[CML 030655] ある歴史研究者の問い ――先の東京都知事選における「『革新』統一候補者(細川護熙元首相と宇都宮健児元日弁連会長)」の一本化問題に関して

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2014年 4月 5日 (土) 15:40:30 JST


歴史研究者(私は「学者」という言葉のいまのつかわれ方には世俗的な意味での抵抗感がありますので「研究者」という言葉をつかい
たいと思います)の保立道久さんが先の東京都知事選の「『革新』統一候補者」の一本化問題(具体的には細川護熙元首相か宇都宮
健児元日弁連会長かという問題)に関して、政治・社会運動と職能集団との関係、あるいは研究者・知識人の行動のあり方の問題とし
て大切な問題提起をしています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%AB%8B%E9%81%93%E4%B9%85

保立道久さんのご指摘はそのほとんどにおいて当たっていると私は思います。が、その保立さんにしても、細川候補と宇都宮候補の一
本化以前の問題としての宇都宮氏の選挙母体組織としての「人にやさしい東京をつくる会」(後に「希望のまち東京をつくる会」に改称)
の非民主主義的体質の問題、すなわち、「小さな組織権力」を武器にしての少数異見者の暴力的排除(*1)、「小さな権力者」と一般
会員を差別化するという不正義(*2)の問題、宇都宮氏のフライング立候補問題(*3)などなどに関しては氏の問題考察、また、問題
意識の射程外にしていること(おそらくよく知らないということなのでしょうが、そのよく知らないということ自体が「政治・社会運動」とも密
接に関わる「研究者・知識人の行動」以前の「組織のあり方」の問題に対する氏の問題意識の薄弱さが露呈しているように私には見え
ます)など私としては許容しがたい論点の逸失が見受けられます。
*1:http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-735.html
*2:http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-736.html
*3:http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-772.html

しかし、保立道久さんの政治・社会運動と職能集団との関係、あるいは研究者・知識人の行動のあり方に関する問題提起そのものは
拝聴するに値するものと思います。以下、ご紹介させていただこうと思います(強調は引用者)。保立道久さんの論の紹介は私にとって
は2本目になります(1本目は「保立道久さん(歴史学者)の問題の本質をつくカッコつき「脱原発政党」批判と環境学者知事としての嘉
田由紀子氏批判」の読み方」というものでした)。
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-511.html

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■「対談、都知事選挙をめぐって」(河合弘之氏と海渡雄一氏)、『世界』について(保立道久の研究雑記 2014年4月4日)
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-e2ff.html

(前略)

さて、都知事選挙について、細川前首相が立候補して、反原発候補の票が割れたことについて、いろいろな意見があるようである。今
後、日本ではこういうことが増えると思う。政治的な諸問題は山積であり、研究者の世界でも大きな点での一致はあるとしても具体的
な判断となると懸隔が広い。

私は、日弁連の前会長、宇都宮氏の選挙の仕方は重要だと感じた。残念な結果にはなったが、首長選挙への立候補者のあり方とし
ては引き継ぐべきあり方であると思う。宇都宮氏は早くから弁護士として貧困問題にとり組んでおり、たしか反貧困ネットの代表であっ
たと思う。若いアクティブな人たちから強い支持をうけているようである。と同時に日弁連の前会長であるというのがいいと思う。

結局、社会的な問題を解決していくためには、社会運動に生活をかけてフルタイムで活動する人々がいる結社団体や政党が必要で
ある。アランの言い方だと、これが市民社会の保証であるという訳である。しかし、その上で、さらに(1)専門性をもった職能団体の動き
と、(2)地域の日常的な住民運動が存在することがどうしても必要である。

そういう社会的な専門性のネットワークやコミュニティに支持される人が、社会運動団体を代表して候補者となって、選挙によって首長
の職につくということが理想的だと思う。国会の場合は政党なしには無理であるが、地方自治体の首長の場合は、それが自然であり、
可能である。社会はそれによってしか変わっていかない。職業のネットワークと地域のコミュニティ、社会のアソシエーション、社会の連
帯、連携の上にたって、しかし結局一人一票で全体の動きが決まっていくという雰囲気に進まざるをえないはずである。

