[CML 026572] 辺見庸の思想と twitterの「思想」の不似合と「機器の孤独」

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2013年 9月 15日 (日) 21:05:53 JST


辺見庸は先々月の7月16日から先月の8月30日までの45日間、「不稽日録」と題した日録を自身のインターネット上のブログ(辺見
庸ブログ)に公表していました。辺見は先月の31日に「これまでのように主催者側の要請によるものではなく、わたしがはじめて(年が
いもなく)衝動的に志願し」た講演会を東京・四谷の会場で催しましたが(辺見庸ブログ「8月31日の講演について」)、その講演会に向
けての準備作業のようなものとしての日録の公開ということだったでしょう。売文をほとんど唯一の収入源とする辺見にとっておのれの
稼業を自ら否定するような行為をおのれ自身があえてすることになるわけですから、辺見にとって8月31日の講演会にかける思いは
それほど尋常ではないものがあった、ということになるでしょう。私は辺見のその行動にある予感のようなものを感じましたが、しかし、
その辺見の尋常ではない思いがどのようなものであったかについてはいまだに判然としません。

ところで、その「不稽日録」の8月11日付けの項に次のような一節がありました(8月31日を過ぎたいまは「日録」は削除されています)。

      「コーヒーを飲んでいると、トイレにちかいテーブルから赤い縁の眼鏡の女がちかよってきて、腰をかがめたままいきなり話し
      かけてくる。目のはしがすこし笑っている。口臭。なんのにおいだろう。産まれたばかりの子猫の、腥いにおいだ。ああ、いや
      だ。コーヒーを吐きだしそうになる。『あなた、ツイッターやってらっしゃいますよね。毎日たくさんハッシンしてますよね・・・』。
      そんなものやってませんよ。憮然として答えた。すると女はあたりをうかがい小声にして『お写真も、ほら、でてるし、非公開じ
      ゃないんでしょ。あたしもフォロワーなんですよ。握手してください!』。女は右手でスマートフォンをさしだし、左手で握手を求
      めてくる。スマートフォンには、たしかにわたしの顔らしい写真がある。たぶん倒れる前のだ。なにか短い文のようなものもあ
      る。これはなんなのだろう。腐った海藻がからだにまとわりついてくる。意識のなかにことわりもなく巣くい、うごめいている他
      者の意識。なんてこった。全体から切りはなされれば、もはやわたしのものではない、かつてのわたしの片言隻句が、順不
      同にかってに抜き書きされて、わたしの名前でだれかと交流している。気味がわるい。ウンベルト・エーコはかつてわざと贋
      作をしてみたというが、自身が自身をまねたらどうなるか、という罪のない悪戯だった。これはちがう。頭が小さく、尾は左右
      に扁平でオール状、ほとんどが無自覚的に有毒だという、透明な意識のミズヘビを想う。スマートフォンを左手で払いのけ、
      おもいっきり睨めつけてから、低い声で、アンタ、アッチイケヨ!とすごむと、女はわなわなと怯えて眼鏡をずりさげ後ずさっ
      た。店中の者がわたしを見る。こうなったら、やるかやられるか、だ。わたしは8月のこと、わたしが生まれた年のことを、ひ
      とりでおもいたかったのだ。」(「不稽日録」2013/08/11)

辺見はツイッターをしていません。というよりも、その現代的通信機器にむしろ「腐った海藻がからだにまとわりついてくる」ような嫌悪
感を感じてさえいる。辺見は体に変調をきたしたいまでこそパソコン代わりに携帯を多用しているようですが、その携帯すらかつては
「頭蓋骨のなかを蟻がはいまわるみたいだ」と嫌悪していました。「機器の孤独」というエッセーの中で辺見は次のように書いています。

      「公園だって安心できない。/夜更けに集合住宅の児童公園の前を通る。ジャングルジムのあたりから押し殺した声がす
      る。足が凍りつく。『絶対、許せない』。女だ。『殺してやりたい』と声はつづく。殺したい相手はそこにいない。夜陰に乗じた
      つもりで、ひとり呪っている。顔を高層住宅の上に向け、やはり招き猫の手つきで。たぶん、なかにファミリーがいる。亭主
      がやはり押し殺した声で姿なき女に応じているのだろう。『君、困るよ』とかなんとか。」

      「人を恨むのはいい、怒鳴るのも結構。だが、伝達のしかたが不気味だと思う。/携帯電話のある風景とそれほど和解で
      きないのなら、と友人は諭す。『君も一台持つことだ。ともに病むのさ』。/名案である。三千六百万台という携帯電話とP
      HSの音が、この国の頭蓋骨のなかを無数の狂った蟻みたいにざわざわと迷走している。加入が一人増えたところでどう
      ということはない。が、だめだ。そうまでして語るべきことはなし、伝えるべき相手も、よくよく考えれば、いやしない。それ
      に、自分が一個の動く端末になるという想像にひるむ。」

      「かつて、紛争中のソマリアからインマルサットの移動電話で東京と交信したことがある。砲声に怯えながら話しているの
      に、いやに音声明瞭なのが間尺に合わぬ気がしたことだ。東京側は、音声明瞭なら万事伝達可能と信じているふしがあ
      り、それも阿呆らしく思われた。/機器が的確な伝達と描写を可能ならしめるのでない。眼前のおびただしい死は、機器
      などどうあれ、言葉に腐心してさえ容易に語れるものでなく、かりに描写できたにしても、東京のふやけた言葉には所詮
      なじまない。死はつまり、二カ所の端末間で接続不能の何かだった。/通信機器は夏場のアメーバのように元気に増殖
      しているのに、言葉は瀕死ではないか。愛にせよ、怒りにせよ、意志の伝達がじつはいま、ことのほか難しい。孤独な風
      景は、機器で結んでも孤独なのだ。いや、機器でつなぎとめようとするから、かえって孤独なのだ。」

