[CML 026428] リベラルの胡散臭さ

hayariki.net info at hayariki.net
2013年 9月 9日 (月) 21:12:09 JST


リベラル(liberal)は何となく肯定的に評価される言葉であるが、リベラルを売りにする人々の胡散臭さに注意する必要がある。リベラルという曖昧な言葉に逃避する害悪に注目すべき時期に来ている。言うまでもなく、リベラルを称する人々に真っ当な人が存在することを否定するものではない。しかし、彼らを評価する際に「リベラルだから」とすると何の本質も見えなくなる。 

リベラルという言葉は多義的であり、何も言っていないに等しいことである。現代日本でリベラルと言えば左派リベラルを連想することが多い。保守リベラルという言葉もあるが、これもバリバリの保守よりは少し左寄りとなる。一方で新自由主義的な立場をリベラルと称すこともある。二十世紀米国ではリベラルは左派であるが、リベラルの本来の意味や十九世紀イギリスの政治的文脈を踏まえれば、新自由主義者をリベラルと呼ぶことも正しい。 

さらに米国流左派リベラルにしても、日本で期待されている左派リベラルと比べれば保守的である。日本には日本の政治課題があり、日本のリベラルが英米のリベラルと異なっても問題ないと正当化することはできる。しかし、それをリベラルという外来語で表現することに何の意味もない。イメージ戦略でリベラルという言葉を選択する人々の胡散臭さを隠すだけである。 

かつて私も自己の主張だけが唯一絶対という偏狭で独善的な左翼教条主義への対抗価値としてリベラルを規定しようとしたことがある。しかし、その種の左翼教条主義と一線を画したいならば、多様性の尊重なりポストモダン的な価値多元主義なりをストレートに宣言すればいい。それをリベラルと称しても立場は伝わらない。 

単に過激な主張を排除し、バランスが取れていることをアピールしたいためにリベラルという言葉を用いることは有害である。今ではリベラル派の前提にさえなっている脱原発も福島第一原発事故前は過激な主張であった。リベラルという枠をはめることは停滞になる。 

今や貧困ビジネスやブラック企業・ブラック士業など現代日本の資本主義は末期症状にある。企業経営者(「ZOZOTOWN」運営のスタートトゥデイ前澤友作社長)さえ以下の指摘をしている。 

「資本主義はそもそもシステム上、労働者に優しいものではありません。いかに安い労働力を使って大きな利益を上げるかが至上命題でしょう?そのシステムに乗っている以上、すべての企業が「ブラック企業」になり得るのではないでしょうか。資本主義を否定しなければ、すべての会社がブラック企業予備軍ですよ。 

僕らは資本主義をそもそも良くないと思っている節があるから、パラダイムシフトを起こしてチャレンジしようとしているんです。」(原隆「資本主義を否定しなければすべてがブラック企業予備軍だ」日経ビジネスオンライン2013年9月2日) 

市民派には脱資本主義・反資本主義の問題意識が求められる。かつてのように共産主義という脱資本主義の唯一の正解が与えられている状況ではない。ソ連や中国の共産主義は真の共産主義ではないとの主張は一つの主張であるが、かつてのように共産主義が思想界で圧倒的な優位性を有している時代ではない。各人が自分達で脱資本主義を模索しなければならない。これは、ある意味では過激である。そこにリベラルという感覚は足枷になる。 

その意味で宇都宮健児氏が東京都知事選挙で市民派統一候補となったことは意義深い。宇都宮健児氏は反貧困という資本主義の矛盾を突く運動に取り組んできた。多重債務問題への取り組みではサラ金という一つの産業を破綻に追い込んだ。これを痛快と拍手できる人は残念なことに日本では多数派とは限らない。 
http://hayariki.net/futako/23.htm
多くの日本人は悪徳企業の倒産に際しても、被害者の思いよりも、従業員の今後を心配するようなメンタリティがある。しかし、脱原発にしても「コンクリートから人へ」にしても本気で実現するならば一つの産業を潰すくらいの覚悟が必要である。これは穏健ぶったリベラルでは到底できないことである。 

宇都宮けんじ候補が2007年東京都知事選の浅野史郎候補ほど得票できなかった要因は、宇都宮候補が浅野候補と比べてリベラル色が弱かったためである。これは得票の限界になったが、市民派の立ち位置を示す確固とした出発点になる。
-- 
林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』
http://www.hayariki.net/
http://hayariki.zero-yen.com/


CML メーリングリストの案内