[CML 026922] 式年遷宮 伊勢と出雲 原武史さんが選ぶ本 ほか

BARA harumi-s at mars.dti.ne.jp
2013年 10月 6日 (日) 12:31:53 JST


新聞記事・
朝日新聞・
9月29日
http://book.asahi.com/reviews/column/2013100100002.html
伊勢と出雲 原武史さんが選ぶ本

■国家神道とともに序列付け

 今年は、20年に一度の伊勢神宮(正式には神宮)の式年遷宮「遷御の儀」と、
60年に一度の出雲大社の遷宮「本殿遷座祭」とが重なる記念すべき年である。
だが、同じく遷宮といっても、両者の内容は全く異なる。
 式年遷宮というのは、原則として20年おきに社殿をそっくりそのまま作り替え、
神体の鏡を移すことを意味する。伊勢神宮では、7世紀後半から始まり、途中
中断や延期があったものの、1300年以上にわたって続いてきたとされている。
 このため、伊勢神宮の建築は中国大陸の影響を受ける前の日本的な建築
形式が保たれ、歳月に伴う変化を免れてきたと言われてきた。
しかし、井上章一『伊勢神宮と日本美』は、こうした言説が江戸時代から戦後まで、
いかにして形成されてきたかを徹底的に論じることで、その背後に見え隠れする
イデオロギーや、学閥の違いに起因する権力を暴いてみせる。
 もちろん、伊勢神宮と権力が大きくつながるきっかけとなったのは、明治維新
であった。
千田稔『伊勢神宮』(中公新書・777円)は、明治天皇の参拝を機に変わる
神宮の姿を取り上げているが、ジョン・ブリーン「『神都物語』―明治期の伊勢―」
(『近代日本の歴史都市』所収)では、維新以降、内宮のある宇治と外宮のある
山田が宇治山田として一体化し、「神都」と呼ばれるようになるまでの変貌が
分析されている。

■壮大な出雲神殿
 一方、出雲大社の遷宮というのは、社殿をまるごと作り替えて移すことを意味
しない。
そうではなく、建造時の状態を変えないまま本殿の屋根などを直す「修造」をして
いる間、仮殿に移していた祭神(大国主神)を本殿に戻す祭りが、本殿遷座祭
なのである。
千家和比古「出雲大社“平成の大遷宮”」(『出雲大社』所収)は、18世紀までは
出雲大社でも作り替えによる遷宮を繰り返していたのが、19世紀以降、修造
方式に変わったことを指摘する。
 だが、伊勢神宮に比較して驚くべきは、古代から中世にかけての神殿の大きさ
である。
錦田剛志「柱は高く大きく」(同)では、当時の建築を復元した5人の建築学者の
模型が紹介されているが、そのうちの4人が本殿の高さを40メートル以上とする
など、壮大な社殿を推定している。
それは村井康彦『出雲と大和』(岩波新書・882円)が大胆にも推測したような、
山陰を中心に東は北陸や信濃にまで及んでいた出雲王国の栄光を長くとどめる
モニュメントのようにも見える。
 それでも明治になり、国家神道が整備されると、全国の神社は伊勢神宮を頂点に
ランク付けされ、出雲大社もまた否応なしにその下位に位置付けられる。
天皇や皇族の参拝も、出雲大社より伊勢神宮のほうがずっと多くなる。
三種の神器の一つとされる八咫鏡は、伊勢神宮内宮の神体とされ、分身が
皇居の宮中三殿の一つである賢所に安置されるようになる。

■降伏を決めた鏡
 式年遷宮では、この八咫鏡が移される。
しかし、八咫鏡を実際に見た天皇は誰もいないといわれている。
昭和天皇は寺崎英成他編著『昭和天皇独白録』(文春文庫・520円)で、「敵が
伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の
移動の餘裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい」と
述べた。
見えない鏡が降伏を決断させたのである。
    ◇
 はら・たけし 明治学院大教授(政治思想史) 62年生まれ。
著書『〈出雲〉という思想』『昭和天皇』など。

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伊勢神宮と日本美 (講談社学術文庫)
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社殿 混ざり合うアジア
式年遷宮
伊勢神宮と日本

建築史家 井上章一さん
(朝日新聞10月5日 名古屋本社版)


式年遷宮のすぐ後の伊勢神宮の社殿は、まぶしいくらいに
美しい。
ところが明治初期に伊勢神宮を訪れた外国人の記録には、
粗末だ、みすぼらしい、と書かれています。
米国の建築家ラルフ・アダムス・クラムの感想は「醜く
野蛮だ」でず。
これにはちょつと驚きました。
本来、神祇信仰に美しい社殿は要らず、江戸時代までは
今のような立派さを求めていなかったのかもしれません。
これは考えてみる値打ちがあると思います。

当初の古式が元のまま受け継がれているとの説明もある
ようですが、1300年前、遷宮が始まったころのことは
基本的に分りません。
戦国時代には100年以上の断絶があり、正殿は朽ち果て、
その前後でかなり形が変わったとの論証もあります。
槍鉋を使っていたころの柱は、でこぼこしていたはずです。
1929(昭和4)年の遷宮から4年後、ドイツの建築家ブルーノ・
タウトは褒めちぎってますから、明治初めより随分立派に
なったんでしょう。
屋根裏まで全部ヒノキの柾目を使ったように、近代日本が
磨きに磨いていったんですよ。

一方、社殿を日本固有の建塾と思っている人も多いよう
ですが、そうではありません。
鰹木は日本独自ですが、千木があり、棟持柱で支える
高床構遭はインドネシア、マレーシアなど東アジア全域に
広がっていました。
高欄や社殿の配置は中国の影響を受けていて、南方の原始
家屋と中華建築が混ざり合っています。
ただ、棟持柱の高床建築は、黄河流域の中華文期によって
駆逐されていきました。
日本でもほとんど姿を消しましたが、あの形を今に伝えて
いるのは伊勢神宮だけ。
継承のあり方は日本独特のもので、何らかの意図が働いた
のでしょう。
神宮に関する資料や文献に当たり始めたのは、考古学で
発掘された棟持柱を持つ高床建物群が、あちこちで神宮を
手本に復元されていたことに興味をもったからです。
神宮そのものを調ぺたというより、神宮がどんな風に
語られてきたかを見ようとしたわけです。
そういう歴史をみることで、今が相対化できるという
考えからです。
東アジアを顧みず、神宮風に復元する例が多いのは
今日的な神宮観のせいでしょう。
江戸時代から一番原始的な建物が伊勢に残っているという
考えがありましたから、それをいまだに引きずっています。
一国主義史観が、なかなか抜けないのかもしれません。

いのうえ・しょういち
国際日本文化センター副所長・教授。
「伊勢神宮 魅惑の日本建築」など。
風俗史家でもある 



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