[CML 027046] 「大衆蔑視」ということについて ――前便の山口泉氏(作家)の<なぜ(この国の?)大衆は、最低限の反骨心・批判精神・独立不羈の志も持ち合わせないのだろう>という発言の引用に関して

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2013年 10月 13日 (日) 18:23:34 JST


現代社会はしばしば19世紀の社会形態との対比において大衆社会とも称されますが、現在的な意味での「大衆」という言葉もその
大衆社会の成立とともに新しい意味を帯びて派生した新概念の言葉だとみなしてよいでしょう。その意味での「大衆」という言葉を普
及させる役割を果たしたのがさまざまな論者の政治学や社会学の分野におけるいわゆる「大衆社会」論ですが、そのすべての(と
いってよい)論者に共通しているのは「大衆はいつの時代も二律的な存在である」という認識です。

この点についてのすべての「大衆社会」論の認識を網羅することはできませんので「大衆社会」論の萌芽のひとつとして中学や高校
の社会科の教科書等にも引用されることの多いE.フロム(ドイツの精神分析学者)の「大衆」論の認識を例として挙げておきますと、
フロムは、ドイツの労働者階級や下層中産階級の人びと、いわゆる大衆が、なぜナチズムのイデオロギーを支持し、自発的に服従
したのかを問う中で「社会的性格」という概念に想到しました。フロムによれば、社会的性格はひとつの集団の大部分の成員がもっ
ている性格構造の本質的な中核であり、それが社会制度の期待と矛盾するとき、社会制度に対する反発と対立を引き起こし、社会
変動の起爆剤となります(『自由からの逃走』)。このフロムの認識からもわかるように、フロムは、大衆を「ナチズムのイデオロギー
を支持し、自発的に服従した」存在とみなすとともに「社会変動の起爆剤となる」ともみなしています。すなわち、「大衆は二律的な存
在である」とみなしています。これがフロムに限らず「大衆社会」論を論じる論者に共通した認識です。

そこで、前便で引用した山口泉氏(作家)の<なぜ(この国の?)大衆は、最低限の反骨心・批判精神・独立不羈の志も持ち合わせ
ないのだろう>という発言の、その中で遣われている「大衆」という言葉の真意について見てみます。山口氏はここで「大衆」という
言葉を否定的な意味で用いていますが、その否定は「大衆」の二律性の一面の指摘にすぎません。

山口氏はかつて「百姓」(大衆)の「怒り」ということについて次のように語っていたことがあります。

      「人間のあらゆる感情のなかで、最も清潔なものは何だろう? それは怒りであると、私は思う。/的確な論理と厳密な倫
      理とに裏打ちされた、ほんとうの怒りとは、何と清潔な感情であることだろう」(『世界』1996年6月号)

      また、

      「『怒り』こそ真正の意味で論理的な表現というべきではないか」(『松下竜一 その仕事』第15巻「砦に拠る」解説)

一般に百姓は無教養で、「的確な論理と厳密な倫理」など持たないものと考えられています。その「的確な論理と厳密な倫理」を持た
ないはずの百姓の怒りが「真正の意味で論理的」とはどういうことでしょう。たしかに百姓は論理的に言表することはできないけれど
も(ここでの「百姓」という表現は、いうまでもなく象徴的な意味合いにおいて用いられているもので、むろん、蔑みの意味はまったくあ
りません)、その長い困苦が皺となり、痩せさらばえた心骨から発せられる(た)「怒り」の聲の中にこそ「真正の意味で論理的」なもの
がある、「清潔な感情」がある、と山口氏は言っているのだろうと私は思います。ここでの「大衆」の二律性の一面の指摘は肯定的な
ものです。

山口氏の前便で紹介した発言=表現の一部を捉えて「大衆蔑視」というのは、山口氏の思想の全体像を見ていない当たらない評価
だと言っておかなければならないでしょう。

ちなみに辺見庸(作家)の「大衆」論にも次のようなものがあります。

      「まっとうな怒りをせせら笑い、まあまあととりなして、なんにもなかったように見せかける(略)。記憶するかぎり、老いも若き
      もこんなにも理念をこばかにし、かつまた、弱きを痛めつけ強きを支える時代ってかつてなかった。これほど事の軽重をとり
      ちがえながら賢し顔を気取っている時代もなかった。」(『単独発言』 角川書店 2001年)

上記の辺見の言葉は、「鵺(ぬえ)のように全体主義化」(『眼の探索』)する現代の大衆状況を止揚しようとする彼の思想営為の一環
として出てくる言葉です。この辺見の言葉しも「大衆蔑視」の言と言いますか?

