[CML 026914] 『風立ちぬ』戦争美化か反戦か

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2013年 10月 5日 (土) 16:45:37 JST


映画『風立ちぬ』は戦争美化か反戦かという大きな議論を巻き起こしている。どちらの見方も成り立つものであり、批判すべきは根っこの特殊日本的精神論にある。 

映画では特別高等警察という軍国主義の暗部が描かれている。主人公には国を滅ぼしたという反省も述べさせている。映画が直接描かない戦争被害の悲惨さは、鑑賞者の想像力で十分補えるように描かれている。それ故に『風立ちぬ』を教条主義的に批判して、まるでネット右翼と同じ側に追いやってしまうことは偏狭である。 

一方で映画には侵略される側の痛みという視点はない。被害者感情は豊富であるが、加害者意識に欠けるという日本人一般の意識を反映している。宮崎駿監督は「戦争の時代を一生懸命に生きた人が断罪されてもいいのか」と擁護する。しかし、その時代に獄中で侵略戦争反対を貫いた人々がいたことを考えると、自分の持ち場で精一杯に生きたことを素晴らしいとは思わない。むしろ、そのような人々が戦争体制を支えたと批判できる。 

この点はスタジオジブリの過去の名作と対照的である。「戦争の時代を一生懸命に生きた」だけでは『風の谷のナウシカ』は成立しない。ナウシカは王道楽土を建設するという侵略者の論理と戦った。『天空の城ラピュタ』のシータとパズーは滅びの呪文バルスによってラピュタを滅ぼした。『もののけ姫』は歴史で無視されがちな公界の民にスポットライトを当てた。『紅の豚』は戦いの美化という点では『風立ちぬ』以上に批判されてもおかしくないが、主人公はアウトローである。これらに対して『風立ちぬ』は体制を支える側の物語である。 

映画『風立ちぬ』を戦争美化と見るか反戦と見るかは、反戦平和運動の立ち位置によって変わる。戦争の時代を一生懸命に生きた人よりも、戦争の時代を抵抗した人に魅力を感じる。一方で戦争中に戦争反対を貫いた人々の系譜だけが反戦平和を唱える資格があるとは思わない。むしろ、精一杯に生きた人々の真摯な反省に基づく平和運動は、国民的な厚みを持つ上で重要である。 

むしろ『風立ちぬ』は、仕事中毒や健康状態ならば生きている価値がないというような根っ子の価値観こそ問題がある。それが戦前から戦後に続く日本の無反省な連続性を支えている。宮崎アニメは『千と千尋の神隠し』でも理不尽な状況に追い込まれた子どもが頑張る姿を「生きる力」と持て囃した(林田力「格差社会における『千と千尋の神隠し』の不条理」 ツカサネット新聞2009年6月19日)。『風立ちぬ』のキャッチコピーも「生きねば」である。
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