しかし、問題は、政治・社会運動と職能団体、地域団体の関係である。それは十分に整理して考えておくべきことだと思う。

先日、京都からの帰りに買って『世界』(4月号)の都知事選についての記事を読んだ。とくに「都知事選挙をめぐって」という河合弘之
氏と海渡雄一氏という弁護士同士の対談を読んで考えることが多かった。

『世界』編集部が書いた、この対談を説明するリードは次の通り。

お二人は長年にわたり弁護士として脱原発運動にかかわってこられ、脱原発弁護団全国連絡会の共同代表をつとめてこられました。
そのお二人が今回の 東京都知事選挙では、脱原発を掲げる二人の候補者が立ったことにより、河合さんが細川護煕候補を応援す
る勝手連の共同代表を、海渡さんが宇都宮健 児候補の選対副本部長をそれぞれつとめられました。脱原発運動の亀裂を心配する
声もあります。そこで今日はお二人からお話をうかがいます。

つまり、この対談は、これまで法曹界の中枢で原発に反対する住民訴訟を中心的に担っていた二人の弁護士が、今回の都知事選
への前首相・細川氏の立候補への対応で、意見が異なり、それが脱原発運動の亀裂をもたらすのではないかという危惧もあっても
たれたということであるようである。

驚いたのは、法曹界のなかで、直接に政治的な判断だとか、相談だとかが行われていて、それが事態に大きく影響したということ自
体である。

つまり、河合弁護士が細川前首相・小泉前首相コンビの立候補の意思を知って、海渡弁護士に電話をして、宇都宮氏は降りるべき
ではないかといい、さらに1月15日に海渡弁護士に「脱原発勢力は鎌田慧さんが細川支持でまとめる。あなたの立場はわかるが、
あなたの将来を心配している」というメールをしたということである。ようするに、「脱原発勢力は鎌田慧さんが細川支持でまとめ」、法
曹界の関係者は河合弁護士がまとめるということである。

こういうことには違和感がある。

もちろん、御二人の議論は率直なもので読んでいても面白い。必要な議論なのだろうとも思う。河合弁護士の意見は「勝とうとする以
上は、勝つ見込みがある候補に絞ろうとするのは戦略上、やっぱり当然だと思う」ということである。そういう意見はありうるだろう。

しかし、いくらなんでもすでに立候補した候補に対して立候補辞退をいうのは、職業的な立場をこえて「政治」にかかわりすぎであるよ
うに思う。弁護士は、そこまでは政治にかかわらない方がよいのではないか。もちろん、市民として選挙運動をするのは自由であり、
たとえば海渡さんのように日弁連の会長にいた宇都宮氏を事務局長として支えた続きのようにして選挙対策本部に入るということは
あるだろう。そして、河合氏が同じように細川氏の選挙対策本部に入るということはあるだろう。それは個々人の意思であり、自由で
ある。しかし、経過のなかで異なる候補者を押した場合、どちらかに辞退するようにいうなどというのは職能的な範囲をこえて政治的
に動くということのように思う。

しかも、鎌田慧氏や河合氏は細川陣営として責任ある立場にいた訳ではない。勝手連ということであるということである。両組織の
公的代表として、正式に統一候補について話しあうということならばあるであろうし、それがたまたま弁護士同士になったということは
あるであろう。しかし、それもなしに、弁護士同士の知人関係によって話しをするというのは常識のある行動とは思えない。もし、それ
で海渡氏が説得されたとしたら、これは公的な問題を弁護しというムラ社会のなかで決めたということになる。そういう話しをすること
自身が、厳密にいえばムラ構造の一種であろう。原発の訴訟団の共同代表の関係にいるというのも、あくまでも主体は原告自身の
はずであり、弁護士は専門家・実務家としての代弁者である。真の意味での運動の当事者ではないということはわかっているはずで
ある。

現在の政治状況では弁護士のような見通しのきく立場にいる人に、いろいろな判断が要請されるということはあると思う。そこでとも
かくも「善意」で行動したということもわかる。それにしても、やはり、こういうムラ的な構造は、政治・社会運動と職能集団との関係とし
てはまずいのではないか。こういうことをいうのは、河合氏への批判ではなく。研究者・知識人の行動のあり方の問題として、ここには
考えておくべき問題があると思うからである。こういうレヴェルで感じ方を共有することは大事だと思う。