話題のついでにもう一点。コイズミなる男を痛烈に批判している辺見庸の「糞バエ」発言もご紹介しておきましょう。

      「私は人としての恥辱についてもっと語りたいのです。おそらく戦後最大の恥辱といってもいいくらいの恥辱、汚辱……そう
      したものが浮きでた、特別の時間帯があった。そのとき、私たちの多くは、しかし、だれも恥辱とは思わなかった。が、恥を
      恥とも感じないことがさらに恥辱を倍加させる。ひょっとしたら、それは私の脳出血に関係するかもしれません。私はカーッ
      としました。「これをただ聞きおくとしたら、思想も言説もまともに生きてはいられないはずだ」と思いました。それはいつ起き
      たか。忘れもしない二〇〇三年の十二月九日です。名前を口にするのもおぞましいけれど、コイズミという一人の凡庸な男
      がいます。彼が憲法についてわれわれに講釈したのです。まごうかたない憲法破壊者が、憲法とはこういうものだ、「皆さん、
      読みましたか」とのたまう。二〇〇三年十二月九日、自衛隊のイラク派兵が閣議決定された日です。コイズミは記者会見を
      して憲法前文について縷々(るる)説諭した。こともあろうに、自衛隊をイラクに派兵するその論拠が憲法の前文にある、と
      いったのです。およそ思想を語る者、あるいは民主主義や憲法を口にする者は愧死(きし)してもいい、恥ずかしくて死んで
      もいいほどの、じつにいたたまれない日でした。いやな喩えだけれど、それは平和憲法にとっての「Day of Infamy」でした。

      二つの意味で屈辱的でした。最悪の憲法破壊者であるファシストが、まったくデタラメな解釈によって、平和憲法の精神を満
      天下に語ってみせたということ。泥棒が防犯を教えるよりももっと悪質だと私は思います。ナチスとワイマール憲法の関係を
      私は想起したほどです。ナチスはただ単純な憲法破壊集団ではなかった。一応は憲法遵守を偽装し、「民主的」手つづきで
      独裁を実現しようとしてワイマール憲法四十八条の大統領緊急令を利用したり、全権賦与(ふよ)法案を議会でとおすなか
      で独裁を完成していく。つまり、ワイマール憲法の権威をいっときは利用もし、世論を巧妙に欺(あざむ)いた。いうまでもなく、
      これと日本の現状を比較するのには明らかな無理がありますが、コイズミ的なるものへの世論の無警戒には、なにやら過去
      の恥ずべきぶりかえしを見ざるをえません。これが第一番目です。

      二つ目。コイズミの話を直接聞いていたのはだれだったのか。政治部の記者たちです。彼らは羊のように従順にただ黙って
      聞いていた。寂として声がない。とくに問題にもしなかった。翌日の新聞は一斉に社説を立てて、このでたらめな憲法解釈に
      ついて論じたでしょうか。ひどい恥辱として憤慨したでしょうか。手をあげて、「総理、それはまちがっているののではないです
      か」と疑問をていした記者がいたでしょうか。いない。ごく当たり前のように、かしこまって聞いていた。ファシズムというのは、
      こういう風景ではないのか。二〇〇二年に私がだした『永遠の不服従のために』(毎日新聞社刊、講談社文庫)という本で書
      いたことがあります。やつら記者は「糞バエだ」と。友人のなかには何度も撤回しろという者もいました。でも私は拷問にかけ
      られても撤回する気はない。糞バエなのです。ああいう話を黙って聞く記者、これを糞バエというのです。ただし、糞バエにも
      いろいろな種類がある。女性の裸専門の雑誌に書いて、ブンブンとタレントにたかりついている糞バエ。私は彼らの悲哀を
      わかります。フリーランスの記者が、ものかげに隠れて何時間も鼻水を流しながら、芸能人の不倫現場をおさえようとする。
      それは高邁(こうまい)な志はないかもしれない。でも、生活のためにそれをやっている。私はそれをかばいたい気がします。

      許せないのは、二〇〇三年十二月九日、首相官邸に立って、あのファシストの話を黙って聞いていた記者たち。世の中の
      裁定者面をしたマスコミ大手の傲岸な記者たち。あれは正真正銘の、立派な背広を着た糞バエたちです。彼らは権力のま
      く餌と権力の排泄物にどこまでもたかりつく。彼らの会社は巨額の費用を投じて「糞バエ宣言」ならぬ「ジャーナリズム宣言」
      などという世にも恥ずかしいテレビ・コマーシャルを広告会社につくらせ、赤面もしないどころか、ひとり悦に入っている。CM
      はこういう。「言葉に救われた。言葉に背中を押された。言葉に涙を流した。言葉は人を動かす。私たちは信じている。言葉
      のチカラを。ジャーナリスト宣言」。これはまさにブラック・ユーモアです。あるいは、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』に
      でてくる「ニュースピーク」や「ダブルシンク」の日本版です。言葉を脱臼させ根腐れさせているのは、なにも政治権力だけで
      はない。マスメディアが日々それをやり、情報消費者にシニシズムを植えつけている。あれをもっとも憎むべきだ、軽蔑すべ
      きだと私は思っている。しかし、みんながそうだから、脱臼した言葉のなかで暮らしているから、糞バエでも恥知らずに生き
      ていける。われわれも糞バエになればいいわけです。コイズミがなにをしようが、憲法前文についてどういおうが、「そうです
      か」と。あるいはちょっとシニカルに「ああ、あんな人だからね」と。でも、一瞬の蘇生というものがあるではないか。一刹那の
      覚醒というものがあるのではないか。(辺見庸『いまここに在ることの恥』「憲法と恥辱について」【戦後最大の恥辱】より)


東本高志@大分
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