかりでなく、集団的自衛権行使容認のプロセスを、図らずも、
民主的、市民的に補完・承認してしまっているのではないか。敵は日ましに不穏かつ暴力的になってきているのに、こちらは平穏、
日々これ好日。ファシズムは身中にほどよい反ファシズムをかかえてこそ、より強靱になる。「戦争をさせない1000人委員会」は敵
にとってせいぜいが気の抜けた薬味のひとつでしかない。痛くも痒くも辛くもない。いま起こすべきは、身体を賭した「諍い」ではない
のか。「戦争にもテロにも反対」というスローガンは、かつてもいまも今後も無効である。対談はあまりかみあっていないと感じられた。
ここにも、怠惰のにおいがあった。「思慮ある人は、苦しみながら探求する」(サルトル『ユダヤ人』)という。「戦争をさせない1000人
委員会」が苦しみと探求から生まれたとはおもえない。むしろ、知的怯懦と怠惰の所産である。1000人委員会はむろん、古い石鹸
箱のように、あったってよい。そして、べつになくてもよいのだ。(辺見庸「日録28」2014/08/05)
http://yo-hemmi.net/article/402883885.html

引用者注:
「あまりかみあっていな」かったのだとしても、「1000人委員会」の呼びかけ人のひとりの佐高信に面と向かってそのの無効性を説い
たところ、佐高がその話を聞いたところ、に一歩の前進があったと私は思います。戦争をさせない1000人委員会は「集団的自衛権
行使容認のプロセスを、図らずも、民主的、市民的に補完・承認してしまっている」という辺見の指摘にどれだけの人が理解と共感
をともにしうるか? 真の「一歩前進」はそこにあるだろう、と私は思っています。

辺見の「身体を賭した『諍い』」という言葉についてもひとこと注をしておきます。弊ブログのフリーエリア欄(左側)に私は辺見の以下
のような講演記録の言葉を引用しています。

     「われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつ
     は深い自由だと私は思わざるをえません。」(辺見庸「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」(2013年8月31日
     の講演記録)【後篇】)
     http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-690.html

辺見の「身体を賭した『諍い』」とはそういうことを言っているのだろう、と私は思います。もっとわかりやすく言うと、辺見は同じこと
を「『ひとり』を意識しましょう。『ひとり』でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかな
いのです」とも言っています。そういうことだと思います。


東本高志@大分
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http://mizukith.blog91.fc2.com/



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