私は、ドイツのようにすぐに日本の支配的な政治家が原発の廃絶にむかって動くとは考えられない。原発の推進は、アメリカの意思、
そして経団連と財界の強い意志という体制によって強力に支えられている問題である。そして独占的な利益に目がくらんで愚劣の基
礎の上に展開した無責任構造である。これを突破するのは並大抵のことではない。ドイツではチェルノブイリ以降、長期にわたる反
原発運動があり、自然エネルギーにむけての実際の前進があり、その上での決断である。この号の『世界』の記事だと「オーストリア
の原子力へのノー」を参照されたい。オーストリアでは1978年の国民投票で原発推進が止まったのである。30年前。チェルノブイリ
の7年前である。

私見では、そもそも日本の支配的政党は自立的な判断をする賢さをもっていない。ドイツの政治は、ともかく民族の内部で自立的に
判断をし、議論をする力をもっており、財界もそれだけの見識を蓄積してきている。

もちろん、細川氏や小泉氏が原発をやめるという意見をいい、そう行動しようとしたことはよいことである、これは常識で考えれば、
従来のようにはやってられないということが誰でも分かるはずであるということである。しかし、細川氏は、選挙告示をすぎてもしかる
べき公約すら発表しなかった。これは失態である。失態はだれでもあろうが、前首相がやることとは思えない。こういう動き方では、原
発からの撤退ということが、どれだけ困難なことかを十分に認識していたとは思えない。 


とくに、小泉氏は首相のときに、原発の推進にも明瞭な責任のある人物である。政治家としての見識というものは、考え方の一貫性で
あり、剛直さであり、間違ったら間違ったということを潔く認め、過去の間違いを率直に反省することだ。それができない人間でも、原
発推進の側にいたのがまずかったと思い、それを発言することはよいことではある。しかし、本当の意味での真剣さがあり、成熟した
社会人であると思ってほしかったら、今後の行動でそれを示してもらうほかない。国民は個人としてはまったく対等平等である。前首相
であるからといってなんの特権も説得性もない。

私のような学者は、社会運動に部分的に参加したり、協力したりするのが限度である。政治や政策、政党の支持は当然にあり、思想
信条の自由は当然のことであるが、しかし、政治の上での妥協だとか、連合だとか、具体的な動き方だとかは、学者の発言するべき
ことではない。私はそれが当然だと思う。そういうことをやれば、それは学者や弁護士や評論家という職能によってえている社会的地
位や諸条件を別の形で利用するということで、私などからみると、一種の地位利用であるようにみえる。

私たちは政治の専門家ではないので、個々の局面での政治的な責任はとれないことを覚悟するべきであると思う。それは、弁護士に
しろ、ジャーナリストにしろ、小説家にしろ、評論家にしろ、基本的には同じことではないだろうか。職業と政治は違う。だから私たちは
何よりも虚心になって、自分の仕事を通じて社会的な責務を果たしていくほかない。おのおのの学術や専門性を通じてすこしでも説得
力を高め、そして隣接する分野との連携をつよめて意思ある人々の間で相互に議論しつつ総合性を高めていくほかない。そこに集中
し、同じ職業の間、そして異なる分野間相互に信頼しあうルートをつけていくのが絶対的な近道である。それは下から支えていくことし
かできないが、しかし、都合のいい短絡経路は存在しないと思う。

なおもう一つ、河合氏の発言で気になった点。「細川氏が小泉人気を背景にしてブームを起こして勝しかない。保守と革新が一体にな
って脱原発へ進んでいく第一歩にしたい」という発言である。私は、「保守と革新」という考え方をしない。日本社会には「保守勢力」らし
い保守勢力がいなくなってしまった。そもそも民族的な大局的利害、長期的利害というものを考える力が非常に弱くなっているのでは
ないだろうか。さらにいえば、小泉氏は保守というにたる人物であろうかということである。
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東本高志@大分
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