      「携帯電話のある風景を私は好かない。やかましく、何だか人も言葉もひしゃげている。しかし、これは私たち『大衆』(私
      の用語でないけれど)の像の、いつとても変わらぬ痛々しさというものではないかという気もする。病んでいるといえば、
      いつも病んでいるのであり、機器に言葉が蚕食されて、たたずまいが昨今ますます寒々しくなっているだけだ。」(「機器
      の孤独」。辺見庸『眼の探索』所収 朝日新聞社 1998年)

      引用者注:辺見庸の「機器の孤独」の全文は以下で読むことができます。 

      http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/4769062.html

その辺見がツイッターを嫌悪する理由は上記の16年前の「機器の孤独」というエッセーからも推し測ることができるでしょう。辺見
はほんとうにツイッターという現代の通信機器が嫌いなのです。「やかましく、何だか人も言葉もひしゃげている。しかし、これは私
たち『大衆』(私の用語でないけれど)の像の、いつとても変わらぬ痛々しさというものではないか」、と。

その辺見の文章(この場合は神奈川新聞のインタビュー記事)の転載記事をツイッターで知ったという理由でさらに転載する人が
います。転載記事のテーマは「『現在は戦時』辺見庸のすごみ」。しかし、私は、「辺見庸のすごみ」をほんとうに知って記事を紹介
しているのか、と疑わしく思います。ツイッターと辺見庸の思想はあまりに不似合な現代「思想」と現代「機器」のミスマッチ、あるい
は対峙のように思えるからです。

ところで、「世に倦む日日」ブログの筆者がこの神奈川新聞のインタビュー記事について「それにしても、この神奈川新聞の記事
は、何とも締まりのない内容の文章だ。記者は若いのだろうか」と批判しています(「辺見庸の『個として戦端を開け』 - 刺激的で
挑発的な」 世に倦む日日 2013-09-12)。
http://critic5.exblog.jp/21004088/#21004088_1

この「世に倦む日日」ブログの筆者の批判は同インタビュー記事を読んだ私の感想とも一致します。同記事の一行目にこのイン
タビューをした記者は「喉がしきりに渇いた。喫茶店で向き合った辺見庸さんの問いに、即座に答えられずにいた」と書きます。
その冒頭の一行を見て、私はこの記者は「若いな」と直感しました。冒頭の書き出しに「喉がしきりに渇いた」という節を置くのは
あまりにセンチメントにすぎます。記者はなんとか自分の情念を表白したいのです。だから、そう書く。しかし、私ならば、直に「喫
茶店で向き合った辺見庸さんの問いに、即座に答えられずにいた」と冒頭の一節を書き出します。そのように抑えた表現の中に
こそ伝えうるべき情念はあるだろうし、その情念はよく伝わりうるものだろうと思うからです。これは私のこれまでの経験に即した
文章論です。それを押し売りするつもりは毛頭ありませんが、この記者は「若いな」と感想を抱いたことはたしかです。

その点において私はこの「世に倦む日日」子の批評は評価できるのですが、私から見れば、この「世に倦む日日」子自身の文章
にも到るところに若書きの部分が見出せるのです。「世に倦む日日」子は言います。「辺見庸が、9/8の神奈川新聞のインタビュ
ーに登場して記事が上がっている。その中でこう言っていた。『個として、戦端を開いていくべきだ』と。そのとおりと頷くけれど、個
として戦端を開いている人間が実にいない。TWをやりながら、しみじみそう思う」。「TWなどというものは、そのシステムの特性か
らしても、わずか140字の言論で事足りる点からも、辺見庸の言う『個として戦端を開く』行動に最も具合のいい道具だ。最適の武
器だ」。また、こうも言います。「TWで、私は積極的に苛立つ姿を見せようとしている」。この人も辺見庸の文章をよく読み終えてい
ない人だなと私は思います。

それなのに上記の「辺見庸が、9/8の神奈川新聞のインタビューに登場して」云々の後に続けて次のようにも言います。「辺見庸
がこういう話をする。そうすると、必ず、辺見庸さんがこういうことを言っていると、その情報をリンクする人間が何人も出てくる。
いわゆる良識的なリベラル派市民で、中には、辺見庸信者としか呼びようのない類型もある。昔からのネットの中の風景だ。し
かし、ただURLを張り込んで流すだけで、そこから何か議論を起こすということがない。(略)そこから、発奮して、覚醒を跳躍のエ
ネルギーとして、個として戦端を切り開く勇者が出現しないのだ。敵に、ファシズムに、挑みかかり、噛みついていく戦闘者がいな
い」。

その「辺見庸信者」批評はあながち間違っているとは私は思いません。さもありなん、と私も思うところが多々あります。が、その
節の最後は次のように続いていくのです。「TWなどというものは、そのシステムの特性からしても、わずか140字の言論で事足り
る点からも、辺見庸の言う『個として戦端を開く』行動に最も具合のいい道具だ。最適の武器だ」、と。この人も「若いな」と私が思
うゆえんです。


東本高志@大分
higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
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